[未校訂]安政元年に起つた天下大仕掛の大地震を記述するに當つて先
づ丈六寺の舊記から抄出すると、「嘉永七甲寅十一月初四日
巳上刻、俄地震、與尋常不同、凡震動三四刻餘、○中略于時五
日夕陽至申中刻、俄大地震雷動半時餘、地裂家倒、轟々山鳴
谷響、其音如崩可一時、或疑大地變而爲海哉、天地の變災不
知其如何、實是喪膽亡魂、又云津浪來、各人趨山上去、在當
地者當村及近鄕之者、携家財牽牛馬、登山秋葉神前、各祈無
難、于時御城山早鐘頻鳴、無程火烟上虛空、○中略次小松島浦
出火、諸人怖津浪、更一人而無居宅者、捨家財趨山野、妻子
離散而逃、實如逃虎口、夫豈有誰防護者哉、故火勢縱橫、燃
浦中一時燒失、但神田幷橋筋與祇園社八幡宮並地藏寺而己、
僥倖免災害、其餘悉爲灰燼矣、」と見えて居る。當時小松島・
田野・日開野等は芝山・前山・天神山等へ避難した、時に日開
野の向井與吉はか弱い子供であつたので、馬に乘せられて天
神山へ赴いたが、其時小松島は一面の火となつて、天神山ま
でも照らして來て白晝の如くであつたと云ふ直話である。次
に小松島の模樣を述べると、槪ね下の如くである。
五日の夕刻大地震が搖り出すと同時に、川口には山の樣な津
浪が起り、民衆は大いに駭いて命からがら各處に避難した。
此時北町光善寺の西隣にあつた料理屋の小川屋は一番に倒れ
て焚火を伏せ込み、炎上して火元となつた。されども誰一人
として消防するものがない。それでとうとう光善寺に燃え移
つて堂宇を倒した。更に火の粉は遙かに飛んで東側一體を烏
有に歸した。北町は亦殘らず灰燼に化したので、丈六寺の舊
記にも見えた通、神代橋筋と祇園・八幡兩社及び地藏寺丈が
殘つたと云ふのである。こんな有樣であつたので、德島市街・
小松島の大火と併稱して今猶人口に膾炙して居る。併し高浪
は幸にして聊か上陸したばかりであつたと云ふ。
尚ほ丈六寺の舊記を續けて記すと「總而從城下北鄕者倒廢多、
南方少、當山亦少廃損、此夜震動凡二三十度、就中亥下刻震
動殊甚矣、從是數日震動晨昏時々、然次第爲微動、國中無居
家者。總假構小屋居住、凡可半月矣、同月十六日大雲、其房
可三四寸者降、見者稱稀有也矣、蓋聞、霜月四日巳刻地震者、
遠州・豆州・駿州等五國大地震、而荒廃亦多云、又於當地者、
五日申中刻大地震、就中土州・阿州荒廃甚多矣、」とあるので
大要が分つたから、下には地方地方の模樣を拾つて述べよう。
田野々の山の神の上に永代伐らない契約のある三本松があ
る。其處には舊七月十六日に大人小人入交つての角力があ
る。其の角力場より下は現在赤裸々に見受けられる。そこは
安政元年の大地震に龜裂して居たのが翌年崩れた跡だとい
ふ。今の福原村内では田野々村の杉地越福原川北の山上等は
處々破裂し、石飛んで火を發し、其の危險な事は口で云へな
い。其の破れ口は今に殘つて居る。當時十七八荷入の小便桶
の小便も搖り出されて少しもないやうになつた。福原村の人
々は皆願成寺に集つて、顫ひ戰きつゝ光明眞言を操つて命乞
ひをしたと云ふ。
田浦・日開野方面の噂では、安政元年申の十一月三日より同
月末まで、始終西方の中天に大きな雷のやうな大音響を發し
て強震した。別けて四日の三時頃から五日にかけて晝夜間斷
なく強弱交々震動して、五日には海嘯が來ると云ひ出してか
ら、人心恟々老若男女避難した。其時中島方面では、新居見
の天神山に逃げて居た。又家にあつても夜は屋外に板又は疊
で寢臥したと云ふ。
江田村では川より西は西須賀の杉尾山川より東は芝山に逃げ
て居て家に居るものは一人もなかつた。津浪は江田の橋まで
上荷船を押上げて來た位であつたと云ふ。
芝生もまた小松島其の他と共に同地の大岳へ避難した。
當年(大正十二年)七十四歳で當時の模樣を實見した新居見の
庄野角藏の話に依ると、同村の人々は村社春日神社の裏手後
の方に當つて居る東山下のおま石と云ふ處へ避難した。然る
に同人が避難する少し前に赤澤・上井兩家の倉の大壁が一時
に墮落したと云ふ。
大原浦籠の川口では土地が三尺も持上つた。さうして四日の
大地震後夕方には潮は落ちて沖合遙かに引去つた。然るに間
もなく二丈五尺餘の津浪となつて押寄せ來り、餘勢は本庄丈
六寺近邊に及ぼした相である。當時籠の住民は山上に避難し
た。折から三日に亘る小松島の大火で、餘炎は大神子・籠ま
で照らして磯邊の砂まで暗夜に見られた相である。其時同地
の藻風呂は水底に葬られたが、少しの狂ひもなかつたのは、
流石藩公の威力で築いた値打が見えたと、今も昔語になつて
居る。
沼江では山は土石が崩れるので、田畠に小屋掛して避難した
とは、實地に出遇ふた古老の話であるが、善入寺の過古帳に
は次の如く見えて居る。
嘉永七寅年安政と改元、其の十一月四日朝四ツ時地震半時ば
かり、西より東へ搖る。又五日七ッ時大いに搖る。後鳴ること
甚し。其の時處々津浪來り、小松島大火、○中略津浪の時には
泉無き樣になる事噓にてはなく、當院門下泉水少しもなきや
う相成り、其後四月程して水元の如くなり、石原二高坊崩る。
○中略其の餘痛み書くに遑なし。東都大地震は卯年十月二日、
大阪は當國と同時なり。
星谷では當時字灰燒に人家があつたが、居られないので下へ
逃げて來た。されども野田尾あたりでは其儘其處に居つたと
云ふ。
生名方面では山・藪・磧等に小屋を掛け、或は鶴林山の麓へ避
難したと云ふ。猶この地方では往々地割を生じたと云ふ。
與川方面では山ざれ石飛んで火花を放ち煙が立つた相であ
る。現在同地前山の山上に牛の爪と云ふ大きな岩がある。其
の岩の上に又一岩石が重つて居る。これは地震の當時餘所か
ら飛んで來て重つたものだと云ふ。