[未校訂]安政元年霜月大地震之次第
當月四日朝五ツ半時大地震ゆり初、是ハ先頃夏の(1)より強くし
て長く其夜少々づつ二三度もゆり、同五日暮七ツ半時是ハ別
而強く十二分のゆりニ而人々生し心地なく女童なき叫ぶ聲喧
敷目も當られぬ次第、拙者儀駿河町(2)へ用事に參り候處ゆり出
し候故胸ケ致し無三かうに濱(3)へ駈出候へば、甚ゆり強くして
立居る事叶はず故、から船の繫き有之に飛乘り候へば、此
地震ニ而河水忽ち濁り漸くゆり鎭りて内へ戾り候處、博勞町
(4)酢屋出火鍜冶屋町(5)裏邊出火何れも少々、夫より皆疊を表へ出
し屛風ニ而圍ひ野宿と極め壹人も内に居る者なし。其風情目
も當られぬ事共なり。酒屋は大桶を出し夜分は其中に寢、其
職道色々の物を以て家とし町中野宿となりにける。其夜四ツ
時又々烈敷ゆり、其時の震動雷のごとく是も餘程強くゆり、
常に堅き戸障子はづれ候位ひ甚恐ろ敷其夜ハ是ぎり。又明六
日ハ朝より重ね戸棚を出し晝より其中へ這入、或は家々色々
の小屋を致し、寺町(6)邊藪の際壹丁目下馬納屋の濱邊さながら
兩側町のごとく、或は屋敷町へ小屋を作り、每夜野宿致し申
候。其地震ニ而寺社石燈籠石鳥居立たるハ稀なり。吹上(7)邊屋
敷の土塀或は三間又は五間づゝ倒れざる所なし。每日每夜五
六度づつゆり、明七日五ツ半四ツ前時分又烈敷ゆり申候
其五日夕七ツ半時の地震ニ而津波所々へ揚り、熊野田邊大
荒の所荒增記す。
熊野汐の見崎之内
一、櫛本(8) 家數四百軒之處不殘津波ニ引込まれ、
一、大島 家敷三百軒程之所貳百五十軒斗引込まれ、
一、橋杭 家數五六十軒之所不殘引込まれ、
一、古座 家敷四百軒之所三百軒引込まれ、
新宮より木の本迄十四ケ浦少々づつ引込まれ、
一、木の本 家數四百軒之所不殘引込まれ、
木の本より尾鷲迄十三ケ浦不殘引込まれ、
一、尾鷲 家數千五百軒之所八郞兵衞三階藏一ケ所殘り外土
藏寺院は不殘引込まれ、死人六步通之由。
是より矢口浦・須賀・川島・勝浦・白浦・三浦右六ケ所不レ殘引込
まれ、
一、長崎 家數千軒之所百五十軒斗殘り八百五十軒程引込ま
れ、
一、錦浦 家數三百軒之所不殘引込まれ、
是より田曾浦迄十四ケ浦不殘引込まれ申候、是より伊勢路故
略之。
田邊地震津波之次第
新庄・江の浦・鳥の巢・あら浦・四浦程ハ壹軒も家なし。
町家は三柄口より出火ニ而大半燒る。御城は無別條、本町紺
屋町五步通り殘、敷道花畑權現樣又御奧樣は無事、大橋四步
落、小橋ハなくなり、江川古町津波ニ而大荒、無事成家稀也。
一、はや浦 津波ニ而大荒無事成家なし、
一、境浦 半分無事ニ而有之、
一、三名部(9) 大道筋地震ニ而大損し、無事成家無、山内はね
田浦津波ニ而、
一、東岩代 地震強く津波ニ而無事成家稀也、西岩代ハ大半
無事、
一、切目嶋田 建家なし元村は無事、
一、印南 大道筋崩家ニ而步行出來不申、
一、日高鹽谷)10)ハ建家なし、大道筋往來留、
一、田邊海藏寺・正德寺・本正寺・右三ケ寺燒失致し申候。
一、同江川邊死人未レ知數前代未聞之事ニ御座候。
紀州津波之次第
若山は地震は強けれ共津波は輕く、然共傳法橋(11)之下へ舟五拾
杯程右津波押上け來り、いやか上に重り、誠に蕎麥の鉢を積
重ねたるが如く、北嶋川原(12)へ數十町も脇に掛り有之候四百石
位の舟、砂上に押上られ有之、加太ハ津波と心得山へ逃候處
