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項目 内容
ID J0502087
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕遠江・三河・駿河・甲斐・相模・伊豆・京都・奈良・会津⇒十一月二十九日
書名 〔三重県多度町史〕
本文
[未校訂]明応の大地震は七年八月二十五日丑の刻に発震したので
あるが、これは世間に東海道地震と唱えられ、伊勢、尾
張、三河、遠江、駿河、甲斐、相模、伊豆の諸国に及ぶ大
規模なもので、海に面した地方は何れも大津浪が襲来して
いる。
郷土では伊勢湾や熊野灘沿岸に津浪の被害が甚だしく、
護岸堤防の崩壊、人家の流失、住民の溺死等夥しい数に上
っている。当時迄「日本三津」の一と誇った津港や大湊港
はこの時に破壊し、殊に大湊とその附近では民家千戸が流
失、住民数千が溺死し、又志摩方面では約一万人が溺死し
たということが「内宮子良舘記」に書かれている。
更に津でも非常な被害で当時津興町にあった恵日山観音
寺の土境が埋没したということが文献にある程だから安濃
津港の破壊史実と照合して如何に惨状を呈したかが想像に
難くない。大日本地震史によると明応年間は元年から毎年
近畿地方に数回ずつ地震が続いており、御湯殿日記という
記録によると、あまりの地震禍に朝廷では諸神社へ鎮静の
御祈願を各奉行に仰せつけられている程である。
 野代遺書によると、当時繁昌していた無畏野山徳蓮寺も
此の時山崩れに遇い大破したと記録されている。
野代遺書抜抄
無畏野山徳蓮寺往古号神宮寺嵯峨天皇御時弘法大師開基
也代々貴僧相継繁昌然明応之地震及大破其後天正十三年
之大地震堂塔悉汰回仏器大師御遺物至縁起等迄埋土中僧
尼敗失而可為幻無形也云々
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 122
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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