[未校訂]○氏ハ松代ノ人ナリ、日記数冊ヲ蔵セリ、今其中ヨリ
信州地震ニ係ル記事ヲ摘録セリ、
三月廿四日夜四ツ時頃、大地震、前之堤赤泥吹出し、
呑水無、宮下久作殿池ゟ貰水、乍去此辺には怪化(我)人
無之、出火も無之、家、土藏等、所々大痛、町家等
は潰、時之鐘、火之見、鐘樓堂、かしがり、時之鐘
大英寺にて突く、
御上、御家中、町家、町外共、仮小屋拵、本宅に不
入、仮屋に寐起す、火も外に焼、小市舟場之上に、
川中に山出来、松代町、町外川中島川北、川東ゟ、
数万之人足出、
廿五日、 雷の如く始終鳴、寄、
廿六日、 同鳴、寄、
廿七日、 同鳴、寄、
廿八日、 暁六ツ時頃前、又候大地震、家潰、天
王山水内橋水付落る、水内平組にて率(〓)
置、
廿九日、 雷の如く鳴、寄、集には大鐵炮打が如
く鳴、寄、天火にて焼ると申ならし、
気を打、其夜秋の稲妻の如く、晦日朝
迄如此、
晦日、 四ツ時頃、北之方ゟ黒雲押出候、夕立
之降、晝時ゟ晴、又候七時ゟ鳴、寄、
四月朔日、 鳴、寄同断、水内水溜、一晝夜三尺程
も溜、大原竹御林と(迄カ)附、
二日、 大鈌炮打が如く鳴、寄同断、
三日、 同、
四日、 暁八ツ時寄、朝同断、
五日、 暁并朝寄、晝頃南風烈敷、九ツ半時寄、
大鐵炮打が如く鳴、少々成(鳴カ)る、夜四ツ
頃寄、
六日、 暁度々鳴、寄、雨降、朝五ツ過晴、八
ツ頃寄、(夜脱カ)に入寄、
七日、 暁寄、朝六筒打が如く鳴、晝寄、七ツ
頃寄、夜に入鳴、寄、水溜と途切之穴ゟ
水少し流、小市村之上にも留(溜)り有之、
八日、 晝鳴、又寄る、雨少し降る、夜に入り鳴る、
松本領迄水附、度々右所より、と切々場所
へ見届に参る、
九日、 暁鳴、雨降候故、七ツ頃雨漏る、小屋を出、
夜明迄緣(〓)に居る、朝鳴、晝晴、晝後少し降
る、夕方度々鳴、寄、
十日、 暁ゟ大降、并鳴、寄、朝五ツ過ゟ大雨風、
四ツ半頃風止、折々鳴、寄、時々雨少し降、
夕方晴、鳴、寄、
十一日、 暁同断、四ツ九ツ鳴、寄、九ツの鐘より割
番にて突、夜五ツ過、両度鳴、寄る、
十二日、 晝鳴、寄、七ツ頃鳴、夜五ツ過鳴、寄、夜
中度々鳴、寄、
十三日、 晝鳴、寄、雨降、八ツ頃ゟ晴、七ツ過鳴、
寄、西北之方にてどゞめきの如く鳴、夫ゟ
大鳴、山平林溜之場所切、川に成り、七ツ
半過ゟ川中島へ水押出し、一円に成り、御
厩町裏迄水付、寺尾横町、荒神町へは水不
乘、夜八ツ頃、水貮尺程、御厩裏引水、右
と切三文一程残る、小松原宮裡大木、押倒
れ、四ツ屋村貮参軒残、皆押流、大岩石共、
一面白河に成る、
十四日、暁七ツ過寄、晝四ツ過寄、夜ニ入鳴、寄、
十五日、 暁鳴、寄、朝六ツ過出立、川中島川北
東共江、
十六日、 暁七ツ頃鳴、寄、夜四ツ過鳴、寄、
十七日、 朝四ツ過ゟ雷度々鳴、夕立少し降、
十八日、 朝六ツ半頃、少々鳴、寄、又寄、
十九日、 朝六ツ頃寄、十五日未明立にて出取(立)、
川中島川北村等は、余り鳴、寄無之、
二十日、 (原本缼ク、)
廿一日、 晝七ツ半頃、鳴、寄強し、
廿三日、 同
廿四日、 右より少々静、
右大震後一ヶ月间の日記に係る、
更に壱ヶ年を隔てたる申年三月廿四日ゟの日
記を摘録すれば、左の如し、○以上三行ハ、渡辺敏ノ註記ニ係レリ、
廿四日○□△、 朝霜降、当る四ツ半頃より晴天、朝寒
