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項目 内容
ID J0400860
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(西曆一八五八、四、九、)二時、越中・飛驒・越前、大地震。先ヅ是ノ日午前一時頃飛驒ノ北部ニ烈震ヲ發シ、潰家七百十一戸、死者二百九人ヲ算シ、白川谷ニハ山崩ヲ生ジタリ。コノ時越中立山溫泉附近ナル小鳶山爆發飛散シ崩土常願寺川上流ヲ堰塞ス。次イデ約二時間ヲ經テ、越前北部ニ再ビ烈震ヲ發シ、丸岡・金津ニテ二百戸潰レ、加賀大聖寺ニテ百戸潰レタリ。常願寺川上流ノ堰塞ハ三月十日ニ至リテ決潰シ、家屋百二十餘戸ヲ流失シ、更ニ二ケ月ヲ經テ四月二十六日再ビ決潰アリ。百四十八ケ村ヲ通ジテ溺死者百四十人、流失並ニ倒潰家屋千六百十二戸、流失土藏・納屋八百九十六棟ニ及ベリ。
書名 ☆〔安政五年大聖寺町地震〕○後藤松吉郎著
本文
[未校訂]當時の記錄見當らず拙者九歳の時見聞したる記憶を左に陳述
す。
當時大聖寺藩士民の公稱を記事參照の爲めに左に表はす。
侍徒足輕小者町人百姓
本記事中特に侍と記載したるものの外は、士と書きたる中
には侍、徒、足輕をこむるものなり。
一、二月二十六日未明大地震あり各戸皆人家屋外に飛出たる
が引續き餘震頻々と發し、一同驚怖して家屋内に入つて住
居すること能はざりき。
小屋掛の模樣
一、侍の家にては家族を始め下男下女一同邸内に在る棒杭竹
竿等を捜し集め、庭木の蔭又は竹數の側らに突立て竹を切
り橫棧となし、繩を以て結び付け雨戸を持出し屋根を葺
き、入口を除く外四方を圍ひ、内側には呉座或は油紙風呂
敷の類を張り、地面に疊を持ち來りて何枚も重ねて布詰
め、火鉢及び鍋釜の類まで取來り、之を備付食物の煎燒に
供せり。
一、夜具ふとんも持出し、夜に入れば家内中一同に之を被り
て臥寢せり。
生活の有樣
一、知行取の侍は平常邸内に米庫を造置し百姓より年貢米を
收納あり、又扶持取の士は藩の米藏より入用の分貳俵參俵
位實用に供する丈受取家に備へあり。味噌及漬物は冬の季
節に各戸に於て一年分を製造して貯へあり。薪炭は秋季に
出入の農業者より一年分を持來り、各小屋に納めあり。食
物の用意は平素より差支なき樣に供へあり。
一、町家の面々は近傍士邸の垣根又は空屋敷或は川岸・砂原
等に小屋掛を連接し、或は同居の小屋を造りて住居したり。
一、當時は町人にても相當身上の家には各米薪炭等の備へあ
り、味噌漬物等は自家にて製造して貯へあり、不足の節は
出入の侍邸に至りて借用し何等不自由なかりし。
一、場末の貧民長屋住居等の者は協同して小屋掛を爲して住
居し、被害者の家々に妻子共々手傳に雇はれ相當の賃銀を
貰ひ、小屋内にて用ゆる米鹽薪炭類は相互に扶助匡救し、
猶不足あれば出入の士族町家の補助を受け敢て悲歎の聲を
聞かざりき。
災害の聞込
一、侍邸町家を論せず一町内に二、三戸多きは五、六戸大破
損を蒙りたる處あり。各戸共多少破損なき家屋無かりき。
一、侍邸のみにて後日修繕の目的立たず住居の出來ざりし家
二十餘戸ありたりと聞けり。
一、其他士分町家等大小破損の戸數統計記憶なし。
一、[小嶋|ヲシマ]町邊に火災發り二十餘戸燒失したりと聞けり。
死傷者
一、町家に於て震災の爲め兩參名ありたりと聞けり。
一、士分町家の別なく各町二、三名多きは五、六名の負傷者
ありたる樣に聞けり。
當時の家屋構造
一、士分の家は大凡本屋は木造にて屋根は茅又は小麥藁にて
葺き、掛出し庇類は栗の小板にて屋根を葺き、釘を用ひず
吹散らされん爲めに二、三百目乃至七、八百目位の天然の
丸石を並へ置在りたり。
一、町家の屋根は大槪栗小板にて葺き前同樣丸石を並置在り
たり。
一、土藏の壁は大凡破損せざるは無かりき。
一、以上の小板屋根殆皆破損し置石の多くは落ちたり。
一、死者又負傷者の多くは右落下の屋根石に打たれたるもの
と聞けり。
一、茅又は小麥藁にて葺たる家は倒潰せしもの迄も屋根の合
掌組織は毫も破損せず、其儘にて現存し割合に破損少な
く、仍て小者下男等の中には小屋掛の中に主人と同寢する
ことを究屈に感じ、其屋根下に入りて寢臥せし者ありたる
由聞及びたり。
因て他日に至り地震に耐へる家は茅葺又は藁葺に限るとて
評判せり。
一、假小屋に起臥したる日數は大凡三週間乃至一ケ月位な
り。但し破損の模樣に依り修繕未濟の家屋は此限りにあら
ず。
一、一ケ月程は公務勤番の外文武學校及び讀書習字の師範家
も皆休業にて、小屋掛出來たる後は壯年の士は小屋住居の
究屈を感じ、多くは野川に殺生に出行き魚鳥を獲て歸り食
膳に供し、兒童は兄弟姉妹近邊の友逹と庭内に遊暮し、殊
に侍の子弟は平素町家の人と交りなかりしも、震災に付彼
の邸前に出來たる町家の地震小屋に行きて珍敷話を聴き、
或は其子供を邸内に連來りて遊戯を成し、其面白かりしこ
とは老生も今日に至るまで忘却せず。
一、僥倖に大火災無く又負傷者も多くは輕くして次第に回復
したる由に聞及べり。
一、又二、三月頃は北陸道大聖寺邊にては年中の氣候好時節
にて、小屋に起臥し露天に居ても寒からず暑からず流行病
等も無く、其點は至極の仕合せなりき。
一、震災に罹り爲めに家屋を改築したる者には、前記二十餘
家の外のものにも材料の幾分松の木材を藩の政府より賜は
りしと聞きしも、其總數は記憶せす。
一、此の大地震を子供心に怖しく感じたる想像と承り及ひた
る被害の狀況を照合して回顧すれば、大正十二年東京の激
震よりも強かりし樣考へらる。
一、大聖寺邊は古より地震のありし所と見え、東南の風吹き
たる後無風となりて曇り暖氣を覺ふる時には地震があるか
も知れずと古老の話を子供心に承り居れり。
以上は七十五年前の見聞を追想したる次第故多少の相違な
きを保せず。猶御疑點は御遠慮なく御示下され候はゞ更に取
調べ申上べく候。(昭和六年二月二十五日)
出典 日本地震史料
ページ 728
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 石川
市区町村 大聖寺【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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