天正の巨大地震
(中略)
「熊谷家伝記」には天正地震のことを大きく取り上げています。一日の中に2回も大地震に襲われたことが記録されています。また、各地の記録にも続けて2回の大地震があったとかかれています。地震と同時に火山の爆発も起きています。白山と焼岳の爆発です。大きな余震が何日も続いたそうです。熊谷家伝記には、余震がいっこうに収まらないので、村人が危なくて畑仕事や山仕事に出られなく、大変困り果てた。野山に出られないまま、一年間も余震が続いたと書かれています。
坂部では天正地震で山が割れて、そこからお湯が吹き出しています。それをイタチ水といって、坂部の人たちは今でも飲み水として使っています。坂部では大地震のときに岩が割れて湯が噴き出したことが永享四年(一四三二年)の地震のときにもあったそうです。坂部学校の下にある岩下清水、伊勢清水がそれです。伊勢清水は元旦の日の若水取りに使う神聖な清水として注連縄を張ってふだんは使っていません。
また、永享の地震のとき、学校の入り口のところに地割れできたことが記録されています。この地割れは今はもう埋めてありますがね。
天正地震のとき清内路村から阿智村の智里を南北に貫いている清内路峠断層の一帯で大規模な山崩れが起きています。天正地震のとき、恵那山トンネルの中津川口から下呂に向かってのびている阿寺断層が震源断層の一つとして動いたことがわかってきました。震源地は岐阜県側ですが、阿寺断層は恵那山トンネルにのびていますから、伊那谷側でも大きな震動が起こって清内路峠断層ぞいの山に大規模な滑落が起きたのでしょう。
清内路峠断層がとおっている横川峠の周辺の谷では、谷の中が山崩れによって埋まっています。埋没土の中には埋もれ木が出土します。寺岡義治さんがヒノキの埋もれ木を採取しで年輪を調べてもらったところ、ヒノキが埋没したのは一五八五年の秋から一五八六年の春の間であることがわかりました。天正の大地震は一五八六年一月一八日(天正十三年十一月二九日)ですから、ヒノキの枯死年代と地震とが合致します。