戊、子、十一月下旬、左右の人云ふ。坊間を高呼して売り行(アルク)者あり。小図を携ふ。求めみれば、越後国地動のことなり。予廼(すなはち)取りて見れば左の如し。
なるほど其後も都下往々この風説あり。予が居所も其頃小しく地震せり。思へばこの日にや。
又、松前氏の老臣蛎崎某の養子伊三郎なるは、予が久しく知る者なり。近頃来り云ふ。松前の商船、鮭、鱈ヲ多ク積(つみ)し大船五艘、その頃越後ノ海にかゝりゐし所、皆行き方を知らず成りしと。さすれば彼地の海中も波涛大に起りたるがゆゑに、浮船もこれが為に漂揺して、遂に破裂せしか。抑(そもそも)地面震すれば、潮水も亦激怒するか。
又予が内に、此地の東本願寺所縁(ゆかり)ある者あり。この本願寺のとり沙汰は、越後の便り曽(かつ)てなし。さすれば彼地東本願寺震壊のとき、寺内の僧俗悉く圧死して、申送る者なき故ならん。却て同州他人のもとよりは、地動の変を云越せし者もありしと。
又予が方に久しく出入する匠(たくみ)に、貞七と云(いふ)あり。生国越後の者なれば、便はなきやと聞くに、曰。某が在所は柏崎と云所なり、此地ハ桑名、侯ノ領所、。かの東本願寺は同国高田にして、相距(へだつ)ること二十余里。然るゆゑか、頃ろ便り来れる略は、十一月十二日、朝五ツ頃より地震したるが、この町方は他に比ぶれば強きと云にもあらず。家居ゆり倒れたることはなく、所々土蔵の壁落たると云ほどなり。されども井などは、所により、底よりねば土、或は沙を吹あげて埋りたれば、村方などは、所々呑水(のみみづ)に困れりと。
又鍋釜を商売する家あり。この地動のとき、棚より上げ置し物震墜(ユリオチ)て、人も器も破創の者多かりしと。又かの本願寺、本堂十二間四方、庫裏三十間余、幅十何間、悉く震倒したれば、其したより火発して、堂舎焼失すと。因て京より輪番の僧侶、みな焚死すと。惨(ムゴ)きことどもなり。
又、この本願寺の辺、或は新潟のあたりは、分けて震動して、五百人余の死亡。潰家は未だその数を知らずと。
林子曰。今年はいかなる凶年ぞや。参、遠、駿、甲、信、及関東各処、洪水の殃(わざはひ)ありて、その後九州風涛の変は、古今未曽有の事の由。長崎在留の蘭人どもは、世界を舟行する者どもなるが、かゝる大風と云こと、西洋にも嘗て聞ざることと評せりと云。人民の死傷万を超しことなり。又北越の地震も、めづらしき計のことの由。是も亦人を傷りしこと、千を以て数ふと云。太平の世、かく人命を空く損壊すること、歎ずべきの甚きならずや。
○巻二十一所載絵図記載文は以下の通り。なお、地名・人名等は割愛した。
十一月十二日、同くあさ五ツ時より大地しんゆりいだし、十四日迄三日のあいだ、ちうやゆりやまず。うみべどふり、いづもざき、八彦明神の山、大にくづれて、海の中へおしいだし、同所三条まち、つばめ町、また東御門ぜき、みどう大門、のこらずゆりたおし、其外、田はた、山川くずれこぼり、大地へあぶれいで、人馬けが人数しれず。凡いへかず八千げん余たをれくずれ、牛馬三千余も打ころされ、こゝんまれなる大地しん、そのあらましをこゝにうつしぬ。