当時の記録である「後法興院記」の記述を真実とすべきであろう。その七年(一四九八)の条に
八月廿五日(、己、丑、)辰時大地震……九月二十五日伝聞去月大地震の日伊勢三河伊豆大浪打寄海辺二三十町之民屋悉溺水数千人没命其外牛馬類不知其数云々前代未聞事也。
とある。そして当時の安濃津の地況激変の状況についての諸書の記述は、次のように、大同小異である。
……明応年中の地震以前には津町と海との間に古りたる松原有と云、其の松原入江深く船かかり又往来の便り宜き湊たりけるに地震の時破却して松原と共に跡方もなく湊も遠浅に替り待ると云々。(勢陽雑記)
勢陽府志云安濃津と海との間に松原ありてこれを安濃松原と云明応七年の大地震に城下も松原も浪の為に沈めり、今詳にするに後土御門天皇明応七年六月十日洪浪に府下の民屋も十九丁許沈没したるは遠江浜松荒井今切の渉に変したると同時なり、或は云万治元年洪波に湮没すと云ふは後人の臆断なり……。(五鈴遺響)
この「安濃津と海との間に松原あり」とあるのは、安濃津の港湾と外海との間に松原の砂堤すなわち安濃松原があったという意味てあって、その位置についての伝説は、中川原村より南方今の権現社の筋海中に入り無理、享保中頃迄は干汐には海中に此あたり人家の在りし所ならんと覚しき物所々に見及ひたりと中河原村一老人の物語りしを#に記す。尤も土人の話なれは其の由来を明らめ得す。(伊勢志略)
権現社とは今の乙部海岸通俗権現という地点で、そこから安濃松原が突出していたというのである。
明応三年五月七日、同七年六月十一日両度の大地震に安濃津十八九町沈没と申伝ふ。安濃松原此の災に海となりけるとなん、遠州今切の大変も明応八、年六月十日の事といふ、明応は後土御門院の御世なり今を去ること三百五十年前なり。安濃津の湊口より十町許り漕き出れば忽ち海深き界に至る。#迄は遠浅なり潮の退きたる時に波の底を窺ひ見れは其界絶壁の如く険しく此乙部浦の前より南烏浦の方へさし続きたり俗に壇と称す、是れ彼の松原の基となりといふ。斯くの如く海中にさし出てあらは丹後なる天の橋立なとの如く実に絶景の名勝なりけること宜なり、此の松原失せたるによりて古より名にし負ふ湊も跡なくなりて今は風を避くべき舟かかりの便なく、風潮海砂を押し揚け来りて湊埋りて浅くなり大船の出入自由ならすいといと惜しき事也。(勢陽考古録)
洞津の海は至っての遠浅也、昔は今の海の中に町ありて往来なりし山、今に海中に一段深き所ありて其辺に昔町屋の前なりし溝の跡なりとて石の列へし場所ありと聞けり、其の頃は安濃松原なともありて今立町に半に掛かる小さき板橋も其辺に渡せるよし……。(九#堂随筆蘭塵)
安濃松原は海岸と共に十八九町海底に崩れ、松の木末は海面に浮草の如く洪水後七十余年後まで海中に松木多く残りあり……。(雑集記)
……松原の旧址或は塔世川南の堤塘にある古松を其の遣跡ならんと云ふ説あれとも定かならす、又今の川口より一町余り沖中に俗に一の洲と呼ひて干潮の時は出入の船舶大に困難する所あり、随て浚渫すれは随て埋没す、これを故斉藤拙堂翁或は松原の根盤にもあらんかといはれし事ありき。古昔の湊口は今と違い津興の東阿漕浦の沿岸に元口と称へる所あり先の津口なりしと云伝ふ。平相国、文覚師の乗船も此の津口ならんか……。
(草陰冊子)