[未校訂]調査
土佐沖に大震あり、土佐、阿波、紀伊三面に激烈を極め各所
に出火あり、高知にては二五〇〇、德島にては一〇〇〇、田
邊にては七〇〇戸燒失叉津浪は紀伊の西海岸及土佐灣に非常
の災害を與へ流失佳家紀伊領内八〇〇〇、田邊領内五三〇、
土州侯領内八五〇〇戸に及び尚ほ津浪は大阪灣にも侵入し木
津川、安治川に入り、船舶損失一五〇〇、溺死者四〇〇人に
達せり。
尚ほ本縣沿岸の狀況を示せば、
加太町 當時の總戸數は六〇〇、當時の人口は三〇〇〇、地
震強大津浪襲來の風説立ち村民全部山へ避難し人畜等に
は被害無かりしも濱邊の漁船を浚ひ川口へ漁船を押込み
破壞したり。爲に加太橋、潟貝橋は危險にて通航を停止
せられたり。
和歌山市(若山) 地震強く火災所々に起りしも津浪は輕く土
塀燈籠等を倒潰せし外津浪は紀の川口より侵入し傳法橋
下へ船五〇餘隻累積破壞せり。叉北島磧に碇泊したる四
百石積の廻船は坐洲せり。(水島氏「新古見聞覺」)
同(和歌浦町) 強震にて家屋震動烈しく津浪の襲來を虞れ村
民は廣き所叉は高き所に避難したるも玉津島明神並に東
照宮の神靈の加護にて津浪は少しも來らざりし由なり。
爲に人畜被害なし。熊代繁里の手記にも神の守護により
被害なき旨記しあり。
紀三井寺村 異樣な音響と共に激震起り津浪襲來し紀三井寺
大門の初段迄潮水浸入し佳民名草山に避難。(鄕土誌)
海南市(黑江町) 海南市は紀北第一の慘害を被れり。流失叉
は倒潰家屋夥しく津浪は午後六時頃より四五回も潮の滿
干あり、中にも三回目の高潮は頗る猛烈な勢を有し南濱
にて床上一尺浸水、市場黑江坂の下より北は中程迄に及
び天王山御坊で土地の有志より施米し村民を救濟せり。
(鄕土誌)
同(日方町) 津浪は延(永か)正寺(海岸より約五〇〇米)迄襲來、
被害不明。現海南市役所前に於て水深一〇尺に逹す。
同(内海町) 津浪二回に亙り襲來し、藤白鳥居前に千石船を
打上げ、人畜其の他の被害なし。浸水区域海岸より約三
〇〇米、床上一尺浸水。(鄕土誌、紀州の地震と安政大地震
洪浪之記)
大崎村 倒潰家屋二、十一月四日及五日震源地は遠州灘と言
はれて居る大震あり。之に伴ふ大津浪甚しく猛威を振ひ
たり五日は晴天午後五時頃沖合遙かに大砲を連發する樣
な音響を聞く。忽ち大津浪襲來、約三十分退潮、更に
三十分を經て前に倍するもの、最後に初回程度のもの襲
來し漸次減小し、當時の潮の進退至極緩漫なりしを以て
被害僅少床上五尺の浸水三十軒。(大崎村誌)
濱中村 十一月五日は晴天午後二時甚しく震動あり、午後五
時頃海中遠く砲聲の如き音響を耳にするや忽ちにして波
濤寄せ來る。是所謂る大海嘯なり。退潮後約三十分にし
て第二回の海嘯あり。第三回も亦三十分を經過後なりし
と。甚しき高波にて其の波の高さ現下津新田道路上約七
八尺にして、潮先は大字上小森神社今の記念碑附近迄達
せり。而して潮の進み至極緩なりしが退潮は頗る急激な
りきと。(濱中村誌)
箕嶋町 北湊にて浸水二〇〇軒其の他被害僅少。
湯淺町 流失家屋一九〇、半倒潰家屋二七〇、津浪は南別所
勝樂寺下及名島油屋の下手三百石舟を打上げ、叉北は顯
國神社附近に百石舟漂流し、町内四七〇軒浸水、船舶流
失五八、全破壞一八〇。
廣村 流失家屋一二五、半倒壞家屋六〇、死亡者三〇、湯淺
町と共に被害最も甚しく、殆ど全滅の悲運に遭遇せり。
津浪は八幡神社の下附近(海岸より一二〇〇米)迄襲來、浸
水一六○軒、破損一五八軒。
南廣村 被害あるも其の狀況判明せず。
田栖川村 死亡一、破損一〇戸、其他狀況不明。
由良村 流失家屋一五〇、死亡者三〇、由良港の奧にある橫
