[未校訂]保小學校長 鈴木兼太郎氏通信
岐阜縣吉城郡河合村大字保 下林 庄助氏口述
同保尋常高等小學校長 鈴木兼太郎氏筆記
翁の經歷。私は河合村大字保下林庄助といふ者です。私に安
政五年の元田方面の地震の話をせよとの事であるが、今年八
十六歳、其當時十六歳で既に七十年前の事であるから(安政
は六年にて改元故二年間、萬延一年間、文久三年間、元治一年間、
慶應三年間、明治四十四年間、大正十四年間、昭和二年間、都合七
十年間)、充分に記憶してゐると云ふ譯ではないが、頭に浮ぶ
だけのお話をいたしませう。
私の姉が河合村大字元田の與作へ嫁にいつていたので、其關
係で私は十二三の時から子守にいつていた。大きくなつてか
らも與作の仕事を手傳ひをした。大字羽根の久六の家普請を
手始めに木挽を習つた。前後十七年間元田に居た。
元田の震災。私が十六の春安政五年二月二十六日の朝薪山へ
ゆくとて、今の午前二時頃から起きて榾火をたいてあたつて
いた。主人が云ふには、お前等は大層よい火をたいてゐるか
ら、おれも起きて熖硝でも煮ませうとて起き出た。自分たち
もそろ〳〵着物を着かへて山行きの凖備をしかけた。帶をし
てゐたら「がらつ」と大きな響きと共に大地がゆれてきた。
そら地震だ火をいけよといふので自分は火ばしで火をいけよ
うとしてゐると、そのうちにがら〳〵とゆりて露地へ、はね
落された。又引かへし夢中になりて爐邊に至りて火をいけよ
うとしたら、又はねつけられて露地へ落された。三度もどつ
て火をいけてゐると、又がら〳〵と上下動があつて、湯釜
が、かぎつるからとれて釜の湯が、どつと、いろりへあかつ
たので火もきえ自分も外へとび出した。出入口までゆくと姉
が子供を抱いてふるへてゐた。こんなところにと云ひながら
親子いつしよにかゝへて大道までつれだした。姉はお前は手
に火ばしをもつてゐるがといふので、驚いて本氣にかへつ
た。兄は池の中へはねつけられてざんぶとぬれてゐた。近所
隣皆一樣に逃げ出してふるへて居た。戸板を敷いてその上に
避難した。
立石の被害。元田の向ふに立石といふ在所があつた。此の夜
立石の久三郎といふ人、元田の與三兵衞に來て泊り合してゐ
た。大した音がしたから立石はどんなになつたやら案じてた
まらんから、いつて見るといふ。人たちはあぶないから止め
たがよいといふのも仲々聞き入れず。雪道をとぼ〳〵「あん
どん」をとぼして出かけた。すると川端までゆくと橋は落ち
て河水はぴつしやりとまつてゐた。川上の荒町も立石もつぶ
れたらしい。久三郎腰がぬけたが、とぼ〳〵かけつけて見る
と自分の家はつぶれてゐた。おい〳〵〳〵と呼べば家の兄が
たすけてくれと呼ぶ。家の中よりつれだしたが、こゞえてふ
るえてゐる。外に火をたいてあたらせた。さてよく〳〵考へ
て見ると自分の家は下へとんでゐた。お宮さんもとんでゐ
た。さがして見たら子供二人床板がぬけて其の儘ねてゐた。
又相向ひに神殿の床がぬけて御神體が子供と相向になつてゐ
たのも不思議であつた。
向山がぬけて荒町へつきつけ返しが立石の在所を荒したらし
い。神社の大森の杉栃の木など根こぎになつてゐた。久三郎
の嫁さんが居ないと云ふので所々を探したら、百間餘下の泥
砂の中へもまれ半身を逆さに埋まつて、腹部は破れて五臟は
とび出し、實に見苦しき死を遂げてゐた。
久三郎家族十三人の内七人死す。善右衞門二人死す。三郎二
人死す。生殘るもの八人であつた。
荒町の被害。荒町は五軒あつたが向山がくづれて、どつと荒
町へなだれこんだので、全部山の下に埋まつて全滅した。不
思議に清藏のおなを(歳二十)が一人生存してゐた。おなをは
何心なく其夜奧座敷のふとんを積んである側にねてゐた。地
震にて床板がぬけ床板にのつたまゝ、ふとんと共に元田の高
橋の下まで流れきた。よくねてゐたものだ。此震災も知らず
寒いことだと思ひだん〳〵ふとんの中へもぐりこんでねてゐ
た。村人に尋ねられて驚いて、ふとんの中から出て來たので
命がたすかつた。
震災餘話。
