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項目 内容
ID J0200260
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1704/05/27
和暦 宝永元年四月二十四日
綱文 宝永元年四月廿四日(西暦一七〇四、五、二七、)羽後能代地大ニ震ヒ 家屋倒壊頗ル夥シク、死者数十名ニ達ス、
書名 〔後地震の記〕代邑晃聞録
本文
[未校訂]星移て甲申半昔を過ければ、何角の思で草は忘草に立帰り、かしこの談議爰の説法と被岸諸に打続く処々の梅桜も盛りなりければ、見物引もきらず、磐若地悪七野の長床芝付迄とむなしき日はなかりけり年号も宝永と改まりぬ。初月中旬頃かとよ、万草山へ涅槃会に造り花して奉りし柏の枝に芽萌花咲を、柏は掻き物とて下駄を植れば下駄がなると化言には言ぬれども、日数五十日に及び干たる木にかく有も珍しく、又彼寺へ三光と云鳥來て折節囀ること難有事なりと参詣も絶さりし、其未の四日空は碧羅を張日は長閑に仰げば遊楽日に遮り、西風少くつよかりしと逐時和き暖に成て袷着るも向も多かり、鰯ありとて押合我先と浜へ行者も有し、かゝる處に午の下刻大地遽に震出ぬ、予は喪明て方々務吉岡氏の許にて一つ二つ誘行きせし内なりけるに中々居怺ふべきにもあらず、表へ出けるが、ゆり倒れて閾にて顔少しく疵付ぬれど家潰れざれば起上り我家へ帰りぬ、皆家を出居りぬ、慈母を初奉り下々迄難なかりけるも責ての仕合と安堵せり、慈母は見給ひ何々□が此変にて危き事もあるやに今迄案じぬと泣けるこそ骨に徹難有不孝の罪予ひとりあらんと怖しかりし、家はゆりぬれ共潰れず、火も見へざれば心安かりしに、前度難なかりし寺院畑町富町博労町亦清介町荒町にも火の手方々に見えければ遁れかたしと彼是したしめけるに、風やよかりけん、荒町下上町より後町まで遁れけるも嬉しかりき、され共折々ゆりけるにて、裏にあやしの小屋引むすび、漸家々の曲りも直り、閏月末には移り居ける、彼家を失ひし人々も亦上の恵み恭ふして屋移り居けるも難有き、されば野代といふ文字は野に代と讀なれば度々の大変も宣なりと改と願上げり、久敷湊にて諸國へも通じぬれば、挙つて願ふにより上の一字ばかりを改め能代と通達すべしと有し、又ある町も万町と改めたき願にまかせ給りしも、上の御惠の深き其外あけてかそへたくいいと譯とかりし、
宇蘇堂書
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 78
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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