願船寺の草創 西寺東寺の浦分—浮津室津津呂の灘辺では、男女四百余人が溺死した程である。その夜の津浪の惨害が如何に甚大であったかが想像するに難くない。想うに、この近隣では半に近い多くの人が、その玉の緒をうばわれたものらしい。ところで、此の夜、浮津浦に一つの奇瑞が残された。
浮津の人家の数十軒が、大津浪にさらわれたその中に、不思議や、商人三太夫と云う者の家が、取り残され、家族も一同無事につつがなく助かったと云う事である。三太夫と云うと、和泉の国の人で、仏千十郎と云う福人(中国、福健省の人)の末子であって、商買のため、遥々土佐の浮津へ来て、遂にここに有り付いたが、彼は日頃、阿弥陀如来を信仰して、家に安置して朝夕これを拝していたのである。
慶長九年辰、地震大潮入候みぎり、右三太夫、本尊の守護により不思議に相助り申候〔南路志〕
(中略)
〔最蔵坊略記〕
最蔵坊、俗名小笠原一学は石見の国の産。安芸の国主毛利氏に仕え、禄三千石を食む。主家、関ヶ原の合戦に破るるや、剣をすて仏門に帰し、諸国を行脚す。元和初(一六一五−二三)室戸岬に巡錫し、当時衰頽せる東寺を再建す。次いで元和四年、津呂港を開鑿。宝永七年以来、意を室津港開鑿西波止の築造に用い。是を国主忠義公に建議し、単身托鉢の浄財を以て此の工を起す。翌八年六月、国主を迎え、舟入の儀を行う。忠義之を賞し、この地に敷地三十代四歩を与えらる。因て一宇の坊舎を建立し、魚船安全の祈願所とす。即ち願船寺の始なり。爾来此の所に住す。慶安元年九月五日示寂し給いぬ。