一九九一年の春、飯田市美術博物館学芸員の村松武さんは、伊那谷の『三六災害』三〇周年の企画展準備を飯田市林務課の寺岡義治さんの協力を得て行っていた。寺岡さんは一九九〇年からこの地域の埋もれ木調査をやっており、阿智村横川周辺から埋もれ木を採取し、奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏に年輪による枯死年代の測定を依頼した。その結果、埋もれ木の埋没は一五八五年秋から一五八六年春であることが知らされた。飯田市美術博物館でこの結果を聞いた私は、さっそく、村松さんと共に「古地震」をひもといた。年代と季節が天正地震にぴったりと一致していた(脚注参照)。
寺岡さんの調査ケ所は二ヶ所ある。横川峠の北側、清内路村の桑畑沢の源流部と、横川集落の湯ノ洞中流部である。前者は清内路峠断層から分岐した桑畑沢断層上で、後者は清内路峠断層上である。両者とも山腹から滑落した土砂と樹木が谷底を一面に埋積している。
濃間の佐々木さんによれば、昔の地震で横川の本流の奥が崩れたと年寄りから聞いている。その谷は神坂峠断層の破砕帯を浸食した谷である。また、『日本地震資料』によれば、天正地震で「神坂の古道(信濃峠)埋没」と書かれている。
脚注…岩波新書『発掘を科学する』の六三頁に光谷拓実氏の「年輪から歴史を読む」があり、寺岡さんが依頼した桑畑沢の埋没樹の年代が書いてある。ただし、光谷氏は埋没樹の位置を野底川と書いてあり、これは間違いである。(後略)
伊那谷自然友の会会員 理学博士
(下伊那郡高森町市田)