し、九ツ半頃鳴、夜に入り度々鳴、晝
八時過少寄、
廿五日□、 暁少寄、朝ゟ度々鳴、晝頃ゟ南風吹、
夜同断〓照、
廿六日、 朝雨少降、書照返シ、同夕方少降、夜
に入同、
廿七日 □、 暁雨降、〓照、度々鳴、
廿八日、 朝ゟ南風吹、曇る、七ツ頃ゟ雨降、其後
晴、入合頃ゟ又降、夜中同断、
廿九日○△□、 朝雨降、四ツ時過ゟ晴天、時々鳴、夕七
ツ過引続鳴、寄、
四月朔日○、 暁寄、晴天、
二日△、 晴天、夕方少南風吹、夜六ツ半頃鳴、
三日○○、 朝四ツ半過、八ツ前鳴、寄、夜に入南風
吹、早速止、晴天、暖、
四日○、 晴天、暖、晝九ツ過鳴、寄、
五日○○○○、 晴天、暖、九ツ過寄両度、晝後曇る、晝
八ツ過両度鳴、寄、
六日□、 朝ゟ雨少しづ〻降、夜に入晴、夜六ツ過
度々鳴、
七日、 晴天、晝頃ゟ南風吹、曇る、
八日△、暁ゟ雨降、朝五ツ頃鳴、終日降、
九日□、 朝九ツ頃鳴、寄、中晴天、晝過御笠(日暈)召す、
十日□○○、 暁七ツ時両度鳴、寄強、其跡度々鳴、晴
天、
十一日○、 朝六ツ過鳴、寄、
十二日、 朝五ツ頃ゟ雨降、夕方雨晴、
十三日○、 南風吹通し、同夕七ツ過鳴、寄、其後
晴天、
十四日□、晴天、夜に入り度々鳴、
十五日、 晝前薄晴天、
十六日○○、 晴天、晝後曇る、夕七ツ過鳴、寄、夜
五ツ頃鳴、寄、
十七日□○、 朝雨降、時雨の如し、四ツ過鳴、寄、
南北風吹、照降、夕七ツ過より大雨、
東北風強吹、夜五ツ過晴、度々鳴、
十八日□、 晴天、寒し、北風吹、夕七ツ過度々鳴、
十九日○○□○、 朝六ツ過強寄、其跡度々鳴、其上貮度
鳴、寄、曇る、四ツ時ゟ晴天、
二十日○○、暁鳴、寄、晴天、夕方曇る、入會過夕
立雨降、夜四ツ頃鳴、寄、
廿一日○、 暁鳴、寄、晴天、
廿二日△○、 暁ゟ朝度々鳴、其上寄、曇る、夜に入
雨降、
廿三日□、 朝迄雨少降、曇通し、同夕方鳴、寒し、
廿四日□、 朝五ツ頃鳴、寄、寒し、
見知り易からしめむが為め、符号、上に附せし
なり、○は鳴、寄の鳴声と共に震動を感じたるの
符、□は度々鳴るの符、△は鳴の符とす、満壱年
後の卅日间に得し所、左の如し、
二十七回、鳴響と共に震動を感じたるもの、
五十回余、度々鳴とあるを平均三回と見て、鳴響のみに止りしもの、
再び蟲倉山麓なる震災の踪跡を訪ふ、
前年の遺を補はむとして、再遊せし事故、前
年の文と連続せしめたり、
藤沢組とは、今の日里村に属する蟲倉山の東南に
面せる岩壁の下に家せし二十二戸の集落にして、
谷を隔て〻梅木村城の腰に面せし地なりしが、弘
化の大震に、後なる岩壁の崩壊するありて、前な
る深溪を埋没して、更に城に腰を衝き、両所にて
家屋二十二戸藤沢十八戸、城の腰四戸、と、男女百九人藤沢八十一人、城の腰
二十八人、を埋却して、隻影を留めざりし所なり、
余は已に臥雲院を辞して、梅木村なる松田氏に至
り之を問ふに、氏は本年五十余歳、地震の当時は、
才に七歳の時なりしとて、親ら其見し所を記憶せ
しにあらざりしも、父老の言によりて事実をば能
く暗記せり、先づ余が書に見しところと、人より
聞きし所とにより貭せしに、氏皆明細に答られた
り、城の腰とは何れなりやと問ひしに、我に従ひ
來り給へとて、余を伴ひて山の脊をゆく一町許、
