[未校訂]○卑賤の老夫天變を知るの條
こゝに二三千石を領する家あり。その門番なる老夫ありて、
年來老實に仕へける、元來卑賤にして文學もあらず、尋常の
叟なりしが、十月二日の薄暮に至り、門外に出て四方を瞻け
り、たちまちに内に入その同僚に示していはく、今宵かなら
ず地震ありて、その動搖はげしからん、家に居らば怪我ある
べし、兼て用心をなすに若ず、其用心とは他ならず、第一に
食物なりとて、暴に少しの米を炊ぎ、勝手に入りてこれを焚
く。同僚は聞て諸共に米を炊き焚もあり。頓て老夫は莊内を
馳まはりて人々にそのよしを告けるに、これを信ずる者もあ
り、また彼老夫何をか知らん、それ天變地妖の如き賢人君子
も知る事難し、況やかの老夫をや、思ふに狐狸に變詐されて、
かゝる譫語をいふものならん、と多く嘲り譏りけり。老夫は
飯を焚終り、これを小さき櫃に入れ、味噌香の物など取添へ、
裏の方なる馬場へ持ゆき筵を敷て其處に居れり。同僚もまた
こゝへ來て、居るもの總て三四個、さま〴〵の雜談に、はや
戌刻も過ぎ寅刻も近づく、しかれどもさせる事なし、この夜
天色暖にして、寒冷にあらざれども、時これ十月の初なれば、
久しくこゝに居るに堪ず。老夫に騙されし心地して、我部屋
に歸るものあり、また大にこれを信じて、いまだ夜半にもお
よばぬを、心短く歸ることかは、と猶こゝに居るもあり。兎
角する間に夜廻りの柝ははや亥刻なり。この時天色朦朧とし
て、半天に雲覆ひ、星の光り近く見ゆ。老夫は猶四方を視や
り、物もえいはず獨點頭、かゝる折から旋風の暴に落すが如
き音して、大地忽ち鳴動なし、四邊の草木波のごとく、屋舍
の崩るゝ音耳を貫く。老夫は偖こそと筵の上に聢と坐して俯
き居たり。暫時ありて動搖靜まり、老夫を始め圓居しものど
も徐々とたち出て、莊内を見巡るに、或ひは家の潰れし方あ
り、或ひは桁落梁をれて、これに壓れ死するもあり、また手
足を摧かれて、死もやらず呻くもあり。子は親を索ね親は子
を喪ひて泣叫ぶ、そのさま更に目もあてられず。奧はいかに
と行て見るに、是また大に崩れ損じて、往べき方へはえもゆ
かれず。火爐には物の覆ひかゝりて、既に火の燃んとするに
ぞ、老夫は同僚にかくと告て、水を汲來りこれを消し、まづ
その恙なきを得たり。かくて後この家の主人この事を聞て、
老夫を召し、汝何とてこれを知る、實に汝なかりせば、この
家忽ち燒土とならんを、火を鎭め莊内を見廻りしこそ功績な
れ、と數多の褒美を賜りければ、老夫はこれを謝していふや
う、下僕卑俗凡夫にしていかでか天地の變を知るべき。但し
この身不幸にして、若年より今に至りかゝる地震に三度あひ
ぬ。下僕は元越後の國三條の生れにて、去ぬる文政十一年三
十ばかりになりけるが、大地震ありて家潰れ、死するもの數
を知らず。下僕僥倖にその難は免かれけれど、失火に遭て家
財農具殘りなく燒失ひ、詮方なくて迷ひ出、隣國なる信濃へ
ゆき、こゝに月日を送る程に、弘化四年二月に至りまたかの
國大地震あり。折しも善光寺如來の開帳いと賑はしくて、
國々より參詣の人夥く、こゝに集會たるもの故に、即死怪我
人多かりしは、人の皆知る所、さてその節も僥倖に恙なくて、
それより後江戸へ來り年久しく御恩を蒙ふり候なり。然るに
最初三條にて大震にあひし時、博識る人のまうしゝには、凡
大地震のあるときは天色朦朧として空近く、星の光り常に倍
す、また溫暖なるもの也、と聞たるを今に忘れず、每夜空を
うちながめ、星常の如くなれば心を安んじて候ひしが、信州