濱網代江の駒は最も慘害を被れり。津浪は入寺原鎭守の
祠より少し上手迄、之より南東川向は石橋飛より見通し
里村、尾崎、原下手は名護屋の口迄襲來。
比井崎村 流失家屋三三、唐尾は最も被害あり。田杭、方杭
柏、阿尾、小浦、大引、衣奈等は被害僅少。
三尾村 流失家屋四〇、津浪激突の衝に當りたる爲慘害を蒙
れり。其の他は不明。
御坊町附近 流失家屋一三〇、津浪は日高川を遡り多數の小
舟は野口村岩内(海岸より二五〇〇米)に押し上げられ破壞
せり。御坊町は全部浸水、松原村にては舊井の切戸を突
破して津浪侵入(海岸より一〇〇米)、御坊園にては源行寺
本堂御拜雨落(海岸より八〇〇米)迄津浪の潮先逹せり。叉
南鹽屋にては森岡法華堂迄、鹽屋にては南の王子神社
(海岸より約七〇〇米)石段の九段目迄津浪逹す。
印南町 印南川西岸の家屋悉く流失、津浪の高さは所定寺内
柱約四十糎浸水の程度。
切目村 流失家屋一、島田は浸水床上へ及び津浪は先明寺の
石垣に打當れり(海岸より五〇〇米)。
南部町 流失家屋一、鹿島の爲津浪は遮られ浪勢輕く、南道
にては稻荷祠の一段迄、植田にては椿阪口の往來道を越
え、叉山内にては中内迄津浪殺倒せり。(寶永の津浪の後
家屋は山手に移る)
田邊町 流失家屋三一、燒失六三八、倒潰家屋四六、死亡者
九、海潮の變調を見る。田邊沖の數回の大音響あり、同
時に海嘯起り、本町橫町水深五尺に上り、海嘯は前後三
回に亙り、第一回最も大にして第三回之に亞ぐ。津浪は
會津川筋の秋津、釘貫井邊迄(海岸より約二五〇〇米)、町
内は上片町小坂迄、袋町小坂迄、下長町、伊丹屋新七宅
前迄、背戸川、田圃は秋津口街道限り叉廻船四、五隻押
上げられ、大橋を破壞せり。
新庄村 流失家屋四五〇、明暮か五つ時大地震ひ夫に潮高く
新田街道に逹す。第一回二十尺、第三回三十尺の高さに
して田邊灣内にて被害最も甚しく、殆ど全滅の悲運に遇
ひ新田川に七八十石船ありたりしが、津浪の爲平田、長
井谷、岩本奧(海岸より一二〇〇米)へ押込められたり。
東富田村 當時の總戸數一四三、流失家屋八、浸水区域別紙
圖面の通、其他の狀況不明。
日置町――串本町間 記錄に乏しきも、此の地方入江又は河
のある所は悉く損害を受け、殊に日置、周參見は大いに
荒れ、破船夥しと云ふ。
和深村 當時の總戸數三六〇、當時の人口一六四七、江田浦
は全部被害、田子浦は不詳、和深浦は現在小學校敷地も
浸水。
串本町 浸水の家屋多數あれ共流失したるもの殆どなく、袋
港は全部流失全滅に瀕せり。鬮野川は八幡宮前に二百石
五百積の廻船打上げられたり。
古座町 流失家屋七〇、石垣崩壞多數、津浪は下地川口山足
迄、又古座川口にある船は宇津木村清暑島附近に押し上
げられたり。(宇津木は海岸より三〇〇〇米)
下里町 當時の總戸數四一二、流失家屋三〇、倒潰家屋一六。
太地町 當時の總戸數四五九、流失家屋二〇、當時の人口二
四五八、死亡者二、傷者六。
古座町――新宮市間 浦神床上浸水一・五米、高芝無事、勝浦
大浪浸水、天滿下地濱の宮流失家屋多く那智並關(海岸よ
り約二〇〇〇米)迄潮水侵入。
新宮市 津浪は熊野川口より侵入、熊野林木中の鼻上迄逹せ
り。町内倒潰家屋出火等ありたり。
津浪の襲來する迄の時間。
寳永四年の津浪は日高郡へ大震後小一時間を經て襲來したる
が、安政の津浪は大震後須叟にして來ると鄕土誌等に記しあ
り。恐らく十分乃至十五分後に襲來したる模樣なり。
津浪の速度。
津浪の速度は海深により異り、深き所は速く淺き所は遲く、
又震源の位置により襲來する迄の時間に相異あるが如し。