〓然として東西南の三面を一顧して観望し得る所
に至り、城の腰とは此処にて、是より彼にかけ四
戸ありしが、彼藤沢より崩壊し来りし岩石の為め
埋却されしにや、又は捲き去られしにや、寸影も
止めざりし、元來此処は、我家松田氏、より僅に髙き
位に過ぎずして、斯く迄髙き所にはあらざりし、
思ふに藤沢より崩壊し来りし岩石の、山腹を突き
て斯く張り出したりしならむ、且当所は涧水の其
下を流る〻ありて、両崖絶壁を為し、田は愚か、
畑地と雖も無之、茅場なりしに、抜けの為めに涧
谷は彼が如く埋められ、当時の涧水は其流を絶ち、
両崖絶壁たりしものも、今は此の如く傾斜を為し
て、一面の畑地となり、已に墾して水田となりし
もの三町に余れり、我家居の如きも、其石の面は
左りの面と同じく、寧ろ一層深き深溪にて、追々
かけ落ちて家を隔る数尺の処までは懸崖となり、
早晩家居を移さゞるを得ざりし様なりしに、其深
溪は埋り、其絶壁は消えて、今は此の如き安全な
る位地となれり、是に引換へて藤沢組の家居田地
は、数十丈の下に埋却され、彼が如き大石巨岩を
以て覆はれ、今日に至りても、田畑たるに望なき
荒野と成り果てたり、然れ共某が十二三歳頃迄は、
他の石塊は累累として遠く連り、石上石を重ね、其
石も浮きたる様にて、戯れに石より石へと飛び渡れ
ば、がた/\ごと/\と音を発し、其身は繋ぎ連ね
たる小舟の上を渡るが如き心地せしものなりしが、
雨にうたれ、日に晒され、寒を経、暑を重ぬるの间、
いつとはなしに石塊の多少は潰へて土砂となり、其
大塊も半は地中に埋りて、草を生じ、木を生ずるこ
と〻なりしと語られき、
氏の隣家に柳善兵衛と稱する老人あり、震災の当時
二十七歳なりしとて、よく地震の当時を談ずると聞
き、松田氏に招じて、左の問答を為したり、
問ふ、地震の時、翁の家は家族幾人なりしや、答ふ、
父母と某夫婦と一人の子と五人なりし、地震の時は
如何にしてありしぞ、曰く父は孫を抱きて疾く寝ね、
母は寐ねむとして物の取片(付脱カ)中にて、妻は尚風呂の中
にありしよし、某は眞の寐ばなにて、地震のありし
もしらざりしが、母と妻との叫ぶ声の耳に入り、眠
を覚したれば、砂壁は室内に充ちて、四壁は已に倒
れあり、遽て飛び出でむとせしに、子の叫ぶを聞き、
近寄り見れば、父に懐かれながら壁の下となり、苦
しまぎれに叫ぶにてありし、父はと見れば、父は壁
の下にありても、尚熟睡の体なりしかば、父を起し、
子を助けて、戸外に出でし迄は、何事をも辨ぜざり
し、已に戸外に出れば、何やらむ怖しき響と共に
地の搖る〻あり、搖る為めの響やら、響の為めに
搖るやら、何が何やら夢中にてありしが、風と心
附、下の家松田家、はと暗を手取りて来て見れば、戸
壁は倒れ、柱を傾きたれども、家は倒る〻迄には
至らずあり、呼べども答るものなし、只馬の狂ひ
嘶くを聞くのみ、馬をひき出して木の下に繋ぎ、
彼是する间に、内の叔父今の松田氏の伯父、は出で来れり、如
何せしやと問ふに、我寐ねありし土蔵は、崖下に
覆り、我身もならざりしが、其木柱も緩ぎて足を
抜くことを得て助かりたりとのことなりき、城の
腰は如何せしやと、暗をたどりて往かんとするに、
常には道側は崖となり、其下は深き谷间にてあり
