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項目 内容
ID J0502384
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一八)〔畿内・東海・東山・北陸の諸道諸国〕⇒津浪も襲来・翌年十二月まで余震続く。
書名 〔長島町誌 上〕
本文
[未校訂] かくして修築の成った長島城も天正十三年(一五八五
年)十一月二十九日の天酉地震で、本丸、多聞などが倒潰
し、石垣のみ残ったようである。天正十九年(一五九一
年)に、秀次が石垣、塀、矢倉などを修復したことが長島
細布に記されているが、二ノ丸の塀も無く、竹藪が生い茂
り、城門の扉もなかったようで、元の半分にも及ばなかっ
たようである。
 古来の伝承に本城を「二重城」と称しているが、この天
酉地震で城の地盤が沈下し、元の結構の上に更に築城した
ので言ったのであろう。現に長島中部小学校敷地の古井戸
の底から、巨材を横たえ巨石を並べた遺構が発見されてい
るが、或いは旧遺構の石垣の胴木ではないかと思われる。
 良尚も明暦年中に城郭を改修している。長島記、長島細
布、長島誌の記録を総合すると「先ず黒門を重修してい
る。黒門は本丸の正南にあって、初め漆を以てその柱およ
び扉を塗ってあったが、天酉地震後漸く旧観に復した。同
じく天酉地震で黒門前の巽櫓および塀が台ばかりになって
いたのを再営した。また搦手門西の八幡社の傍に木戸を構
えて番人を置き、この内にあった民家を外に移転させた。
搦手門外橋の所より北への小道三の曲輪堀の中程より西へ
の小道を、木戸を構えた後はこれらの小道を塞ぎ道一筋に
整理するなど、主として黒門前の修復および北西搦手門方
面の整理をしたのである。尚下屋敷に月法堂、達磨堂の二
茶室を設けて風流茶事をしている。また三ノ曲輪に茅葺長
屋二棟を建てて、大小小姓の独身者を住わせたことは、注
目に価する施設である。下屋敷内の勘定所、番屋、鷹部屋の
移転、長蔵一棟の新築など城内建造物の整理も行っている。
第15表長島輪中新田開発表
新田名開発年代備考
(中略)長十郎起(以下略)寛永四年(一六二七)平方の農民西村孫左衛門が天正地震の亡所を再開発、平方地先、現在同字のリの割り地
加路戸・見入輪中の開発―十七世紀後期の開発
 加路戸輪中では、最上流部の加路戸が、鎌倉時代末期の
長島絵図の中の長島の七島の東に、すでに唐戸または唐櫃
の島名のもとに見られる。古い文献に永禄二年(一五五九
年)に開発された記録があり、伊藤縫殿助(北勢四十八家
のうち)および、その幕下の太田自仙が居住していた。民
家八百戸あり、絹紬布・木綿織を業とする者が多く、庭訓
往来に「尾張八丈(島大布木綿のこと)加路戸より織出
す」とあり、付近では繁栄の地で、往来運送も便利であっ
た。―この機業者は織田信長の願証寺攻めの戦乱および、
天酉の地震で所々に分散し、織染業者となり、濃州岐阜に
居住して家業を伝えたものが多い。元亀天正の長島の戦乱
の際も、長島城の東に対する堡砦の一つが築かれた記録も
ある。その後天正十三年(一五八五年)の天酉地震のた
め、土地が湧没して亡所となった。
(杉江・長禅寺)
 観音堂のもともとの開基は詳かでないが、戦国時代の末
期には杉江の地は、高須城主徳永左馬の勢力下にあったら
しく、徳永が検地して観音堂を再営して、田畑少々を除地
としている。(当時の証文が長禅寺にあった)しかし長禅
寺が天酉地震で転退し、観音堂一宇が杉江村に残っていた
ものである。
また砂宮神というのがあるが、この神は水神信仰で紀州
海岸に多く祀る。天酉地震の春に水難除として祀ったもの
である。
 地蔵堂があるが、本尊は定朝作の地蔵菩薩座像と伝えて
いるが、作者の真偽は不明である。永禄・元亀の頃(一五
七〇年前後)までは、善美をつくした堂で門前も繁栄して
いたが、天酉地震で殿堂もことごとく大破してしまった。
寛文年間(一六七〇年頃)に堂を再興し新しく聖観音像も
安置した。これは坂手村の長伊藤三右衛門(日蓮信者)を
始めとし、村中の勢力を結集して完成させたものである。
その後看坊は平方村浄土宗徳念坊(億心)(延宝年中)、西
外面村仏土の浄土宗法誉一音坊(貞享四年)、同地浄土宗
在信坊(宝永年中)、同地浄土宗了円(正徳年中)と続い
たが、腹帯の地蔵として、近世の妊産婦の信仰を集めてい
た。(この寺も昭和四十五年に火災で焼失してしまった)
繁栄した頃を偲んで。
松杉林外碧雲幽 光陰悴然朝暮流
可観一生泡沫夢 知人間水上下憂
腹帯は地蔵汗めす二重三重
 坂手山大通院(後の西勝寺)寺址は金兵衛屋敷となって
いる。
 小島村の外に篠橋があった。元亀天正の兵乱に太田修理
の守った城砦のあったところで、落城後は天酉地震、洪水
