吉備国名方浜宮
右(○名草郡)大野荘名高、浦の東二町許藺引森是其旧址なり、今は藺引森より東三四町許山岡の半腹に鎮まり坐せり其山岡は東の山より続きて平野に突き出て延袤方五町許といふ藺引森は海浜に近く平桁の地なれは洪波の患ありて此山岡高爽の地を択みて遷し奉り日方一村の産土神となし呼ひて里神といひ来れり
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、これは大野荘産土袖春日社の神幸所なりし時といふ是等も今、は皆田畠となりて其所に桜樹一株ありて猶其地を標すといふ、然るに此地海浜なれは数百年の間には海嘯洪波の患幾度もありしならん何れの時にかありけん其患を避けて此山岡の地の小高き所を択びて御社を遷し奉れり。
(都司注) 右の神社移転記事の前に、応永六年(一三九九)には神社は藺引浜にあったことを記している。また右の記事のあとに天正兵火の記事がある。よってこの文にある洪波の患とは明応の津波のことであろうか。
(○参考に左の〔続日高郡誌下〕を掲げる)