つるに、崖は消へて、谷は道と平なるまでとなり、
何やらむ怖しきものが、彼所此所に横たはりて往
きもやられず、誠に大声にて、城の腰の人を呼ぶ
に應なし、藤沢は如何にと顧みれば、火の光も見
へざれば、人の声もなし、其间にも恐しき響と、
地の搖る〻とは、幾回となく起ることなれば、怖
しさ彌益して、身動きもならずなりぬ、斯くせし
间に、念佛寺なる臥雲院より火出でたりしが、忽
ちにして盛に焰へあがりたれば、遠近共に白晝の
如くなりぬ、其火の光りによりて見渡せば、是は如
何、藤沢組のありし処は、巨木大石縦横に散乱して、
堆きまで積み重なりありて、後なる山の抜け崩れて
藤沢を埋め、又前の谷间を埋めしものなる事を知り
たり、さては城の腰は如何にせしぞと、火の先を力
にて往きてこれを見しに、昨日までありつる家は、
何つしか失せて、人も家も諸共に影も形もあらざり
きと語られたりき、
附記 廿七年の夏に尋ねし時は、松田氏の家より
以西は、岩石の落々たる间に、雜草と雑木との生
するあるを見しのみにて、荒涼たる有様は、如何
にも当時の実況を想するに足りしも、才かに壱年
と三四ヶ月を経たる今日、至り見れば、藤沢の崩
壊し来りし処に、村役場を建築し、者うマヽ小使様の
もの〻為す所にや、岩石を押し片づけて、一二枚
の畑なども出来て、去年のさまとは、頗る異なる
を感じたり、岩倉の堰、藤沢の役場、利害の上よ
り考え来れば、悦ぶべきことなれど、むかしをし
のぶ上より観じ来れば、聊か殺風景の惑なき能は
ず、
松田氏に一泊を話し、翌早、氏の家を辞し、舊伊折
村なる窪田五郎右衛門氏を問(訪)ふて、当時の談話を聞
き、又氏が筆記したる舊記を借览せめとの予定なり
き、往て太田組に至り、途に太田吉藏といふ人を
問(訪)ふて、所謂太田組なる大抜の事を貭したりき、
同氏との談話を序する前、太田組とは如何なる地
なるかを略説せむ、
太田組とは、藤沢に対して云へば西手にありて、
蟲倉山の西南に面する口開岩と、白岩峰との麓に
ある集落にして弘化大震の時、口開岩と白岩峰と、
共に字丸山沖と稱する耕地に堕(墜カ)落し、其勢にて下
なる土石を巻き、壑谷に向ふて迸下し去り、所謂
太田組と稱する十一戸の家屋と、五十余人の男女
とを挙げ、十数町下なる栃谷と呼ぶ壑谷に、埋却
せしめし所とす、
吉蔵氏は、震災の時二十歳なりしとぞ、当時の有
様を語りていふ、某は友人加茂八と共に、隣家の
風呂に入り、相伴ふて家に帰りし间際にてありし
が、何やらむ怖しき響と共に家は搖り倒されむと
せし故、驚きて戸外に飛び出しに、砂礫は雨の如
く頭を打ち、土煙は飛びて口鼻に入りて呼吸する
を得ず、鼻を掩ふて家の側なる畑の中に伏したり
しが、幾回か下よりはね返され、畑中を展転した
しき、其间異様なる焦げ臭き様の感じありき、其
後如何せしや、殆むど気を失ひし如く、母の襟も
とを把りて引起さる〻に心附きて、目を開き見し
に、其時は家の上に後なる大杉の、幾本となく倒れ
懸りありしを見たりき、其杉は元來家の後にありし
為め、聊か我家の保障となりて、我家は土石の為め
に埋却されず、壁落ち柱傾きたる迄にて、倒る〻に
も至らざりしが、彼所此所に見るが如き大石岩の、
崩れ懸りし衝に当りたらむには、如何なる鉄壁と雖
