[未校訂]○「氏は妻科村代々庄屋たり、現在の主人、幼
年にて後見人あり、書類の門外に出るを許さず、
止むを得ず、其家に就き、其要を騰写す」トハ
嚮ニ長野縣ニ数鞭ヲ執リシ渡辺敏ノ記シ、モノ
ナリ、以下 、故老ヲ訪ヒ、〓趾
ヲ〓リシハ、皆同氏ノ記述ニ係レリ、其編次ノ
体裁ハ、本書ノ前後ト其例ヲ異ニセリト雖モ、
姑ク〓に仍リテ改竄セズ、
当村居家潰八拾三軒の内、四拾四軒借家竈数、潰の
上類焼竈数三十九軒、尤も善光寺類焼、居舎半潰廿
五軒、土藏物置潰貮拾貮棟、其外宮壱ヶ所、堂壱ヶ
所潰れ、其上庚申塔、并石塔類、不残搖倒す、圧死
人貮拾五人、内男十二人、女十三人、居村にては、五人、内女四人、男一人、
内三人は、善光寺に於て即死す、一人は当堂所にて
死す、一人角次郎、出生越中国、当時彦三郎、と申もの、裏山中に
て死失す、死骸知れず、居村にて怪我人三人、是と(もカ)
同じく善光寺に致せし、当村震災軽しと雖も、残家
厚薄は有之候へども、残らず破損す、亦田畑犯ひ(狂カ)場
何れも艮より坤の方へ懸りし、地震道と云ふか知ら
ねども、伴切地陸床違三ヶ所、通に付ありし、宮東
聖徳、幅下の三沖、中程より西居村に拘り、多少は
有之と雖、不残地陸床違、就中、幅下夫婦橋北の辺、
凡七八尺程の床違、此近辺都て夥しく、剰へ八幡堰
分口上、長十间余程の间、大なる滝と(をカ)成し、扠亦中
島は四五尺位も床上げしけり、居村は總体に高く成
り、朝日山は卑くなりしと、諸人申けり、然りと雖
誰ありて地震以前に、中间を見定め置候もの無之候
へば、何尺何寸とは知れず、併し鐘居堰水行にては、
眼前に高くなり、右堰は元とより尻高河、然るに坂
落しとなりし場所三ヶ所、何れも八九寸之床違、居家半潰、亦
戸張の上より上の原へ拘り床違、是亦甚し、丹宮の
東道にて犀川を遠見するに、如何にも此地髙く成り
しと思はれける、池水大半涸る、亦河原には地裂し
て、地底より青砂を吹出せし処ありしとなん、当時の变死は、
都合廿八人、御上への訴には二十五人、其訳は当春出生にて御載帳願致さず候故、且は召抱等も有之、何れの村方も
御訴と、村方の話とは相違あり、
妻科村水﨑惣左衛門氏との問答、
徳竹の記録に、多くの地割床違を生じたりと聞く、
如何、翁のいふ、小割は所々にあり、或は青き砂
を噴き、或は赤き泥を吐くなど、様々にてあり
き、幅下沖には、大なる床違を生じたりとあり、
幅下沖とは何れの所ぞと問ふに、此方へとて余
を携へて其処にゆき、此処なりといふを見るに、
今尚五尺余の階段を為して、南北に亘るを見る、
翁のいふ、此床違は、北は御殿跡、今郡役所の後、裁判所の前の方、
南は平柴迄七八町の间に亘れり、それより北は、
三輪より別に一二の裂目を生じて、同じく北に
向ひたりき、何でも此節目の通り筋は、地震の
最強烈なりし所なりと語られき、
中島は高く張出したる様に記しあれど、中島と
は何処ぞと問ふに、彼所こそ中島とは申なれ、
彼地は仰の如く地震の為め、四五尺も張出して、
彼が如く隆起したりとの言にて、今は一段高き
桑畑となりて見ゆ、
八幡堰の分口は滝となりしとあれど、何処ぞと
訪ひしに、彼方の事ならむとてゆきて示し呉れ
たりしが、果して記の如く今尚七八间が程は、
急湍激流、雪を噴して流る〻を見る、
翁のいふ、某は聖徳幅(浄カ)の田は、半反許の田なり
しが、地裂の為め三段に分れたりき、其後手を
入れて一枚の田となしたれど、両三年间は止む
を得ず、それなりに耕作したりき、此他是に類
せし事は外にも多かりき、
翁のいふ、地震の搖るごとに、どむと大砲を地下