元田方面の話。與作に源次郎といふ者が臺所の隅にねてゐ
た。上下動の烈しいため蒲團や着物の袖を柱に押へられて起
きられないので助けてくれと呼んでゐた。自分がいつて着物
をさがしてつれ出した。元田にて七十三人死んだ。死人を戸
いたにのせて、ならべてあつた。死んだ半も馬もたくさんよ
せて來て一所に心ばかりの葬式をした。
善右衞門の人は家のまゝ百間もながれて家の中から、はんで
出た。午後四時荒町の山ぬけが切れて山なす大濁水が出て來
た。そらつと云ふまもなく、どう〳〵おし出した。
漆方面の話。元田の下に漆と云ふ在所があつた。これも向町
がぬけて居るので滋に又其水が溜るので、忽ち又そこに大海
が出來た。與作の前の河迄水が溢れて來た。この水がやがて
漆といふ在所の中央を貫いて流れ出る事になつた。そらつと
云ふ間に又四郎、國右衞門の厩へぶちこんだ。大したさはぎ
であつた。見る〳〵田地は流れ畑はほれてぬけくづれ、源助
の倉庫は、ふはり〳〵と流れ出した。そして中流でこはれて
しまつた。
餘震。元田では一時間おき位にびり〳〵〳〵と地震があるの
で、一週間もつゞいた。其後たび〳〵ゆれるので五十日位や
まなかつた。
共同小屋掛。其間自分の家に寢るものは一人もなく、二三軒
共同して田の中に小屋を作り、皆一所になつて物淋しく暮し
た。たま〳〵用があつて自分〳〵の家に入るも、がた〳〵と
いふや、一もくさんにとび出す有樣であつた。
龜裂。元田の後山に大なる龜裂が生じた。いつぬけるかも知
れぬと云ふので心配でたまらん。これがぬけたら、もろとも
だといつて顏色もなく唯念佛申してゐた。
土地の境界。土地の境界は地震のために、うつりの合はぬこ
とが、たくさんに出來たが、組内のものが皆出て目分量に處
置した。
熖硝の話。與作の家で地震の時湯釜がはづれて釜がひつくり
返つた時に、蕁蓋がなくなつて非常に尋ねたが見當らない。
後年熖硝をつくるといふて緣下の土を熊手で打ち起してゐる
と、そこからとんででた。熖硝はそのころ何處でも作つたも
のだ。まづ緣の下の土をうち起し夫れに枯草、わら、塵芥の
如きものを入れて土を覆ふておく。夫れが腐熟すると緣の下
の土をとり出して水を入れて汁をとり、これを釜に入れて煎
じ、だん〳〵に煮詰めるのである。終りに白色棒狀の熖硝が
出來、この結晶物が古の戰爭に使はれた。
荒町上流の水溜。向山がわれて荒町が埋まると河水は一水も
通らず、忽まち黑淵といふところまで大海となつた。平水と
なる迄には三年もかゝつた。大きな鱒が二三十匹も頭をだし
て泳いでゐるのを通行人が認めた。里人は荒町の亡靈だとい
つてゐた。
流死遺體。大字羽根の下牧といふところへ流れ上つた者が多
い。其他各所へ上つた。人名を辯ぜず、顏面は腐つて、血緣
のあるものが尋ねて其名を言へば鼻口は一寸露がたまる位で
誰々であらう位で、判らぬものもあつた。何れも其地で火葬
し遺骨をもつて歸つた。
清藏の婆さんだけはよく判明した。それは生前子宮の脱出し
てゐる人だつたから早く判明したのであつた。
村内の覺。
天生。十五六軒つぶれ。
月ケ瀨、保。つぶれず、每日人夫に出てくれた。
元田。丸つぶれ、羽根では長左衞門一軒のこる。
所感。自分も若い時の事であつたから確實に記憶してゐない
が、何しろ七十年も前の事だから充分でないが、私も長いき
してゐるけれど、あの時のようなおそろしいことはもうない
と思ふ。
先日一寸用事に學校へ來たとき校長さんに震災の事を聞かれ
て、夫から每晩ねてからも考へたので大分思ひ出した。今日
は日曜だから約束通り地震の話にきました。何のおためにも
なるまいが書きとつて高山の測候所長さんの方へやつて下さ
い。そして私にも紀念に一枚かいて下さい。
南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。
有がたうございました。
昭和二年十二月四日認
(老人の話の内には種々地方の方言がありますからして、幾らか
判り難い所もありませうが、其邊の處は宜敷御了解を願ひます。)