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項目 内容
ID J00006089
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(西暦 1586,1,18)
書名 松島信幸著「伊那路」第39巻10号(一九九五・十)H7・10・10 上伊那郷土研究会発行
本文
(前略)
直下型地震として最大の天正地震
天正地震は今から約四〇〇年前の一五八六年一月一八日(天正一三年一一月二九日)夜一〇時に発生した。地震規模はM=七・八±〇・一とされているが、不明な点が多い巨大地震で、最近の見直しではM八、内陸直下地震としては最大級といわれる。[フロイス日本史]では「極めて異常で恐るべき地震が起こった」と書かれている。震度六以上の被害地は広大で近畿・東海・北陸・中部に及んでいる。
なかでも、飛騨白川郷の猿ヶ馬場山の崩壊で帰雲城が埋没、城主と住民の全員が圧死、富山では木舟城の崩壊陥没、荘川は山崩れで二〇日間ダムとなり、決壊後は砺波平野を埋めて荘川の流路を変えた。伊勢湾岸には津波が発生、濃尾平野の一帯には液状化が起き、広範囲に地盤沈下を起こした。長島城・桑名城・大垣城などが全壊した。
この大地震を起こした断層は未だに不明な点が多い。古文書の記述から震源の一つは飛騨の白川断層で、もうひとつの震源は伊勢湾内の断層であるといわれる。二つの断層が同時に動いた双子地震とする見解もある。また最近では、阿寺断層の動いたことが確かめられた。
天正地震は普通の地震ではなかった。亥の刻(一〇時)に大地震発生、同時に白山が噴火した。焼岳も同時に噴火し、岐阜県側の山麓にある中尾では信州とを結ぶ信濃坂の番屋が押しつぶされている。地震発生の一時間後に再び大地震がおき、卯の刻(午前五時)まで揺れが続き、巳の刻(午前一〇時)に大きな余震があり、三〇日は終日大きな余震で揺れ続き、余震はさらに三日三晩激動した。年が明けても余震は激しく続き、一年たっても続いていた。
態谷家伝記に記録されている天正地震
伊那谷の天正地震は「熊谷家伝記」に記録されている。師走のとっ初め、ズズーンと山が揺れだした。止むことなく地震は続き、正月を迎えても止まらない。危なくて山や畑に行くこともできない。困りはてた天竜村坂部では氏神の森に二五の小社を建て神よ、霊よ鎮まれと祈ったが、地震は止むどころか、よく年の正月まで揺れ続いた。
その正月に、地震でできた地割れからお湯が噴き出すという異変が起きた。急斜面にある坂部では飲み水を得るのに苦労していた。そこへ降って湧いた水であるから、村人は霊を祀った御利益であると喜んだ。四〇〇年後の現在も、この水はイタチ水として使われている。
伊那市西箕輪の御射山社本社の倒壊
伊那市西箕輪には八〇九年から御射山社が建立されていた。この由緒を記した石碑が伊那インター東方の春日街道に立っている。そこは、御射山社の一の鳥居の跡で、今は礎石が残っているのみである。碑文には次のように記されている。
「前文略−御射山社本社は天正一三年の地震ですっかり壊れてしまった。その後は残念ながら再建できず、昔の祭りの習わしもすでに消滅し、やがて基礎さえもわからなくなってしまう。そこで碑を建て、謂れを記しておく」(現代語訳は小林一行著『大萱の里』による)
天正地震で倒壊した御射山社の跡をさがしてみた。西箕輪中条の白鳥孝さんとそのお父さんに案内されたのは、経ヶ岳山麗の一二五〇m地点である。そこには、石碑と小祠があり、谷は地震による崩壊と見られる岩屑物で埋まっていた。しかし、まだ見つかっていないのは、羽広の南にあったという御射山杜や、二の鳥居の礎石である。最近、羽広荘の上方に御射山社小祠が作られている。しかし、ここが大同四年(八〇九)に建立された御射山社の跡であると、確認されているのかわからない。知っている方がおられたら教えていただきたい。もしここが、御射山社の跡であるとすると経ヶ岳山麓の活断層の直上に位置しており、天正地震で全壊したとしても不思議ではない。
写3 南箕輪村神子柴地籍、春日街道沿いにある御射山社の碑
(中略)
阿智村と清内路村における天正地震の山地崩壊
(中略)
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
ページ
備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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