に放つが如き響して、其響と共に搖出すを常とな
し、搖出すと共に、白岩の岩は崩れ落ちて、其響
を助けしものなりしが、大地震の当夜の如きは、
幾となく搖りし事にて、其凄しさ、身も心もあら
れぬ心地なりき、今こそ他の白岩も葛蘿など生繁
りて、岩壁の半を掩ひしも、震後五七年间は、上
より下まで、北より南まで、一面の白壁なりき、
一茂菅村は、震災残(殊カ)の外軽く、人家格別破損なし、
变死壱人、女、右は善光寺にて焼死、且茂菅人舎
降(際カ)迄、東の山より八九尺程の大石転び墜ち、其外
大小数多、亦字曰場の田方三四尺位の地陸違す、
同組池水一円出でず、九月頃、葛山より呑水を引
けり、作道は八月出来す、これ迄の場より、凡そ
十间余山上となれり、
水﨑翁に問ふ、さく道とは何処ぞ、曰く作道は
さくみちと読まずに、つくり道と読むなり、
つくり道とは、本年度(夏カ)盲者
の堕(墜カ)落せしとの事を、新聞見しが、彼道の事
なりと答へられたりき、
一腰村、池水一切出でず、名に負ふ瓜割清水、一滴
を存せず、同組の田方、畑方となる、飲水必止差
支、煤花川或は境の沢の水、亦東池の水などを汲
みしとなん、翌申八月に至るも、池水一向出でず、
申五月十一日強雨、其夕山抜にて、往生寺の客殿、
地中に埋まる、死人十五人、内男七人、女八人、
荒井利右衛門翁のいふ、地震の為に抜けを生じ、
抜けの為め寺院も損ぜしが故に、大に修理を加
へて、出来あがりしに、出来ると间もなく前の
地辷りが、再び地辷を為し、其客殿を埋却せし
なりとぞ、
問ふ、往生寺山は、外に地辷りはなかりきや、
曰く外には山の脊割れはありしも、地辷ちはな
かりし、脊割は、往生寺、朝日山、ともにこれ
ありし、今日朝日山を問へば、尚其脊割の跡を
認むべしとの事なりしが、朝日山を訪ふに及び、
果して脊割れと稱すべきもの〻、歴々存しりあ
りて、総て此山上の土石は、今尚不安定の位置
をなし、大震災等もあらむには、又候大なる崩
壊を生じなぬと察せられたりき、
一四ツ屋、居家潰家四軒、寺一ヶ寺、圧死七人、内男二、女五、
流家八十軒、其外土藏、物置数十棟、本新田の耕
地、荒増一円の河原となる、水災にては、一二を
爭ふ大難を破りたる村なり、耕地は勿論、居村迄、
平一面の石河原、剰へ大石其数知れず、場所に由
り、作土より四五尺余も石砂嵩り、耕地には容易
にならずと見えたり、右水災の節、御領主より種
々御手当あり、六月頃より、右石河原に仮小屋懸
りて仮居す、孔子も古郷を去る時は、遅々として
往き給ひしと聞けど、斯る有様となりても、古郷
をば尚离れ難きものと見えし、
一小松原村、荒地高七百、十石余、家潰五十八軒、
半潰五十六軒、流家四十軒、宮、拜殿、流失、其
外土藏、物置、圧死人七十壱人、
往來西山の手に地裂して、水溜三四ヶ所出来す、
水も夥しく溜りありし、
小松原中村氏記述中より、
外に川中島三堰と稱する用水路、來歴とを併せ
記したるもの、
上中下の三堰皆潰れ、殊に上堰に至りては、段の
原裏まで全形を失ひ、段の原梩沖臼櫃には、一の
滝をなし、四五间程も掘れ、其処に六尺毎にくつ
石九ヶ現はれたり、此滝水の流れは、段の原屋敷
の半を潰せり、此の水勢により、小松原の神明宮
の拜殿、流れ来り、中村屋敷に留まれり、此间凡
一里程、
死人七十五人、小松原段の原の家数二十三戸、内
十三戸つぶれ、十一人死す、
段の平は、水に潰からざる故に、川中島の人民は
来りて水難を避けたり、此時飲用水に不自由を感
ぜしならむと思ひしに、神の恵にや、段の原清水
池、方二尺五六寸、深壱尺四五寸許りなるあり、
