(一) 地震
(1) 文禄五年〈慶長元年〉(一五九六)の大地震
この年は、岩木山や浅間山の噴火があり、諸国に霖雨が続いて洪水があり、その上に大地震の発生で災害の多い年であった。
大地震はM(マグニチユード)七・〇で、京畿、四国、九州が被害甚大であった。歌舞伎の「地震加藤」でも有名な伏見城では、五七三人が死亡し、堺の町でも六〇〇人、豊後の大分地方では、津波と地盤沈下で瓜生(うりう)島と久光島が海底に沈み、瓜生島でも七〇八人が死亡したと伝えられている。
当領内でも、広江村の『密林山徳蔵寺由来記』の中に「慶長元年丙申七月上旬大地震動シ、村宅湮没(いんぼつ)、寺社亦不免故#、庶民遷居シテ構ヘル今之一村ヲ」とあって、「元広江」というホノギの場所にもともと集落があった広江村は、地盤沈下のために西南にある高燥な現在地に集団移住をしたことを伝えている。
また『多賀村郷土誌』には、鶴岡八幡宮は、元は現在の北条部落と新田部落の中間にあったが、「文禄五年(慶長元年)閏七月九日戌刻、震災のために神殿、宝蔵、神器を始め、記録に至るまで大半顛倒(てんとう)して地中に陥没す」ということで、現在地に遷座して社殿を復旧したことを記している。
この二つの記録から、慶長の大地震は、広江、北条などの海岸地帯で地が裂けたり、地盤沈下の被害が大きく、低湿地になったので、集落や神社が、より高燥な内陸へ後退したことを教えてくれる。