目録
地理のあらまし 地動の兆
なゐふるさま 山水の転変 六条
遁れんとして却て死す 二条 不意にして死をのかる 三条
慾ハ止リかたきもの 二条 愚直なるもの 三条
力およはさる類 三条 貞操
いさきよきもの 神祗の威徳 二条
忠勇 死をさたむれと死せす
心を動せさるもの 憶病 二条
我身のうへ
附録
惑問 五条
懲震〓録題首
文政十一年霜月十二日辰ノ刻はカり、我越後国いたくなゐふりて(地震)世に悲しう浅間しき事のミおほかりし中にも、古志三島の二郡東北のほとりより蒲原郡の南辺へかけて殊にいみしく、わつかに南北十里東西七、八里はかり乃間に、死ける人千をもてかぞへかたハつくはカりの疵おへりけるハいくらといふ数をしらす、久方のなる神よりもおとろ/\しく地の底とよみつゝ、山くつれてハ谷を埋ミ、河の堤さけてハ水溢れさらぬ処もおちいりて、水湧きいさこふき出て水田ハ畠よりも高く、岡ハ忽ち池沼となりぬ、さるからに道行人は大路にたふれ、家なる人ハおしうたれぬ、いまたあしたのものくひて程なけれは、飯かしき茶、煮ける火もをさめあへさりけむ、たふれたる家々より、やかてもえあかるほのほハ幾里といふかきりもなく、まことに虚空にみち/\たり、かの圧れたるものとも、いまた息たえさるハ、煙の下にさけひ、牛馬のくるしみ、いばゆる声々さたかにそれとハ聞ゆれと、あハれといふへきいとまもなけれは、たすけ救はんといとなむ人もあらさめり、たま/\のかれ出たるも、うつし心皆うせて、とさまかうさまにはしりさまよふのミなり、或ハ心とく家を出ても、さけたる穴におちいりあるハ、湧出る水に溺れ、又ハたふるゝ植木(ウヱキ)にうたれて、むなしくなりぬるも、おほし時の間に家めくものハをさ/\見えわたらすまれ/\残れるは柱くしけ梁くたけたるにはしめのほとにこそなけれ、なほ地ゆるきて、かりそめにも入へきやうなけれハ、折しも空かきくらし、みそれうちふり、吹風ハ刃にひとしく身にさえとほれとも、雨ふせくもの夜のふすまなンとハ更にもいはす、綿衣ひとつたにえとりいてねハ、布肩衣のひつちたるまゝにて、飯はまむよすかもなく、霜あられの中にふしまろひつゝ日をふれは、侘しとも悲しともいふはあはれよのつねにてそ、されは神仏のいみしき調度の具なンとの塗にまみれてさまよふ人に、ふミしたかるゝをすらかへりみたにするものなくやくとハ大空をあふきてつらし苦しとなきさけふのミなりき、かくておほやけたつおほんかた/\つかさ人あまた見めくらせ給ひ、そのほと/\をはカりて御恵のもの多く下し給ひけるにこそ、皆人やう/\心をさまりて、春まつたつきをももとむる事とはなりにけれ、抑かゝる禍事のいみしうかしこきことは、いにしへよりふみにも言にもかつ/\つたハリたる事なから、誰も/\よのつねのむかしかたりのことなほさりにのミ聞過せるから、斯さし当リてハうつし心もうせけるなめりさるハ熟(ウマ)く常にあちはへてほど/\に心をも用ひおきたらましかハ、まさにかうやハあらす、やう/\心おちゐるまゝにとせさりき、かくせさりきとくいおもふ事のみなとかなからむ、せめてハこたひかゝりけりとさにしるしおきて、子孫(ウミノコ)のいましめともなさまほしき事(ワザ)よなとおもひよれるまに/\、まつわさハひのいみしかりつる村里のかきりつはらにとひきゝて何くれとものするついておのれはた倒れたる家より、からうして遁れ出てわれかの心地なからもまのあたり見聞つる有さまをかたにもうつし出て見はやと思ふ、ちなミにこの里ならぬも、ものしてんとすさるハやくなきすさみとあさけりわらふ人おほかりぬへけれと、当時かしこくわひしかりつる心をもなかく思ひわすれす、又かのうみの子のつき/\にもつたへてあらかしめ心得おかしめむ料にもとてなむかくいふハ、文政十二年己丑九月 今町の里人 小泉其明