も、一とたまりもなかりしならむが、幸に彼が如き
岩石は、我家の側を磨して下りしが故に、助りしな
りと、白岩峰は、口開岩の山嶺より一層高く聳えて
見えたりし氏の家より見ればなるべし、に、今日は彼が如し、我家の
前より栃谷に至る迄は深谷にて、澗水其下に通じ、
両崖は總て竹藪なりしに、今は此の如き田畑となれ
り、今友作と呼ぶ人の側にある石は、長さ二十间に
亘れり、彼に見る大石は、四间に十六间ありたりき、
災余の当時は、此辺總て大石巨岩に掩はれありて、
復舊時の如き田畑になす能はずして、永荒の地たる
べしと思ひしに、岩石と雖も極寒に堪へずやありけ
ん、年一年を経るごとに、岩塊は自疎解して土砂に
化し、崖の直下こそ彼は如くなれ、舊時の深谷たり
し彼等栃谷に向ひし一帯の地の如き、已に田となり、
畑となり了りたれば、其奌につきては、今日と昔時
とにおいて損益を見ざれども、只気の毒なりしは、
土石の下に埋没されし人々の身にてありき、某が共
に風呂に入り共に帰りし加茂八の如きは、才か一
足の事にて、土中に埋没されたりき、今日見る所
の家々は、夫等姻戚にて名跡を継ぎたるものにて、
十一戸の家族中、一人の生を得しものなきのみな
らず、一ヶの死体すら得る能はざりしと語られた
りき、
窪田五郎右衛門氏の曰く、我伊折村は、山中の山
中なれども、其中にも又自ら差別あり、太田組は
我中賀美、清水等に比すれば、岩壁下を距る遠く
して、古來安全なる地、乃ち山中の都と思はれし
地にてありし、されば往昔の子守歌に、「清水崖
の下、太田は都、なぜに中賀美、森の中、」と謠は
れし程なるに、清水、中賀美は無事なりしに、安
全の地と思はれし太田のみ、彼が如き悲惨なる目
に逢ひたりとて、当時或古老の嘆息されしことあ
りしと、
山抜けと稱するは、松代領内にて大小四万一千
五百七十八前ノ鷲沢氏記録ニハ、山崩大小四万貮千四百五十六ヶ所トアリ、とあり、松本領にて一千九百ヶ所余
とあり、此多数なる抜の中にて、最も劇烈にし
て最惨毒なりしを、吉村とし、岩倉とし、鹿谷
とし、五十里とし、念佛寺とし、藤沢とし、太
田等と為す、然も他の抜けと稱するものは、概
ね地辷と稱すべきものにて、傾斜地なる地床の、
溪澗若くは何流に向ふて押出したるに外ならず、
藤沢組に至りては、巨石大岩の、地を巻きて崩壊
し來りしものにして、其残酷なる、前者の比にあ
らず、太田に至りては、岩壁の傾倒と云はんか、
山岳の顚覆と稱すべきか、十间二十间に亘る大石
巨岩は、五七町の外に放擲されありて、其猛劇な
る、人をして驚魂愕魄に堪へざらしむ、
四万の山抜けとは夥き数にて、遽に之を聞けば、
誇言にあらあ(ざカ)るなきかの疑あり、実際に就きて之
を貭せば、其実に然るを領(〓)するに難からず、近く
是を我長野に徴せむに、眼前なる旭山に就きて之
を見よ、今の白岩は、当時は上より下、北より南、
白岩と名くる限りは、悉く崩壊せしなりと、一転
して東北に向ひし茂菅、車屋、対岸なる丹崖も、
両三所に分れて河道に墜壊し来りし為め、車屋辺
を水に涵さしめたりしと、茂菅道の如きも大ぬけ
にて、今の道は舊の道より十间程上に開きたるも
のはりしと、往生寺の如き、山抜けの為め破却せ