などのためその度毎に欠損して小さくなり、形ばかり残っ
ていたものを、小島村の農民が起畑としていた。
 その後も洪水の度に欠けて、往時の十分の一ほど残って
いたところを、松平忠充の家士が松を植えて林とした。享
保十五年(一七三〇年)頃までは残っていた。
後木曾山流 前田圃阜疇
隣家親弄酒 手足互泥蹂
祖父祖母かたぴらそろふ小島かな
 当村に上道場(村の西端)というところがあるが、これは
安養寺の古屋敷で、安養寺の祖山内七助は元亀天正の兵乱
で、願正寺の配下で働き、後剃髪して念順と号した。天酉
の地震で堂屋倒壊し、安養寺(長島六坊の一)は鈴鹿市箕田
へ転退して寺基を定めている。中道場の地は東光寺の屋敷
跡である。東光寺も天酉の地震によって美濃国へ転退して
いる。なお字名に東光寺川田というのがある。下道場(村
の東端)は長次郎屋敷という。これは中島寺(はじめは善
正寺という長島六坊の一)の屋敷址で、その祖水谷兵右衛
門は、山内七助と同じく、元亀天正の兵乱に願証寺の配下
として働き、後剃髪して玄勝と号してこの地に道場を設け
た。なお水谷兵右衛門はその後織田信長の石山本願寺攻め
に参加し、石山本願寺勢として天正七年九月二十六日に広
芝口で戦死している。下記の感状が中島寺に残されている。
 水谷兵右衛門尉進退之事、別而被抽戦功之儀、上様事
之外御感之所、無其詮去月二十六日於広芝口討死之段不
及是非候、然ハ彼跡目一円不弁之儀ニ被聞召及候之間、
為跡目相立候様急度可被励馳走事肝要候、可被仰出候
恐々謹言
天正七卯十月五日
按察御橋
道明(花押)
水谷兵右衛門殿
御門徒衆中
 長島六坊の一であったが、天酉地震で美濃国中島村へ転
退して、寺号を中島寺と改めて、寺基を定めている。
 理衛門屋敷は善光寺址で、この善光寺も天酉地震で亡ん
でいる。(一説に善光寺坊主は震死したとも伝えられている)
 思うにこの狭い村の地域に四ケ寺も並んでいたものが、
一瞬の地震のために全部潰滅してしまった様は、その外農
家の潰滅も多かったであろうか、この地域の土地形成と考
え合せて、慄然たるものがある。以後この村は全く寺のな
い農村となってしまった。
 当村の字名に上記の上中下の道場、善光寺、東光寺川田
の外[呑我|どんが]堤、[小田|しようだ]、南川原、長尾、狭畷内、島田などが長
島記に記されている。
花も実も我まま村の寺の跡かな
 汰り込み――小島新道の元稲荷社付近である。中汰り込
みは元稲荷社地より一町余り西方の田圃、助右衛門動込み
は助右衛門という百姓の家の汰り込みで、何れも天酉地震
の際に動込んだのである。
 善田新田と云う有り。是は寛永十六年殿名村西外面村の
農夫開発するなり。予曰く、当所元亀天正の初め迄は出張
の城地あり。繁栄地にて即ち伊藤修理住此所。然るに天正
十三年の地震一時に泥土となる士農共に亡失す。其後四十
余年を経て新田となる。昔の十分の一なり。又曰加路戸の
肩の西にあり。武兵衛新田と云う。猛水の為欠失す。今は
大河となる。
 天正十二年(一五八四年)小牧・長久手の戦に、長島城
主であった織田信雄が、当社に戦勝祈願をして出陣してい
る。そして同年三月三日に賽謝のために胄一領を奉納して
いる。天正十三年(一五八五年)十一月二十九日のいわゆ
る天酉大地震のために、本社も大破したので天正十六年
(一五八八年)に再修が行われている。
 又木村高辻のうち押付村に出るところの左に日高日社
(祭神天照大神)があった。町屋、又木村の産土神として
崇敬していたが、天正十三年の天酉地震で、社頭が顚倒した
ので、御神体を西外面村八幡社に移した。故に町屋、又木
村は西外面八幡社を産土神とするようになったのである。
この社地には寛文の頃までは松樹など少々あったという。
下坂手村神明社
祭神 天照大神
 元和元年(一六一五年)五月下坂手村一番割の地に勧請
した。元和元年四月の大坂夏の陣に当村から役夫が多く出
陣し、五月八日の大坂城落城により無事帰村したのを喜
び、村中こぞって神明社を勧請し産土神として崇敬した
と、記録されている。
 当村にはまた石神(御砂神)というのがある。これは
「水戸のみつばの女なり」とあるが、川の神で、当地が木
曾川の川筋で流水が渦巻いているので、天正十三年(一五
八五年)の天酉地震の春に、下坂手村一反田の地に勧請奉
祀した。この社と同祖の川の神は桑名領内にもある(桑名
市深谷の御砂稲荷か)
 この社は阪手村の古社ではあるが、下坂手神明社の摂社
として崇敬されていた。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 144
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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