保福山教念寺(中略)
伝云、明応中観誉上人は鎌倉光明寺の八世たり。時に某年天下干魃、因て雨乞の祈祷の為上京す。然るに明応七年秋益頭郡海立溺死する人夥し。上人帰国の時此郷に小院を建立、溺死人の屍を取集て骨堂を建て、亡霊の供養を修せられしと云。近頃まで田中に地蔵を建て其印とす。今は地内に地蔵を移し建。
(中略)
此村明応年間 会下島並に小川本郷の北田野辺三ケ名の辺まで海水湧て狂涛入しと云。又慶長にも川成せしとて古堤の跡処々に残れり。又筒井は五六尺堀ば水を得。水赤く濁りかなけありて悪水なり砂こしにて用ふ。
※本号は第十六志太郡巻之三小川の項の記載。「此村」とは小川村のこと。