られたりしといふ、才か長野に面する一帯三五町
の间にして、已に此の如し、況や山複水重四方十
余里に亘り、然も其地盤の脆弱なる岩貭よりなる
山中地方においてをや、四万の数の、決して誇多
の言にあらざるを知るべし、
岐阜、名古屋の震災地を尋ねし人あるを聞く、
盤梯一切経山の破裂跡を訪ひし人あるを見る、
未だ眼前咫尺にある弘化の震災跡を尋ねし人あ
るを聞かず、地理歴史の上より見、地文地質の
方より見るも、自家の智見を開き、人の心意を
培養するの上に於て、是等の事を実際に質すの
必要なる事は、更に論ずるを要せず、当時の人
にして現存するもの尚多し、当時の跡は湮滅せ
ずして尚在り、然も今に迄むで之を質さずむば、
質すべきの人なく、尋ぬべきの跡なきに至らむ、
今日にありて其事実を質し、之を卋上に照会(紹介)し、
之を後世に伝ふるを期するは、特に教育上の材
料として必用なるのみならず、日本帝國の地震
学上に材料を供するもの、地理歴史を講究する
の人、地文地質の学に志あるの人、希くは心を
此に致されむことを、
右二十八年の十一月、信濃教育雜誌に掲げし
処、
窪田五郎右衛門氏との問答、
氏は伊折村代々庄屋にて、其地の豪族なりし、
父祖より記述せしもの多し、
問ふ、貴家は地震の当時は無事なりしや、曰く破損
はありしもの〻、潰れもせず焼もせざりし、曰く当
時の地震を初めより地震と認めしや、曰く最初より
地震と認めたり、白岩峰の抜けの如きは、凄じき音
なりしなれども、其音も地震の響とのみ思ひ、さる
事のありしとは、露しらざりし、八歳といふものあ
り、我家の前にて焼ける火光を望み駆け来り、助け
て助けてと叫びつ〻、我家は鬼の為めに揉み潰ぶさ
れ、我家のものは皆鬼に握み去られたり、我のみは
逃れ来れり、助けて助けてと、狂気の如く駆け回る
故に、鬼にはあらず、地震なり、地震の為めに汝が
家も潰ぶされたるならむと諭せども、いつかな聞入
れず、抜け來りし土石の為めに壁を突き破られ、柱
梁を圧し砕かれしを見て、鬼の所為と思ひしならむ、
此方も抜けのありしこと(を脱カ)知らで諭したるが故に、彼
が耳には入らざりしなり、藤右衛門ど稱するもの逃
れ来りていふ、我家は抜けの為め土中に埋められ、
我のみ逃れ来りたれど、家のものは残らず地下に埋
られたり、見るが如く裸なれば、何ぞ着物を恵まれ
よとの事故、着代へなど与へて、抜けにはあるまじ、
地震の為めに潰されて土中に陥りしなるべしといへ
ば、某は風呂に入らむとて衣をぬぐと共に、家は上
より押し潰ぶされ、我身は外へ飛び出したれど、他
は皆土中に埋られたり、我が抜けと思ふことは、
家を出て暗中より四方を透し見しに、森の木の搖
かの上にあるを認めたり、又此処の火光を目的に
来りたれど、此地に来るにも余程の登りなり、抜
けと共に谷の方へ押落されしに相違なしとの事故
さあれば、荒井の方は地震の為めに抜けを生ぜし
ならむと思ひしも、未だ太田の彼が如くなりしと
は、夜の明くるまでは知らでありし、只清水の方
は燈火の光も見へ、人声も聞ゆれど、太田の方に
は燃火もなく、人の声も聞えざるは、如何なる事
にやと怪み思ひしまでなり、夜の明くるに及びて、
太田のさまを見し時は、其有様の怖しさは、実に
