[未校訂]◎安政地震記念碑
香美郡岸本町飛島神社境内に在る安政大地震之記念碑の文
諺に油斷大敵とは深意有る事にて假初に思ふべからず。安政
元年寅十一月之事なりき。朝五時頃常に覺へぬ程之地震し
て、岸本浦之鹽之さし引十間餘の違ひあり、又手結之湊内も
干揚りて鰻をうることなど夥し。同日兩度に小震す。しかわ
あれど、さわり驚く人もあらざりしを、翌五日八ツ時大に震
動すること三度、夕七ツ時過大雷雨のごとく響くとひとしく
大地震す。こはいかにと衆人驚く程こそあれ、家藏高塀器物
之崩れ破るゝ音、更にいふ計りなし。逃んとすれど目くるめ
き自由ならず、ふらふら家を出けるに、津波打乘りて、當地
は德善町より北之田□赤岡西濱並松の本吉原は庄屋の門まで
に及び、又川尻之赤岡神輿休のほとりまでに至り、古川堤夜
須堤も押切られて、夜須の町家など過半流失、かくて人々は
老を扶け幼を携へ、泣叫びつゝ王子須留田又平井大龍寺の山
へも逃登りて命助りぬ。此時國中の官舍民屋多く轉倒し、就
中高知下町幡多中村とも失火ありて一圓燒失し、凡そ怪我橫
死何百人といふ事なし。幸甚なるかな、此地は神祇之加護に
よりて人之怪我もなく、彼山々に住家を構へ、日を經るに隨
ひて震もいさゝか穩かになりしかば、惠あまねき大御代の天
を悦びつゝ、皆己之家に歸りきぬ。抑寳永四年之大變は今を
去ること百四十八年になりぬれば、又かゝる年數には必ず變
事の出こんなどいふ人もありなんど、世變はいつあらん事豫
め知りがたし。されば常に兎もあらん時は角と用心せば、今
其變においても狼狽せざるべし。今之人も寳永の變を昔ばな
しのごとく思ひて、既に油斷之大敵にあひぬ。さるによりて
後世之人々今之變事を又昔噺のごとく思ひて、油斷之患なか
らしめんため、ことのよしを石にゑりて此御社と共に動きな
く萬歳之後に傳へんと、ふるひおこしたるは、里人の誠心の
めでたき限りにぞありける。干規たまたま高見の官舍に祗役
して倶に彼之變事に逢ひれたば、其よし書てよと人々の乞ふ
にまかせて、かくは記し侍りぬ。穴賢。
安政五年戊午季秋穀旦
德永干規誌
前田有稔書
澤村虎次刻
○嘉永の地震
嘉永六年癸丑○七年甲寅ノ誤十一月五日、予は十五歳の時なりし
が、夕方買物用にて町へ往かんと、隣家なる北代八次(當時
は無苗字にて御手廻の八次)方に我姉の居るを見懸け、何か
言はんとして立寄りたる際、何とは知らずゴーゴーと鳴りな
がら大地動搖し始めたれば、スワ地震ぞと言いながら飛出け
れば、家内の者共も走り出でしに、入口の障子のバラバラと
倒れたるを、八次の娘のお久萬(後におたみ)がおなん○母ノ義障
子がと言ひ障子に取り付居たるを誰か引出し、一同家の前な
る畑中に集り居しに、震動烈しく立て居れざれば、孰も膝を
地に付けて居れども、動搖尚甚しく、予は畠に引き殘し在り
し大根に取り付き倒れぬ樣にして居りしに、風も無く靜なる
夕方なるに何處ともなくザワザワと騷しければ、頭を上げて
傍を見れば、四五間位の距離にある柿の樹の家の軒よりヅッ
ト高木の梢が西よ東よ地面をシワキ付るを見し時は、只夢の
心地して、五六人集り居る者一人として一言を出す者なく生
たる心地もせざりしに、暫くありて漸く鎭りければ、蘇生の
心地して立上り見れば、北の山中一面の煙に覆はれ山の見へ
