(加子母村史編纂委員会 岐阜県恵那郡加子母村 昭和47・4・17)
威徳寺
加子母村の人々に語り伝えられ、多くの関心をよぶものに威徳寺関係のことがある。確実な記録もなく、伝説的なことが多いが、本堂・講堂をはじめ、十二の建物があったといわれる威徳寺の存在は、その礎石や五輪塔数基の存在で裏づけられるが、創建年代は不明である。(六四頁)
しかし、『恵那郡史』に「……加子母の小郷地蔵、大威徳寺関係遺址……など、いずれも当時代における創建又は改修のもので、直接間接に頼朝の敬神崇仏の影響を物語るものということができるであろう。」と述べ、『岐阜県史』(通史・中世編)に「天台・真言の系統に属する重要な寺院のほとんどは、古代すなわち平安時代に建立されており、この時代に新しく作られた寺院は殆どない。しかしこの時代には天台・真言両系統の人達の一部が、この地方における山岳信仰の中心地に集まって、地方的に特殊な信仰形態をもった集団を作り出している。」と述べている。更に、「威徳寺は頼朝の命にて永賀上人(或は文覚上人ともいう)が諸州を廻わり、この地にきてこの寺を建立した。其の後、兵乱で荒廃したが、修理もできない時に、天正十三年十一月晦日の大地震のため、本堂はじめ諸建物が焼失し、その後再建の力もなく、僧促も方々に散ってしまった。」(『益田郡史』)と書かれているように、鎌倉時代には創建されていたものと思われる。
この威徳寺の十二坊の一つとしての多聞坊が小郷の舞台峠下にあったといわれるが、これについては伝説の項に記述されている。
常楽寺(神土)・大蔵寺(佐見)が威徳寺の末寺である(『中野方町史』)というのをみると、その勢力範囲がうかがえ、加子母農民にもかなりの影響を与えていたものと思われる。
更に、威徳寺と関係して、「小郷は元飛騨国益田郡竹原村の内で威徳寺の境内及び寺領であったが、天正以降廃寺となり元和元年加子母村に加えたりという」(『恵那叢書』)とあるが、この書物自体明治になって古老の口伝を記したもののようであり、これより推測することは極めてむつかしい。(六五頁)
大沼
舞台峠から小郷の平へ降りた近くに、大沼という沼があった。近年行われた耕地整理事業のために、大部分は田になり、僅かに山際に残った所も干上っているが、それまでは泥深い沼であった。天正十三年威徳寺が壊滅した地震の折に、この地が陥没して出来た沼であると伝えられ、今でも大きい木の株が沼の底から出て来ることがある。
多聞寺さまは昔威徳寺十二坊のうち東坊で、坊さんのお墓のあった所で、お城山から威徳寺へ行く通り道にあった。
威徳寺へ行く坊さんや侍たちはこの寺で一服して、それから舞台峠を越して威徳寺へ上ったもんや。よろいかぶとに身をかため、足ふみたらして通った鎌倉武士、深いまんじゅう笠をかぶり、墨染の衣を着て白い脚絆に草鞋ばきで独鈷を鳴らして通る坊さん、大なぎなた(・・・・)をかついで白い布を頭に巻いた僧兵、美しく着かぎって黒い髪をたらし、駕篭に乗った鎌倉の女御達、みんなこの寺にお賽銭を上げてお参りして休んだもんや。威徳寺が大地震で倒れて焼けてしまった日に、多聞寺も亡びてしまい、何処かよその国へ寺の籍を売って廃寺になってしまった。
途中で、威徳寺に詣で、峠に舞台を設けて能狂言を催し、一般民衆に観賞させた。それからの此の峠を舞台峠と呼ぶようになったという。なお威徳寺は多くの寺領を有して勢力を誇っていたが、天正十三年(一五八五)大地震の為に倒れてしまったとも、兵火に罹って焼けてしまったともいうが、今は僅かに礎石が残っているだけである。(六七五頁)