[未校訂]山水の轉變 文政十一年霜月十二日辰剋より越国い
たく地震ひり、山嶽の脱出せしもの長岡領にては六
百六十餘ヶ所、又大面町の上下村松領域にて大いに
脱出せるもの十ヶ所、皆田畠をくつがへせり、其他
僅に崩れおち缺下りなんといへる地は枚擧しがたし、
其中に専ら変とすべきものは堀溝川といふ川を塞げ
るなり、この潰れは刈谷田川の枝川にて其源村松領
下タ田郷に出づ、水流といへど流るゝ水なり、凡一
里餘皆山間にて水おほく出づ、故に見附町の郷地一
萬石餘の水田も此水を引いて足れりといへるを、山
崩れて流れを塞ぐ所六七ヶ所晝夜に湛へる水いと高
うなれるが、一斉に押出す時あらば流末河辺の堀溝
村の家居皆覆りなんと衆民やすき心なかりしを、翌
る春に至り領主の命令にて〓をさりて其ふさがりし
地をさらはれしかば、憂ひをのぞき皆よろこびしと
云へり、かヽる大変なりしかば彌彦山一𠀋ばかりも
ゆりあがれりと云ふもあり、又は三里ほど海中へ
突出せるほど妄説をいひはやせど、後に聞けば地
震のをりは山いたく鳴りし事は正しく有りし事な
り、江河の大小となく地震のときには水減じたり
しこと所々の渡守らが現に見しところ、又上リ下
りの船子共は地震と心つかで水の逆立つを川くだ
といふ難ならんかと狼狽まはりしと云ふ、暫時の
うちなれば舟のそこなふほどの事はなかりとなん、
今井新田の獵夫徳松は此時鐵砲提げて川島に出で
ありしに、川中所々波立ちのぼること或は五六尺
又一𠀋ばかり、岸辺はひきしほの如く數町陸とな
れるを見しといへり、凡て江河の堤缺下り、ゆり
窪めて川床高ふ押出し、又池沼の類ひも岸をくぼ
め水中へ砂を震出し、平地より高くなれる所もあ
り、山地の井筋は凡て山崩れて所々ふさがり、平
地のは大かた水をゆりあげ雜喉蛙など常にさまよ
へり、
長岡領鴉ヶ島の井は水路凡二里、村松領は貝ヶ島
幷水路凡一里半共に山地にあり、皆埋れて其跡を
失へりと云ふ、凡そ平坦にして堅硬の地は破裂し、
弱土は陥り砂ばかりの地は無事に近きことおほか
たの樣なり、故に鴉の森村の前後信濃川堤外川原
幅二三尺より二三間、長二三十間より三四百間、
深三四尺或は八九尺所々破裂す、又陥りしところ數
ヶ所にて幷新𦾔川原地なども又之に同じ、前須田村
民戸ある所より域腰といへる畠地へかけ凡そ長二百
間ばかりのうち地裂けて砂交りの水を吹出し、新之
丞、孫七、孫八などが宅中へ水押入れり、
古老の口碑に傳へ來し須田川あとゝいへるあたりに
ては細やかなる芥木又松の實など埋れし所多く、荻
島新田入野といふ畠地にては長八九尺、周圍四五尺
ばかりの黒みたる埋木をゆり出し、曽根新田砂川原
にても同じく周圍二尋餘、長八九間ばかりの大木を
ゆり出せり、此等のものは幾許りの年を經しか知る
ものなし、横場新田忠治左衛門が宅地竹藪の地裂け
しところより風砂交りの水を吹き出すこと高五六尺、
近隣の家宅へ水押入りて皆逃げしといふ、又曽根新
田佐助は籾をすりてゐたる折、地震ふりきたるに驚
き逃げ出で、宅に入れば寢所の下より砂水を吹出せ
るが、摺りたての米を押ながし、未宝村門岩郎が宅
中も同じく許多の砂水を吹出せり、後爐中の砂を取
りのけしに二尺許り下より巳が茶釜を掘り出せる類
かぞへ難し、
又七日一村某妻井戸のもとに茶がまみがきて居りし
がゆりたふされ、起きんとせしに茶釜なし、必定地
の裂けたる穴の中へ落ちたるならんと、七八尺ばか
りの竿もて其穴中を探れどとゞかず、七八寸許りの
小碇に網付けて穴中をさがせしとぞ、
又庄川村曹洞宗庄川寺の和尚山王村にゆきて留守の
時、山ゆり崩れて庫裡を倒す、留守せし僧侶和尚の
父傳助ともに庭にかけ出で難をさく、やがて僧等傳
助が行方を尋ぬるに知れず、然るに夜中五六尺、七
八尺ばかり長く裂けたる所四五ヶ所、若し誤りて其
穴中に落ちしやと竿もてさがせど、悉く掘穿たんに
は多くの人夫入り、〓ふべき人もあらず、かくする
内雪降り積り件の彼の裂口も三四川まで雪に埋まり
尋ねる便を失ひき、今に行方知れぬは果して割けた
る口に陥りて活ながら葬はれしならんと、脇川新田
邑長幸藏が宅前の井戸は深三間にあまり、奴婢等水
を汲みたるあと汲桶の井戸に投じ、索はしを井筒に
結びつけおきしが地震ひしとき、彼の汲器を人あり
て投げ上げし如く井筒のうへ三四尺も飛び上り、又