人の汲み去るに順ひて、小声を発して湧出し、聊
も渇したるものなかりしと、
光林寺南平砂平は、凹所は凸所となり、凸所は凹
所となり、地面に髙低凸凹を生ぜし事甚しかりき、
光林寺北ナツトフ箱は、震災中は岩石堕落して雷
の如く、小松原南清水池は、震前には善光寺街道
に当り、牛馬のつく水をなす処にて平地なりしも、
震災の為に地辷りをなし、其空(穴カ)に水を溜め池とな
り、其地辷は東方に押出し、田畝を覆へり、
天照寺山は、東西半は裂け落ち、天狗の鼻とやら
稱せし葛粉糊様のものを流し出し、通行する能は
ざる程なりしが、時を経るに随ふて砂土と和し、
今日の如き硬土となれり、
福井傳右衛門翁との問答、
御地中村某の記述、又は洪震鑑などいふ書中に、
此辺は地裂れ山抜け等もありしやに見ゆ、如何、
翁のいふ、何のことない、手を以て物を揉みしと
同じく、此の山も平地も地震に揉み破られしなり、
揉み破られたる故、地もすべり、山も抜け、地裂
をも生じたるにて候、御览の如く我家の向側なる
家は、渡辺長藏、野口近治と申もの〻両家なれど、
両家のありし地は、元來田にて、今の道敷よりも
低き処にて候へしが、見るが如く地震の為め張出
して、六七尺の石垣を築き立つるを要する程の高
地とはなり申たり、ぬけ出したり、ずり出したる
が為め、此の如くなりしならむには、不思議とす
るにもたらぬなれど、ぬけもずりもなく、彼が如
く張り出したりしなり、然して彼の張出すと共に、
天照寺山嶺は低下したり、申さば、山が腰をつき
て膝を此方に張り出したりとも申すべきか、此地
低地にして髙地となり、高所にして低地となりし
も多かりしが、光林寺門前の如き、一反五畝程の
沼田なりしかど、是亦地震の為めに張出して、平
地より、一丈余も高き丘陵となりたりしが、後其地
を畑となし、家を作らむとて地ならしの時、中よ
り枯木の大なるもの出て来りたりき、
地割の生ぜしとは、何れの地なるや、新屋敷の裡
手に葺池あり、其葺池こそ地割れのもとにて、夫
れより檀の原光林寺門前迄、斜めに七八町大なる
裂目を生じたりしが、其裂目は後々までも明かに
存ぜしが、近年其原地を桑畑とするが為め、地
をならし、石塊どもを裂目につめなどして、今
は新屋敷の裏に、其名残りの片はしを存するの
みとなれりとの事なり、
中村の記には、割目より天狗の鼻水とやらむ〓
せし葛粉糊様のものを噴き出したりとあり、如
何にやと尋ねしに卋上にて左様に呼びしといふ
事は、某は承らねど、神明宮の鳥居の彼方の地
割を生じ、其地割より夥しく白砂と白浊水とを
噴出したりき、總じて此小松原の飲用水は、流
れにあらず、井にあらず、小さき溜池なれども、
当時の地震にて、一般に白浊を生じて、飲用に
堪へぬ程なりし、歳を経るに従ふて、いつしか
其浊りはうすらぎて、今は何れも全くむかしの
如き清水となれり、
中村氏の記に、天照寺の低下して、里村より小
野平﨑の三分一を見るに至れりとあれど、果し
て然ることなるや否、翁のいふ、前に申通り天
照寺山の低くまりたるは事実なれば、里方より
見て然りといふも、最の事と思はるとのことな
りき、
翁の曰ふ、小松原の戸数は当時八十戸、人口は
其春の調べに八百壱人なりしが、内死人七十三
人、潰れ且流失せしもの百軒、山手の家七十内外
なりしが、潰れたるものは四五軒に過ぎさりしに、
道の此方なる家は平地なれども、平地にありし家
は、槪して潰倒したりき、さればとて、此より少
し東の平なる今里村などは、地震も軽く、倒れし
家、極めて少分なりきと、
裂目も所々に生じ、水を噴し、砂を吐きたる所あ
