(「にじ五色の橋」の天承)
さてその架橋の地点であるが「長弁記」の「搭世川松流水の上」というのは、大市神社の旧地である妙法寺の川松であると一応解されるが、その川松は搭世川の支流分部川の岸にあって、そのような所を通るはずもなく架橋する必要もない。
ここで川松流水というのは、ただ河岸松林の中に橋をかけるという意味で、今の搭世橋に近いある地点(刑部三本松の辺)であるということになる。しかしこれは明応大震災(一四九八)以前のことであるので、そのころの搭世川床は今の川床とは大いに違って南流し、当時の安濃津も今の津興の地にあったので、そこに入る渡河地点がどこであったかは結局不明というよりほかにはないので、これらについては後人の研究にまつものである。
(三月地志)
明応震災(一四九八)までは、今の乙部浦から松のはえた州崎が海中に突出し、矢野の崎と相対して海湾を抱いて天然の良港を形成し、風光は明美で安濃の松原と呼ばれて文士の諷詠にのぼったということである。按上世藤方垂水の辺より海涯に松原あり、又乙部村字権現浦に松原あり、是等古の遺址なる歟、為家の和歌、長嘯子の説によらは此説を是とすへし、又家長の和歌、田村の風謡によらは安濃郡の松原寺の地を指すも一説とすへし、孰れか是なることを知らす。
(伊勢参宮名所図会)
安濃松原、此辺の浜手な、り今はなし、明応七年(一四九八)の地震に、城下松原ともに波に沈めり、其以前は津の町と海との間にありしと也、昔は此松原辺へも大船着て、風景甚よろしき所也と云ふ、