地震は二月にて彼國別て寒氣強きに、この頃すべて溫暖なる
さへ、常には變ると存ぜしに、その前夜より星の光り殊に大
きくして昂參の中の小星、俗に糠星と唱ふるものも、鮮明に
見ゆるのみか、鳶舞ひ鴉噪ぎ立、雉子聲を和す事あり。都て
これ地震の兆と、親しき人にもこれを告、竊に凖備なしける
が、果してその翌晚に大地震になりけれど、凖備せしまゝ怪
我もなさず。されどまた此處にても家財盡く失ひぬれば、詮
方なくて江都へ出ぬ。思ふに老若數を盡して、死したる中に
恙なきは、全くその前兆を聞おきたる故なりと、夫より後は
いよ〳〵信じて空を候がはざる夜とてもあらず、然るにこの
一兩日また地震の兆ある故、其當否は存ぜねど人々にも告た
りしが、卑賤の者のいふ事と侮り給ひし人々は多く過給ひけ
り。またそれを信ぜし人はみな恙なく在するこそ下僕が歡び
なれ、といひたりしかば、主人は聞て野夫にも功の者ありと
は當にこれらの事なるべし、と大に歎息せられしとなん。
○流言を信ずれば禍を招く條
○前略六日七日の頃なりけん、今夜かならず津浪ありて、芝高
輪はいふにおよばず、大川にも遡り、神田明神の坂下まで潮
大に來るべし、と誰いふとなく流言す。此頃恐懼に魂も身に
副ざる人々等是を聞より前後をも思ひたどらず、駭きて虛を
以て虛を告る、こゝに於て無智の小人婦女小兒の輩は恐れ惑
ひて、力に協ふ資財を負ひ或は荷ひて、高き方へと立さる事、
幾千萬といふを知らず。適智量ある人の決してさる事あるべ
からず、心を安んじ止まれ、と理を説諭せど噪ぎ立、時の勢
ひ制しがたし。因て家内悉く立避るものも鮮なからず。然れ
ども敢て事なし。當下肇て驗なき流言ならんと半覺り、悔や
みながらたち歸り、見ればその間に資財雜具奪はれし方も多
くありとぞ。思ふに賊等その始め人々假屋に在し頃空しく過
しを遺憾に思ひ、巧みて箇樣の流言なし、人の立避るを窺ひ
て、恣に竊みしなるべし。是等の事も豫てよりよく心に認お
きて、いかなる變異の風説ありとも、その理を默識なし、眞
僞を篤と攷へて、その言に惑はざること才知ある人といは
め。○下略
○地下より火氣を發するの條
這回地震のとき地下より火氣を發す。余が友下谷池の端に居
れり。破驚地震よといふほどに、急ぎ戸のかたへたち出る
に、亥子の方に當りて大に光を發す。但電の如くならず、そ
め幅何十丈とも量りがたきが、一面に火氣たちて、須更に消
る。これ地中の火氣發したる光りならんといふ。他所にて光
りの眼に遮りしといふ人あれど、家籠みまたは樹木など茂り
たる地にては明らかに見えず。殊にかの大震にて恐懼のをり
なれば、大かたはこの光りを知らぬなるべし。池の端のごと
きは西北廣くして、遙に東叡山の森あるのみ。因てその光り
を明かに見たり。但當下漁獵に出て品川澳にありし人の話
に、江都の方にあたり電のごとく三四箇所見えけれど、尋常
の稻妻なりと思ひ做してありけるが、後に聞けば地震なり。
かの電の見えたるは、地中の火氣發したるにや。是をもて見
るときは、世俗にいふ雷霆と同理なりといふも誣べからずと
語りき。○中略さて地震後十日二十日を經て、暗夜四方に光り
を發す。譬へば遠き電の如し。この事その頃人に語るに、こ
れを見たる者多し。因て思ふに地中の陽氣既に大に發すとい
へども、いまだ盡く出竭さず。その名殘晝夜とも漸々に發す
るか。晝は太陽の光りに見えず、夜のみたゞこれを見るな
り。高き岳に登りて見るに、その光り何處と定まらず。今そ
の身の居る土地よりも火氣發するなるべけれど、其處にある
人の知らざるのみ。