りしも、筋たちて裂目を為したるは、段の原のみ
なりき、
浅川村、字伺去眞光寺の峯丸翁を問ふ、
伺去眞光寺は、元來十八戸の村落なり(し脱カ)が、地辷りに
よりて、其十七戸は倒潰し、内二戸は土中に埋没し、
死者十九人を算したる所とす、
今の伺去眞光寺と稱する石油井のある所は、当時
の地震に懲りて家を移したる所なりとぞ、本村に
は、今は只六戸あるのみ、問ふ、翁嫗は震災の当
時、何歳なりしぞ、翁のいふ二十四歳なりき、嫗
のいふ廿五歳なりし、然らば所謂女優り夫婦なり
しよな、更に問ふ、震災の当時、翁が家は如何が
せしぞ、何れへ埋没したりけむ、影げも形もなく
なれり、然らば家内には死人怪化(我)人も多かりしな
らむ、否な壱人の死傷なかりし、夫は何が故ぞ、
母は妻と弟と共に村山村の親戚の処にゆき、父
は山影の清水と申処に往き、私壱人のみ家にあ
り、今の世の如くランプなどのある世柄にてな
かりし故、壱人留守しながら、行燈かきよせ、
肱枕にて浄瑠璃文を読みありしが、いつしかま
どろみて、地の搖り出したるもしらずありし、
目を覚したる時は、其身は家の外にあふり出さ
れて、結びありし帯もいつしか解けて、帯とり
裸にて、畑の中に倒れあり、何やらむ恐しきも
の〻空を飛ぶやうの心地して、頭を抱へて地に
伏したるに、一両度地よりはねかへされし心地
したり、巳にして彼所此地に叫ぶ声、呼ぶ声、
助けを求むる声の起りたれば、夢の如き心地に
て、天を見れば、星の爛然たるあり、暗をすか
してむかふを見れば、前山は鼻の先にあり、さ
ては山抜の為め、身は浅原河に押し出されしな
り、まご/\すると、後よりぬけ來る土石の為
に、命をも失ひなむと、一さむに父がゆきたり
し清水の方へと志し駆け出でしが、路次に地裂
の夥しく、処によりては、上は懸崖を為し、下
は測る可らざる深さの地割あり、止むを得ず、
林中に入り、木の间を手取りゆきしも、尚処々
に裂目ありて、頗る危きを覚へたりき、ゆきて
荒神様の処に至りし時、父の清水より帰り来るに
逢しかば、家の方は山抜なれば、再び清水に帰る
方安全なりと申せしに、否々山抜にあらず、地震
なり、清水も大地震なりしが故に、家を案じて帰
り来りしなれ、地震は清水にゆきたりとて迯るべ
きにあらずとて聞入れず、清水は地震なりしなら
むも、家の方は山抜けに相違なしとて、有りしさ
まを物語りしに、さては家の方は地震に由りて山
抜の生じたるならむ、暗に迷ふて裂目に堕落する
ものもありやせむ、責めて生き残りしもの〻みを
も救はむとて、苅りありし柴ども、方々より取集
めて、山に積み重ね、火を奌じたれば、火光は忽
ち白晝の如く、村の方を照らし(し脱カ)かば、其光につれ
て大声に て呼ばりし故に、其夜の中
生き残りし人々は、大抵其処に集り来りしと、
ぶらんこ薬师の彼方にある大岩巨石の、路の上下
累々たるものも、当時の地震の為めに崩壊したる
ものなりと聞く、果して然るにや、さむ候、彼も
崩れ出したるなれど、彼の崩ると共に此方の山も
抜け出して、大小の木は其上になだれか(か脱カ)り、嫗が
村山より帰る時、村に入りてより此に来るまで、
才に半里許りの処なれど、彼処の峯に出で、此処
の谷を伝はり、危を冒し難を凌ぎ、半日を費して
我家の処に至り見れば、昔日まで住馴れし家は、
いつ地ゆきけむ、影もなく、誰が家のものとも
知れぬ破れの屋根、折れし柱など、彼処此処に
散乱し、田畑も元の田畑の影を存せずなりし跡
を見し時の心地は、言葉にも話しにもならぬ次
第なりしとの、妪が側より出で〻の物語りなり
き、
濃尾震災弔祭會席上に演べし所、岩倉と柳窪
