[未校訂]○氏ハ信州新町小名鹿島村ノ人ナリ、コノ書奥書ニ「弘化四丁未年七
月九日書」トアリ編中拾余葉ハ、人身ノ攻撃ニ属セルヲ以テ、
之ヲ略セリ、
家潰れ火燃出し村は、新町の外、上條分矢の尻村、
又雲掃寺等、焼け申候、又其上山崩れ落ち、麓な
る穢多村に係り、小川へ押詰め、穢多の死亡百廿
一人の内、九十人ぬけの下に入り、壱人の助かり
しものなし、此外新町中、戸数四百廿一かまど、
表通り町は本町通りといふ、外に裏町、横町、上
手町、鹿島越、穂苅村、此村もかまど百廿戸、不
残家潰れ死亡候、穂苅村の分貮百八十八人、手負
女百五十人ありしも、穂苅、鹿島越等のは、家倒
れしばかり故、翌日掘出し、縦令家の下にありし
と雖も、生命の助かりしもの多かりしも、町は上、
中、下、横町、裏町、其外小路町に住居候町人の、
家の下に相成候のもは、中町山田屋久之丞、上町
油屋助右衛門、此両家より一時に失火したれば、
其下より自分這ひ出し人、又は上より掘出し呉れ
しものありし人は格別、其他は大むなぎ、中引、
二階台等に手足を挟まれ、胞腹を圧せられ、動か
むとして動く能はず、逃れむとして逃る〻術なく、
助けを呼べども助くるものなき、おりしもあれ、
疾風火焰をまきて焼け広がりたることなれば、其
くるしみ如何ありしやらむ、此卋からなるあびの
大しやうねつ焦熱罹(斯)る人々に親子兄(弟脱カ)にて、親あたり
其悲しみの声を聞き、又は其苦みのさま(を脱カ)見た(るカ)らも、
これを救ふの暇と術とを宇ざりし、自他の心地は如
何ありしやらむ、哀れといふも、中々愚かなること
なりしならむ、佐五兵衛といふものあり、山根村出
見せを為せし人なりしが、家内夫婦子供四五人あり
つれど、つぶれやの下となり、何ずれも焼け死して、
一人の助かりしものなく、善三郎といふものありし
が、二階台の為めに首を撃ち切られ、首なき死骸を
近所のものにて堀(出脱カ)し埋葬せしといふ、其他此類尚多
し、町中にて死人の数貮百三拾人、土手鹿島にて十
三人なりし、
中町あぶ源の番頭飯山出の文五郎と申あり、番頭と
なりて、近辺に逃れありし若もの共四五十人申合せ、
我主家は火にて焼けたれど、下の川水を汲み運びて、
火消し働きを為し始めしが、江島屋は新町一二番の
分限にて、裏に酒藏あり、凡百貮拾本位の(をカ)作りしが、
家潰れ死亡数多あり、藏働きのものに申つけ、水一
荷と酒一荷と取りかへ与ふべし、來りて火を救ひ給(へカ)ひ
と呼回らしめしかば、命助かりしもの五六十人、小
川の水を荷ひ運びて、火消しに働きたりしかば、上
町も其通りにて、和泉本家にて火は留り申候、是は
翌廿五日八ツ時頃なりし、下町はつぶれたる許りに
て、火をのがれ、上町は土手にて止り、鹿島は別條
なし、翌日に至りて掘り出され、命助かりしもの多
かりき、
其翌廿六日より、川水漸く溢れ來りたれば、町家
ものは驚き騒ぎ出し、家財の残りを運び逃れしが、
廿七日朝には、平一面の湖水となり、夫より追々
水に追はれては、更に高所に小屋がけ、かくして
小屋のかけ直しを為す数度に及び、終には山上五
百山のふもとは、町家つゞきとなりし、其外ほか
の山、竹房山に逃れし人々も少なからざりき、
水の湛ること漸く深く、水面の漸く高まると共に
家屋又は死屍、又は桶箱様のもの浮み、風に搖ら
れ波に漂ひ來るもの多かりしも、大方の人は惶懼
之余、慾とくを忘れ、一向水のひくのみを待ち居
たりしが、其内にはつぶれ屋の材木を筏に組み、
水上に乘出し、浮み来る屋根にある針金、又はひ
さし板等より、たむす、長持等、見附次第にひき
あげしもの少なからざしり、其内には酒屋の五尺、
六尺などいふ桶の流れ来るありて、内にある酒を
取りあげしものもあり、前代未聞の事共のみなり
し、かくて川水の湛へ留ること廿日、四月十三日
夕方になり、川水順に流れゆき、水内のもの〻中
には、岩倉のぬけ水乗りて崩れ候由、湛水よれよ
り次第に減し、翌十四日朝五ツ頃時迄には、水大
方落ち候、か〻る大河の廿日余り湛へし事なれば、
上は下生坂より下岩倉、花倉の上り迄、東西七里、
南北一里程の湖水となり、鹿島坂中段摺前と申所の
下に迄水つき、下の宮なる数百の杉、漸く其頭を二
三尺残し、牧之島の古城跡から掘は、不残水堀とな
り、上條と申村は、神之(主カ)塩入氏の脇の神明宮の山の
宮より下を浸し、源眞寺、安養寺、つぶれ、水に浮
み、水内の橋も水に浮み、竹房の森下へ流れ寄りあ
りたりし云々、