ざるにぞ、扨は火事の起しかと能く能く見れば、煙にあらで
山も埋る如き土煙なれば、コハ何事ぞと見やる内、山上に人
聲の喧しく聞へければ、何事ぞと注意すれば、源五郞岩(源
五郞岩は現在森下馬三郞と保木利道との居宅の中間へ延長せし山の
畝筋の中腹に在りし大巖石にして、岩の頂上廣くして、亡父等の呑
仲間連春每に花見遊山に五六人も列坐して酒宴する程の大岩にて、
下なる二三の岩に懸り、其下は廣き岩窟にて、中村嘉六の逃走して
隱れ居たる程の大岩)が墜落せしなり。折節久しく日照續きの
爲甚しく乾燥し居りしかば、大火事の如く土煙立てゝ東の谷
間へ落、夫より森下が家の後の一段上の畑に落止りたり。而
して不思議にも其岩が元山上にありし如く方面を變へず、殊
に岩面東南の方に一本の榮へたる松樹のありしに、其儘にて
元の如く据り居るなり。其岩の周園を測りたるも今確と覺へ
居らざるも、大凡高さ彼是二三間梁に四五間の桁行位の家屋
程ありて、其處に落ち止りたる震動の爲め、森下の家の庇の
落ちたるにても其事情を知るべきなり。而して其岩は爾後數
年間に亘り森下百藏(馬三郞父)が破碎して賣却し、今は其跡
形も無くなりぬ。
扨其夜は風もなく至て靜なる夜なれども、地震は絶へずゆり
て、家屋内に寢るを得ざれば、隣家二三軒八次が家の前なる
大根引きあげたる明き面に莚を敷き、十數人一團となり、保
合に蒲團を懸けて一夜を明したるに、翌朝見れば、蒲團の上
は雪の如く霜の厚く降り積みたり。斯る時變なればこそ星を
戴きて風かこひさへなき寒夜の野宿は思ひも寄らざる事なる
に、地震に肝魂を奪はれ、さのみ苦痛も感ぜざりし。翌朝近
邊を見廻れば、谷川には一滴の水なく川底まで厚氷となり居
たり。隣家貞藏(今の安並丑太郞の父)が居宅は、床下より坪一
面及地續なる田畑庭園一面に裂けて其割れ口から水を噴き出
したるが凍りて、久しく照り續きたる地面に奇異の觀を顯は
したり。此裂口より水の噴出せしを戸波の者が町へ來りし歸
路、角の許より見たるに、家の棟より遙に高く噴き上げたる
由。此噴出せし水の凍りて地上一面碁盤目の如くなりしは、
如何にも不思議に見へたるが、此土地は往古より瓦製造用の
土を掘り取りし所なり、此土を掘り取るには地面を方形に掘
り下げ、粘土を掘り盡せば、跡地を埋めて其傍を掘り掘りす
るゆへ、埋て耕地となりし後は、其跡は見へず成り居たるを
地震の爲に噴水せしなり、右は翌六日實見せし事實なり。其
日は前夜の野宿に弱り、面々思ひ思ひに臥床の準備せしに、
我家には八十二歳の祖父直藏の老耄して精神不確實にて、地
震を恐るゝの感じなきも、決して家屋内に寢る事の出來ざる
ゆへ、八次宅の畑地内我家の西の方に祖母宮の社(當時同社は
往古山麓迄掘り下げ耕地とせし時取り殘したる形ありて、少しく高
き所へ四五尺四方程の板石を置、其上に祠を建、其周圍は藪にて、
境内は神祭の節氏子の十數人集りて祭典を行ふ程の廣き地面あり)
地の廣場へ地震小屋を拵へ(當時祖父は前述の體にて、父は高知に
在勤中、予は小供時代にて病身なる母の看護をなす等の形勢にて、
小屋掛に困難なるより、鍛冶屋「鍛冶彌次右衞門の妻は我父の從妹
なりし」より、弟の金次を手伝に差越し呉れて、此補助により小屋