との震災〓跡を訪ひし談話、
會主より、此回濃尾の震災に横死を遂げたる人の
為に弔祭を行ひ、且其家族等賑恤せむとて、一会
を設くるにつき、其席に出て、何ぞ一言演べて呉
れとの事なりしかば、応と心易く承諾せしも、扨
如何なる談話を為さば、死者の靈魂をも慰むるを
得るか、如何なる論説を吐けば、なき魂の手向と
はなるらむ、濃尾の震災の惨毒なりし様は、日々
の新聞紙の報ずる所にて、聽衆諸君の夙に知悉す
る所なるべければ、今更新らしく口を開くの必用
もあるまじ、地震に就きての学理の解明でも出来
ればよろしけれど、これは自分など浅学のもの〻
出来ることではなしと、斯く思ひ回し来れば、い
ふべき事は更になし、深く考もせで、易諾けびき
を為しは誤りにてありけると、後悔はせしも、巳に
諾せし上は、ひくにもならず、尚頭を低れてしばし
が程考ひしが、此度地震につき語らむとすればこそ、
いふべき事もなきなれ、平生自分が取調べ来りし事
柄などこそ、其席には適当の話しならむ、いで〻一
席公衆の前に物語りせむと、終に此席に临むこと〻
なりぬ、
某は此地より百余里東方、むかしの奥州二本松藩に
生れたるもので、某が生長の際住せし家の前には、
六七间に拾貮间許りの池がありまして、庭園中にあ
る池としては、大きな方の池でありましたが、夏は
其池に釣をたれ、又は游泳などを為し、冬になれば、
近所友達と共に氷滑りをするなど、某が年中の遊び
は、大半其池が相手でありました、ある冬の朝、早
く起きて例の如く氷上に出しに、五六歩蹈み出すと、
轟然折開して、身は寒水中に陥りました、不意の出
來事故大に驚愕して、声を限りに叫び出てましたか
ら、父と兄とが出て助けあげて呉れましたが、少時
なれども寒水に塗(〓)れし事故、足の歩みもならず、兄
の手に掖せられて、才に椽前に至り、塗れたる衣を
脱ぎ挽ひなどして、火爐を擁せしめられました、父
の申しまするは、氷も今は坚く張詰めたれば、此児
の重量位にて割る〻筈はなし、昨夜余程の地震あり
しが、地震の所為にやあらむとて、掃(箒)を手にして
池辺に至り、氷上に被りし薄雪を掃ひしが、果し
て縦横に亀裂を生じ、其裂目より水の浸出せし痕
跡あるなどを見出だせしかば、父のいふ、昨夜の
地震は、強さの割合よりは、搖る時间の甚だ永き
を感じたり、往年善光寺地震のありし時の地震と
相似たり、或はいづこにか大なる地震もありやせ
むなど、夫れより談は善光寺地震の事に及び、善
光寺の地震は、古今例なき大地震にて、地裂けて
火を発し、山抜けて水を噴し、善光寺町民と幾多
の参詣人ちは、為めに生きながら焼(焦)熱地獄に陥り、
川中島平野の農民は、為めに魚腹に葬られしもの、
数千人に及べりなどのことを耳にし、巳に水中に
陥りて驚愕の念生じ、尋で其事の地震の所為な
りし事を知り、更に善光寺地震の惨毒なる談話を
聞きたる事なれば、深く地震の恐るべきものなる
を感じたりき、其次ぎの夜に至りて、頻りに早駕
篭の通る声の聞へければ、父のいふ、果して上方
に大地震ありしならむ、先刻より数回早追の過ぐ
るを聞くとて、夜の明くるを晩しと、問屋場に至
り尋ねしに、果して江戸表に大地震のありとの事
なりき、是安政度江戸大地震なり、それより二三
十日间は、江戸表なる地震の惨毒なる話しのみに
てありしかば、更に益々地震の恐るべきを感じたり
き、爾來物变り星移り、三十余歳を経て、身は善光
寺長野の地に來り、職を善光寺町に奉ずるに至れり、
茲においてか、彼幼年の時、父より聞きたる驚くべ
き恐るべき談話も、復たび脳裏に呼び起され、地震