元へ下ると見しほどに水わき上げ曲輪にあふれ出で、
其流れにさそはれ汲桶庭に轉び出し、其索のかぎり
流れ出でゝ止む、翌朝幸藏井の辺に行きて見しに、
湧出し白砂四辺に滿ち、井中をのぞけば水は元のま
ゝをさまりぬと見ゆれど、石を投げ入れみれば初め
より深くなりて水の味ひもまされると、
上保内村長泉寺の井水は清らかにして味美なりと世
人は云へると、水濁れば必ず變ありと古人傳へ來り
しが、此年六月頃濁り、又十月の末濁あるを里人心
おちつかぬに、果して大震にあひ、かの寺は本堂、
太子堂など破壊し、庫裡は倒れ里の家は同じ様にな
り、死に失へる人さへありといへり、
妙法寺村と月岡村の間も提灯持ちて往來するもの、
其提灯に火つきて燒きにけり、初め四五人がほどは
巳が粗末より出せしと思ひ居たりしに、日數經ちて
も人毎に皆同じ、こは狐狸などのわざにもあるかと
後に變化のもの出る由噂高くなりて、夜は往来する
ものなかりしに心あるもの是を考へて、此地中の火
氣の盛んなるが眞火を與ふるなるべしと、抑も此如
法寺村百姓庄右衛門圍爐裡の隅に石臼をおきて、そ
れに孔を穿ち其穴に土中より吹出る風に眞火をかざ
せば火となり勢ひ強く燃立てかぎりなくもゆること
世人普く知るところなるが、地震になり後火をかざ
せば其烈しき事常より三倍の火勢を發すれば、出火
をおそれしか日數をへて又常の如くなりぬといへり、
元来此あたりは水田の中水沸々するところ、陸にて
は土中より風吹出る氣味ある所數多ありけり云々、
地動の兆 十一月七八日頃より日々曉潟より晨時ば
かりに〓の如き氣立ちて、其深き時は僅に七八歩先
に立てる人さへ見えがたく、又空はれわたりし時は
太陽の周圍五彩たなびき虹にひとし、氣候も大むね
そむけて高山すら雪を見ぬ暖氣につれて、萬木芽を
生じ躑躅、水僊自ら花ひらけ、山葵、款冬花を市に
鬻ぐ、我人後のうれひを知らねば春にあへる心地し
て物足り且暮のやすさを悦べり、十一日の曉日出る
まへ東南の方雲の色朱の如く、巳の時ばかりには雨
ふり風あれど、さのみ強からずして止む、十二日八
聲の鷄の鳴く頃風音あり、全くあけわたりて南西の
方雲色すきまもなく黒く旭の色朱の如く輝けり、快
晴ならんと思ひしに辰の時ころに呈り、西南の方に
て雷の如き音あるとおぼえし間もなく大に地震ひ來
りて、一瞬の間に幾多の變たなして衆人の憂苦を發
せり、抑も昔より變は他國に折々ありし事書にも見
え話にも聞きしなれど、自ら此難にあひみては世に
地震ほど恐ろしきはなしと始めて感じ思はしむ云々、
地震ふ樣 地震のゆり來る樣山野にありて見たる人
の話によれば、始め西南より風立ちて砂ほこり真黒
に煙り立ち來る其の勢ひ、大波の衝くが如くうね立
ちて地をゆり立て東方へすぎ行けり、其筋に立てる
もの樹木は地を薙ぐにひとしく、行人は皆振り倒さ
れ、又地の裂けたる口に轉び落つるもあり、此時尾
崎村善慶寺の住持は朝とく起き出で飯をも食せず三
條町に至らんとする途にて此難にあひたり、されば
起ることも得ず、ゆくりなく倒れながら東方を見れ
ば、彼方なる山々暫時出没せし由を語る、又直木新
田權八といふもの、其里近き江溝の中に雜魚すくひ
てある折から此難に遇ひ江の中にふり倒され、頓に
はたちかねて岸にとりつきはひあがらんとせしに、
目前なる田畠大波の押しゆく如く〓たて、庄瀬村の
かたへすぐ、しばしがほど彼の里現はれかくれつし
て覺えけりと云へり、又入藏新田邑長源兵衛は藏内
村邑長勘兵衛とともに、此日吉野屋村より帰路鴨ヶ
池村を過ぎ繩手道にかゝる時、この地動に遇ひて後
へころばさるを起きんとすれば又前へ倒さる、其の
かわきたる田面をゆすること波濤に似て所々ごみ砂
を飛ばすこと煙の如く、またゝく間に一滴の水なき
田面を泥水あぜの半をひたせり、翌る日其辺にゆき
見るに水はなく、所々に地の破裂せるを見たり、き
のふ見し所は何れも皆地を押破りし時のわざなるべ
しと話せり、また我隣邑某の家の前に建てる門(高
一𠀋三尺、地の間八尺)あり、左右の本柱にならび
て扣柱といふもの立てけるが、石にて根継ぎして深
さ三尺程土中に埋め置きしを突きあげたれば、左右
の塀をはなれ戸さし轉ばされ、五七間ばかり隔りて
逆にたてり、此等の話によりて地震のすぐる樣と震
氣の強く衝く其の烈しきさまを思ふべし、