言語の形容し得る所にあらざりしとの事なしき、
荒井は、抜けの為め埋められしもの十戸、死者五
十七人あり、荒井と森を隔たる広幅寺組は、六戸
を埋却されしも、人は一人も死せざりしと、彦右
衛門といへる人の家は、抜けの為め三十间程押し
下されしも、家屋納屋共に損所なく、只才に前の
石垣のみ少し損ぜし迄なりしと、今日見る所の家
も、当時の侭なりといふ、
荒井組には、元來溪水ありて、水車等の設けあり
しも、地震より其水は百间程下に涌き出ること〻
なりしよし、福廣寺も、当時の地震より水涸れて、
今日も尚水に窮し居るよし、窪田氏の側に髙さ一貮
幅六尺もあらむと思ふ大石あり、こは山上岩壁より
堕落し来りしも〻よし、むかしよりの伝説に、養和
中大震あり、そが為めに岩石に裂開を生じ、動もす
れば顚墜せむ様なりしかば、鹿島の祠はいつにか失
せて、古老の人、世前にも祠などありしを覚えざり
しと、弘化の震災の時、其岩は三ツに分れ、一ツは
彼所まで堕落し来りしも、家を外れたるが故に害を
為さず、其中最も大なるものは、岩下に墜つると共
に、小なるものを枕にして其地に止りて、是亦害を
為さゞりしよし、
大震後も絶へず震動あり、震動の前には、大抵どむ
と大砲の響の如き音して搖りしもの故、其音を聞く
ごとに、悪感を生ぜしよし、
今の日里村の中、念佛寺といひ、梅木といひ、伊
折といひ、蟲倉山の半腹以上にありて、遠くより
望めば、人家あり、田畝あるを怪む程なれど、其
地に至り見れば、案外にて、麓の地よりは傾斜の
度も緩にして、水田も多く、中腹以下の村々は、
畑地によりて生を為し、食料の米は外に仰ぐ事な
れども、日里村、乃ち蟲倉山の半腹以上に位す〓
耕地耕地は、米穀も食ふて尚余裕ありといふ、
物集女翁と問答、
翁は飯山藩臣、震災の当時、三十歳なりしと、
寛保の大水には、松代候は本丸より船にて海禪寺
に逃れ、飯山にては舟を愛宕山の鳥居に繋ぎしと
聞く、松代は筑摩河道の改修よりして、洪水の憂
を絶ち、飯山は地震によりて千曲河道の陥落せし
より、
洪水の憂を免る〻事となり、
松代は人工を施して水害を避け、飯山は自然の力
にて水災に遠かりたり、聞く或書には、飯山は震
災により、其地は壱丈余も隆起せるが如く記しあ
り、如何、
曰く、飯山より下高井の木島に渡る所に舟場あり、
其舟場に往古より舟番所ありて、水量標あり、水
量壱丈に達すれば、非常の合図を為す事にてあり
き、古來一丈三尺に達すれば、堤を越して城下を
浸すが故に、一丈余に至れば、土俵を以て堤の上
に築きて、水防を為すの用意に取懸らしむること
なりし、然るに彼四月十三日、岩倉の決壊せし時
は、壱丈五尺余の水量なりしも、尚城下を浸すの
憂なく、而して顧みて高井郡の方を見れば、海の
如くにてありし、これ等のことよりして、一般に
飯山の地陸は高まりて、河道は低まりしと唱へた
りき、
飯山城内にも、地陸の高下を生じ、折開せし所も多
かりしやに見ゆ、如何、地割は処々に生じたりしが、
今一々記せざれども、百间垣と呼ぶ所は、大なる折
開を生じ、長さ凡貮町余に亘りたりき、折開せし方
位は、北より南に亘り、筑摩川筋と平行に裂けたり
し、總じて飯山の裂開は、大略北より南に向ひたる
が如く覚えたりき、