の事実を取調べむとの観念を起し、書類を蒐集し、
又は古老に尋ねなどして、其事実を後に伝ふること
を謀るに至りました、しかして彼災害の有名なる岩
倉、柳窪等の地は、山间、殊に近きも六七里より、
遠きは十余里を隔つるを以て、其地を訪ふの時機を
得ざりしが、此夏、北安曇の教育会に招かれ、帰途
迂回して高地より柳窪に出で、岩倉を訪ふて、其実
地を憑吊するに及びて、百聞の一見に如かず、見る
所の聞く処に勝るものあるを以て、独り自家の見し
のみに止めず、併せて人にも示し置かむと、其後二
十四人の生徒を従ひて、二夜三日の旅行にて、其跡
を尋ねて帰り来りしは、去る廿四日の事にして、帰
りて未だ一週间をも経ざるに、此度濃尾においての
震災あり、佛者に言はすれば、定めて深き因縁のあ
ることだと申しませう、
已に其因縁を演べ悉したれば、これより更に実地見
聞せし談話に移らむ、村誌を見れば、岩倉の山は百
二十文とありて、(麓の川床より算せしものならん、)
其山は今日見る所にては、大略四十五度以上の角
度を保ちて、犀川に临みてありますが、震災の為
め、其山の半面が犀川へ辷り出して、対岸の花倉
と稱する絶崖の根に衝突しました故、花倉の岩壁
も、其上に崩れか〻りました、そが為め厚さ百八
十间、高さ三十二间といふ、大なる堤を為して、
犀川の水を堰きました、彼三百間の橋を架して通
行する丹波島も、二十一日の间は、草鞋はだしで
往來が出来たと申します、其间四月七日、八日な
どいふ日は、暴風猛雨甚しかりしと聞けば、山々
谷々より流れ出したる水も夥しかりしなるべきに、
それをも併せて堰き留めたのであります、それ故
上六七里が间は、湖水の如くなりしと申事であり
ましたが、二十一日目といふ四月十三日の夕に至
り、一時に決壊して、其水が一度に川中島に押出
したのでありまするから、其害の甚しかりしも断(埋)
りであります、此水害の事は、人の知る所なるが
故、略します、
決壊の際押出したる水は、小市峡を出る時は、
五丈八尺(或は六丈)とあり、松代にては貮丈
下高井は一丈八尺、飯山にては一丈五尺余なり
しと、
水難の関係が広く、其評判が大なりしが為め、岩
倉山の抜け出したることをしらぬものはなけれど、
其ぬけ出したる地盤の上にありし、岩倉村の惨毒な
りし話をするものがありませむが、其地を訪ふて始
めて其実を得ました、岩倉村と申は、元來三十八戸
と申しましたが、其ぬけの節は悉く倒潰しました、
單に倒潰したのみなれば、まだしもの事なれど、倒
潰したる屋上より泥土に塗れましたさうです、それ
は辷り出すと共に地床に裂目を生じ、又は分断しま
して、其裂れめ分れ目より泥土を噴き出したと申事、
それ故家の下になりしものは悉く死没して、八十一
人の多きに上りましたと申事、已に泥を被りし故に、
食料も衣類等も、皆泥の中にむされて用に立つもの
はなかりしとの事、殊にあはれに聞えましたは、内
山清四郎、内山和吉と申二戸、十二人の人々にて、
こは地震の当時、ずり面とずり床との间に、大なる
開裂を生じ、其内に陥れて、家も人も影も形ちもな
くなりて仕舞ましたさうです、今は其開裂せし場所
に水を堪へ、四十七间に百三十八间の湖となりて残
りあります、
辷り出したる地盤の鼻は、對岸の鼻(花)倉の岩壁に支
られて上りしものなるに、其鼻は水の為めに決壊
され、下に支ふるものなく、ずり床と面との頭に
は、測られざる程深き湖あり、裂開せし傷跡、分
断せし有様は、歴々存在して、岩倉村三十九戸
の小部落は、今尚不安定の位置をなし、後も大
地震あらむには、再び舊時の跡を襲ふならむか