來らず、和歌邊海數十丁干きし故、津波と心得逃候處、少々
來り候へ共家は別條なし。布引濱(13)の處無別條。日方は延正
寺高塀脊掛りの處迄津波來り、濱邊の家ハ家根鬼瓦杯に海藻
掛り有之、湯淺邊大荒廣ハ建家なし。然共大黑樣は無別條。
鹽津少々荒、由良の湊大荒、何れも死人少々づつ有之候由、
有增及聞候分は記し申候。
同廿五日朝四ツ時九ツ時八ツ時三ケ度海中大に鳴、其音千雷
萬雷の壹度に落し如く、人々津波と心得、海邊は壹人もなく
みな高き所に逃迷ふ。去れ共津波ニ而ハ非ず、是ハ往古より
有事ニ而地震の氣海中へ發し候間鳴申也。然れ共未地震は止
み不申。一晝夜に二三度もゆり申候。十二月に至り地震次
第に輕く相成り、段々後ニハ一晝夜に一度位ひ、後は三日に
一度程、極月中旬に至り先納りと相みえ申候。
去極月中旬より廿日程も遠退し故、先納候物ならんと萬民安
堵の心を致し候處、又々大晦日烈敷四ツ半頃にゅり申候。夫
より安政二卯正月元日之夜又々ゆり、二日にも震ひ申候。夫
より每日一二度づつゆり、二月十二日九ツ半頃又ゆり申候。
下拙年明け所々年頭に相廻候處、初而しる欠作(14)下田畑去十一
月の地震ニ而ゆり割れ、長は壹丈或は貳間三間づつ割き、青き
砂一面に吹出し有之、大震り之節は五寸程づつも開き寄致候
湊大六(15)の濱長サ五間程割れ口大サ五寸程あき有之、大ゆりの
節金氣水吹出し申候由、今に其口開き有之、安政二卯四月に
至り候へ共、二日に一度三日に一度程づつ震申候。同廿三日
夜又々震ひ申候。
註(1)安政元年六月十四日十五日の地震のことで、「新古見聞
覺」に『當六月十四日夜八ッ半時大地震ゆり初、此地震
ニ而若山も所々荒みだれ、落塀杯崩れたる所多く有之云
々。』と記してゐます。十五日のは五ツ時前に大震があり
ました。
註(2)駿河町は和歌山市中央部の町名であります。
註(3)濱とは滋では海濱の意味でなく、紀の川と和歌山市を貫
流する和歌川とを連絡する内川の沿岸であります。その
逃げ出したといふ濱は駿河町のすぐ南に平行した川岸で
その場所は今の京橋北詰の西約半町の地點であります。
註(4)博勞町は市の東北部にある町名です。
註(5)鍛冶屋町は駿河町の北、北町の南、中間にある東西の通
りであります。
註(6)寺町とは和歌山城の南に連る大砂丘列の西側にあります
註(7)吹上とは前記大砂丘列の西側一帶の地名であります。
註(8)櫛本は今は串本と書きます。紀伊半島南端潮岬を繫ぐト
ンボロ上にあります。
註(9)三名部は今は南部と書き、日高郡にあります。
註(10)鹽谷は日高郡鹽屋村のことであります。
註(11)傳法橋は和歌山市の内川の出口附近にあつた橋で、今は
和歌山市驛前にありますが、以前はもすこし西方にあつ
たやうです。
註(12)北嶋川原とは紀の川口附近右岸の磧をいひます。
註(13)布引の濱とは今紀三井寺村に屬してゐます。和歌浦灣に
面する小規模な砂丘を開いてその聚落は立つてゐます。
本記錄によれば別に異狀なかつたやうですが、「海草郡
誌」によればこの時の津浪は布引の北を紀三井寺の山門
の下まで襲ふたと記されてゐます。
註(14)欠作は今は嘉家作と書きます。和歌山市の北端、紀の川
堤防上にあります。
註(15)湊大六の濱は和歌山市の西北端、紀の川左岸の地であり
ます。此の地は天保七年に失業者救濟のため埋立てた所
であります。