寺田 テラダ
丸子宿の東南につづきたる村なり、(中略)又此村の山にさしむ山といふ所あり、此山の半腹に海浜の小石多し、古老の伝に昔大津波の荒ありし時、此山まで波をうちあげし事ありて其時の石なりと云り、今を以てみれば、海辺とは大にへだゝれども古へは大和田のあたりまで入海ありしといへば、ほど遠からず、いづれの年の事にや考べからず、もしくは益津郡坂本の条にいふ明応年間の洪波の事にはあらざるにや。
(中略)
益津群 上
(中略)
古は今より土地も大なりしにや、風土記、和名抄に本郡に収めたる地名今は志太郡に入たるもの多し、又明応七丁午年八月八日、大雨、同二十五日の大地震にて、海水大に湧、洪涛を起し、村里変じて海となる所多くして古を考がたきもの多し、
高草山 林叟院 禅 曹洞 遠州高尾 石雲院末
(中略)
法永も此事を異なりとして、不日寺を今の所に移し林双を改め林叟院とす、今の山神石と云は、則、彼異叟の遺跡也、其翌、明応七年秋八月八日大風雨、同二十五日大地震動し、海水大に湧き、溺死する者凡二万六千余人、異人の言の如く、果して林叟院の旧地、忽変じて巨海と為る、と彼院の古伝に見ゆ、
保福山 教念寺 浄土宗法地 慶安元年御朱璽寺領玉石大年
(中略)
伝云、当寺開山観誉上人は相州鎌倉光明寺の八世也、明応年禁中雨乞の御祈祷あり召に応じて上京す、、帯郷の、時にや、、然るに明応七年此浦海立近郷の里民溺死するもの数千人、こゝに溺死人の骸をあつめて骨堂と称し地蔵を安置、又小院を建立して溺死人の供養をすとかや、今の教念寺是也と云、
(中略)
長谷川次郎左衛門尉政平屋舗跡(長者屋敷)
在小川邑、長谷川氏先祖未詳、大和長谷川の流か、世々駿河益頭郡小川居住、、今隷志、太郡、家富饒にて長者と称す、今川家の幕下に属す、政平或云正宣、性文武才あり、連歌をたしなみ常に宗長法師に会す、又仏法を信じ賢仲禅師を帰依して精舎を郷中浜方に草創す、明応六年異人の告に因て賢仲暗に天変を悟り、政平に告て高草山麓に伽藍を遷さんことを謀る、
同七年秋八月海立果て溺死するもの二万六千余人、林叟旧地巨海となる、同九年諸堂を坂本に建立す、政平永享五年誕生、永正十三年六月朔日卒、
寿八十七歳、号林叟院殿扇庵法永居士林叟院に葬す、
長谷川氏今川義忠、氏親に任