と、我々をして座ろに危懼の念を起さしめたり
き、
岩倉山は、当時の地震に、一面は花倉の方に辷
り出し、一面は其東なる安庭の方に辷り出し、
一面は安庭と反対なる西の谷に押出し、三方に
分裂して辷り出せしものとす、然して遠く水内
橋辺より望むも、其山は□(覆カ)輪をとりたるごとく、
今尚其辷り面の、岩壁を為して聳つるを見る、
裂開によりて出来たる湖水も、余の初めて訪ふ
たる時は、天然の侭なりしが、後に尋ねたる時
は、已に樋を伏せて、田用水の灌漑に供せし故、
今は全く人工を以て穿ちたる池沼の如き観あり、
岩倉の地を訪ふて水内橋を渡し、新町鍋屋に投宿
しました、新町は是亦悲酸(〓)中の悲酸を増めたる地
であります、戸数は三百戸と稱せし、犀川に添ふ
たる山中の一市街でありますが、地震の為めには
大半潰れたので、潰れると共に火を発し、火煙の
未だ消失せぬ间に、下流、岩倉にて塞がれし為め
に水中に浸され、水中にある事十九日、水決壊し
去りし時には、其水力にて余烬を併せて流蕩し悉
しまして、眞のから庭となりたる所で、震火水の三
災を一度に受けました地であります、新町を去り、
柳窪の间は三里と申、馬の脊を亘る様の道でありま
すが、柳窪に至りて、其湖水を見ますれば、其気色
の宣しいには、誰人も驚嘆いたします、殊に紅葉の
節が最も妙です、日本に有名なる地とはならねども、
信濃の國にては、三五晩と下らぬ風景と思ひます、
今は風景の美を述ぶるの必要も御座いませむが、其
風景を為さしめたる源はと申さば、忌はしき弘化の
震災によりて出来たるものであります、抑も柳窪の
湖と申すは、白根山と申山の一面が、地辷りの為め
前なる渓间に押出して、渓水を堰き留めたるが為め
に生じたるものにて、凹字形を為し、長三百间もあ
りつらむと思ふ程にて、小舟二艘を浮べて、薪木等
を運ぶの用に供しあります、深さは土人の言に由れ
ば、四十间もあらむとの事にて、我も前より望みた
る堤の様にては、尚其上にも出でむかと、舟にて錘
を下して測り試みましたが、二十二间四尺程であり
ました、右之地辷のありし地盤の上には、鹿谷村字
柳窪と稱する十八戸の部落がありましたが、辷り出
したる際十七戸は悉く倒潰し、其中十三戸は焼け、
四戸は割目より噴き出したる泥に塗れ、只一戸のみ
傾きて倒れむ様に傾きましたれど倒れずありて、今
日に存在してありました、尤其傾きをば、手を入
れて繕ひ修めたのであります、当時組頭を勤めま
した某の言に、某は隣家の風呂に入りてありし際
なりしが、大砲を連砲(放)するが如き響と共に、家は
搖り倒れむとする様故、遽て飛び出し、裸体にて
外へ出でむとて、戸を開けむとするに、家の翁は
其の手を取り留めむとする故、其手を振りもぎり、
板戸を蹴放して、柿の木のありし影(蔭)を目あてに、
其処に逃れ来りましたが、後より追々他の人も其
木の下に逃れ来ましたが、何れも土だらけになり
て居りました、其中に或る潰れやの内より火を発
し、其火の光によりて見ますれば、家は皆々潰れ
果て、どれが何処の家やら定かには別らねど、
高所にありしと思ひし家は、却て低所に来り、前
なる家と見へしもの、後の家と相重りて倒れある
など、怪しからぬ有様にて、頭を回して後の方を
顧みれば、遙かに見し対面の山に相違なしと思ふ
もの、鼻をつく許りの目前に現る〻など、何が何
やらむ、只恐怖せしのみ、火を消さむとの念慮も
なく、木の下に蹜踖して、夜の明くるのみを待ち
居たりしが、明くるに従つてよく見れば、居村一
帯の地は、山抜けの為め、前の谷间に押出しあり