建たり)夫より晝間は家に居り、夜は假小屋に止宿し、追々
隣家の者等は家に歸りしも、我等は前記の都合ゆへ尚久しく
小屋住居を續けたり。
○大汐來るとの流言
今に至りては確と其日を忘れたるも多分七日なりしと覺ゆ、
雨の降り上りにて、寒中に似ぬ寒からぬ夜中、例の地震小屋
に居たるに、何か頻りに呼聲の聞ゆるゆへ、能く〳〵聞け
ば、大汐が來ると呼ぶなり。地震に恐怖し居る折柄なれば、
實否の詮議などする者一人もなく、取る物取りあへず、逃出
したり。予等は祖父を連れ出し、山下の古屋敷より現今我家
の後の山上へと逃登りしに、祖父の這ひ登るを扶けつゝ、現
今眺望所に掘り開きある邊迄上りて休息し、市中を見渡せば
雨上りと言ひながら、時ならぬ靄の低地を覆ひ、恰も一面に
水の湛へしに少しも異らず見へければ、近邊の者共我先にと
登り行けども、我々は老祖父の歩行困難ゆへ、手を引き足を
扶けて登り居りしに、隣家の勇七(山添馬太郞父當時熊太郞)來
り、同人は屈竟の若者ゆへ、祖父を背負ひて上り行く途中、
濱田虎吉氏(田中伯爵の叔父後に那須信吾氏)は味噌桶を擔ひて
登られたり、最早山腹に至りしも、嶮しくて到底登り得ず。
暫く休息して南方を眺望すれば、御土居の上なる古城山には
御登りに成りしと見へ、夥しき火の見へたり。暫く休息する
内、汐の込み來りしと見へたる靄も消へ、汐の來る樣子もな
ければ、一同下り始め、我々は頂上まで登り得ざりしが、却
て僥倖にて、衆に先達て下り來り、夜半にてもありしが、小
屋に歸へれり。
抑もこの大汐來の風説は、誠に古來未曾有の珍事にて、地震
のため人心非常に恐怖せる場合なれば、事實の有無をも見定
めず逃げ出したるは勿論なるも、斯く容易に飛び出したる事
實に於て頗る不可思議の事ありしを、後日に知りたる事もあ
りて、兎に角現今に至るも、其理由の明瞭ならざるも不思議
の事どもなり。第一右に記せる如く、雨上りにて寒中にも似
ず春の如く、市街始め低地一面靄にて湖水の如く見へ、御土
居よりも古城山へ御避難あり。一般の婦女老幼に至りては論
ずるに足らざるも、後には大膽不敵の名を天下に知られたる
那須信吾氏の如きさへ味噌桶を擔ひて登山せられたるにても
他は想像に難からざるべし。尚明治八年に至り予橫畠村にて
戸長奉職中村民の噺に聞きし、大汐當時村民一同老幼を扶助
し馬を曳きなどして、黑森の絶頂に上りしに、北の方遙にエ
リモン寺抔の高山既に一面の火の見へしとぞ。役の地は態々
急飛脚を送るも數時間を經ざれば到着すべからざる國境近き
遠距離の地なるに、同時に逃登り居たるなど、何とも想像の
及ばざる異變にてありしなり。
右地震當時予が父は高知本町なる佐川邸に交番在勤中にて、
留守許には前に言し如く八十二歳なる祖父の老耄して常識を
失ひ在りて、地震當時部屋に焚火して居るにぞ、早く出給へ
大地震なりと言へば、何を言ふぞ、時化とでも言はゞこそ地
震位に家を出ると言ふ事やあるとて出でざるにぞ(祖火等若年
の昔子の年に大暴風ありて、古老は子の年の大時化とて大に恐れ居
たるも、大地震に逢はざれば却で地震の恐るべきを知らざりしなり)
中々困難せしに、其後とても地震小屋住居に大ひに世話やけ
て父の歸宅を待詑び居しに、漸く八日に至り近日歸宅すべし
との手紙到着したり。