[未校訂]明応の大地震は七年八月二十五日丑の刻に発震したので
あるが、これは世間に東海道地震と唱えられ、伊勢、尾
張、三河、遠江、駿河、甲斐、相模、伊豆の諸国に及ぶ大
規模なもので、海に面した地方は何れも大津浪が襲来して
いる。
郷土では伊勢湾や熊野灘沿岸に津浪の被害が甚だしく、
護岸堤防の崩壊、人家の流失、住民の溺死等夥しい数に上
っている。当時迄「日本三津」の一と誇った津港や大湊港
はこの時に破壊し、殊に大湊とその附近では民家千戸が流
失、住民数千が溺死し、又志摩方面では約一万人が溺死し
たということが「内宮子良舘記」に書かれている。
更に津でも非常な被害で当時津興町にあった恵日山観音
寺の土境が埋没したということが文献にある程だから安濃
津港の破壊史実と照合して如何に惨状を呈したかが想像に
難くない。大日本地震史によると明応年間は元年から毎年
近畿地方に数回ずつ地震が続いており、御湯殿日記という
記録によると、あまりの地震禍に朝廷では諸神社へ鎮静の
御祈願を各奉行に仰せつけられている程である。
野代遺書によると、当時繁昌していた無畏野山徳蓮寺も
此の時山崩れに遇い大破したと記録されている。
野代遺書抜抄
無畏野山徳蓮寺往古号神宮寺嵯峨天皇御時弘法大師開基
也代々貴僧相継繁昌然明応之地震及大破其後天正十三年
之大地震堂塔悉汰回仏器大師御遺物至縁起等迄埋土中僧
尼敗失而可為幻無形也云々