しにて、今こそ此の如くなれ、此辺の前后左右、
或は断崖をなし、或は泥の渠を為し、或は測る可ら
さる地割を為し、一歩も余処へ歩み出すべき有様に
あらず、さればとて、一日も食はずにあるべきにあ
らず、家は焼けたり、食料はなし、飢餓は早くも目
の前に迫り來りたれば、一方上へ訴ふるを謀ると共
に、一方食を求むるの工夫にて壮者の伍を結び、
先づ近隣の部落を問はしむるに、我地も地震の為め
此の如しとの事にて、ゆきしもの〻み、一飯を恵ま
れて帰りし位に過ぎず、大町に向はしめたるものは、
髙知川の左右、幾所となく崩壊して、川水も行人も
通路を絶れたりと報じ來り、新町へと派したるもの
ども、道路崩潰してゆくべきなく、谷に入り嶺を攣
ぢ、辛くして新町に出でしに、家皆焼け失せて、今
は水の底となれりと告げ來るなど、今より已往の事
を顧みれば、我身ながら、我の飢餓に斃れずして今
日に至りしまでの來歴を追想して、怪み思ふ程なり
とて、我が震災の跡を記述せむとの志なりといふを
聞き、涙と共に物語られたりき、
以上は私が見聞の大略でありますが、今其見聞せし
上につき、彼是を比較しますれば、其ぬけ出したる
為めに築き出した処の堤は、厚さと申、髙さと申、
岩倉も柳窪も大略同じ位と思ひますが、彼は名に負
ふ犀川の大水を堰きたる事故、二十一日にして堤が
上に溢る〻に至りて、一時に決壊しましたが、是
は細き溪水を堰きたるもの故に、三年を経て始め
て堤に満るまでとなりし位にて、遂に永代の湖水
となりました、彼は潰れたる屋上より泥を被りま
した故、三十余戸にて八十余人の死人が出来まし
たが、是れは焼けましても、泥に塗れしことの少
なかりしが故に、死人はなかりしと見へます、こ
れは岩倉と柳窪との比較でありますが、濃尾の地
震と善光寺の地震とを比較しますれば、濃尾のは
平野に起りて、名古屋、岐阜、大垣などいふ都会
もあり、人口の繁き地方なりしが故に、死人も善
光寺よりは多きやに思はれます、善光寺の地震の
強烈なりし地は、多く山手に〓(属カ)します故、死人の
数こそ少きも、地貎の变化の多きことは、幾十倍
なるか知れません、彼は今日開明の世に起りし事
故、憐むべく悲むべきの事実は、日々の新聞にて
一々天下の人の耳目に上り、世の人に同情を表さ
れまして、今日の会の如きものも、各地に起る程
のことなれども、善光寺のは、文化の開けざる時
代にて、讀賣など申もの〻手によりて、天下に伝
へられし位に過ぎざしりが故に、箇様なる会を余
所にて設けて呉てたなど〻申事は、承はりませぬ
のみならず、大方の人は、善光寺に大地震があつ
たといふて聞流しにせに位に過ぎざりしならむ、さ
れば濃尾のといひ、善光寺のといひ、彼是共に同
じ不幸の災に逢ひし人々なれども、今の災に死した
る人は、むかしの死したる人に較ぶれば、不幸中の
幸とも申すべき事と思はれます、申述べ度は尚なき
にあらねど、まづこれを以て亡靈へも手向けと致す
つもりです、
附記 柳窪は極めて僻落にて、全部十八戸地震前
は水田才に十俵あるのみ、豆と麻とを栽培して、
生業となす地と申す事なり、地震後と雖も、同じ
く豆と麻とを栽培し、其戸数も前に同じけれども、
湖水を灌漑に供するを得しが為め、水田の歩数は、
却て前時より多くなりしとぞ、
辷り面は、今尚赤壁を為て其名残りを存じ、地盤
の裂開せしあとに、水を湛へし様など、歴々存在
せり、何れの地よりゆくも、馬の脊を渡るが如き
山嶺の路を手取らざれば、薬研の底の如き深谷を
歩行ざるを得ぬ所です、
此辺に現れし岩塊を見るに、砂岩中、往々巨大な
る岩石を挟雜するを見る、