懲震〓録
小泉其明稿
地理のあらまし
我越後国ハ陸奥出羽の二国にさしつきたる大国にて、国ノ形たとへハ蝙蝠といふものゝ南方より北地に飛ふさまを画に写せるに似たり、蒲原郡新潟湊を首と定めて三島古志の二郡ハ背とすへく、魚沼郡三国山ハ尾にあて、刈羽頚城の二郡と岩船ノ郡ハ翼の左右にすへし、ともに七郡にして六国に隣り、西北に十八、九里の海水を隔て佐渡国あり、南方ハ越中・信濃・上野につゝき、東方ハ陸奥・出羽に境をましふ、海岸越中の域より出羽国に至る里程凡八十里、新潟より三国山まて路程何十里、陸奥国会津堺迄ハ何十里、東南五国の境界ハ高くして名たゝる山々嶺をならへ国中十分の七ハ山なり、最高大なるを蓮花山・焼山・火打山・妙高山・苗場山・三国巓・大現太山・守門山・御神楽岳・飯豊山・旭山等也、西北の地ハ卑く平坦にして江河池潟おほく、隣国より水会の地にて川の長大なるもの水源皆他国に出つ、信濃川はしなのゝ国千曲川の下流にて、魚沼・古志・三島・蒲原数郡の端をなかれて西川中ノ口川・笠巻川ともに幹枝四つにわかれて又合し、其他数十の川々も会して新潟にて海に入すへて国中をなかるゝこと何十里、次に阿ノ賀川ハ水源陸奥国猪苗代湖に出て、鶴沼川・揚川其他の川々も落入、我国に入ても又数川合して沢海の里より大小二河にわかれ、小なるハ信濃川に会し、大なるハ松ヶ崎浦にて海に入、信濃・阿賀これを此国の二大河とす、又糸魚川の西をなかるゝ姫川の急流、高田城の東を流るゝ荒川も水源信濃国に出、村上城の南をなかるゝ荒川ハ出羽国置賜郡に出て桃崎と塩谷町の間にて海に入、其他大小数十の河々ハ枚挙なしかたく、又湖の大なるを鎧潟といふ、福島潟これにつく、すへて河湖の大なる蒲原郡にのミおほかれはさすかに広莫の平地、春夏秋の間水害をうくる事往々あり、かく東南高けれは陽気を塞き、西北の打ひらけたる所海を抱(ウケ)ぬれは寒気最はけしく、毎歳冬のはしめより山岳に雪降そめて積雪春のすゑに至リても尚平地にきえのこれるもあり、故国人寒をふせくわさには長せり、深雪の徳ハ地を肥し、草木繁茂し、五穀よくとれハ、元禄のすゑにすら田畠よりとる穀種何十何万余石里の数何千にあまれりときけは、その以後百三十年又地のひらけぬるハいくはくともしるへからす、今諸侯のおはする地十所出張陣屋といふものゝたくひ拾余所そか中に高田・柏崎・長岡・三条・新潟・水原・新発田なンとは数百の民戸のきをならへ山珍海錯をひさく家々も少からす、故に諸国の商賈常に出入して国中繁昌の地といふへし、上にいへる穀種ハさらにもいはす山野に採れる薪菜、海川に漁る魚鼈、人手になれる奇巧のたくひ、又乏しからす、人おほくものたれゝハいとよき国といふへし
地動の兆
十一月七、八日の頃より日々暁方より辰ノ時はかりに、霧の如き気立て其深き時は僅に七、八歩さきに立る人さへ見えかたく、又空はれわたりし時ハ大陽の周囲五彩をなして虹にひとし、気候もおほいにそむけて、高山すら雪をミねは暖気につれて万木芽を生し、躑躅水僊花おのつからひらけ山葵款冬花を市に粥く、我人後のうれひをしらねハ、春にあへるこゝちして、物足り旦暮のやすきをよろこへり、十一日の暁日出るまへ、東南の方雲色朱の如く巳の時はカりにハ雨ふり風あれとさのミつよからすして止む、十二日八声の鶏の鳴る頃風音あり、全くあけわたりて南西のかた雲色すき間もなく黒く旭の色朱のことく輝けり、快晴ならんとよろこひしに、辰の時ころに至西南の方にて雷のとゝろく如き音あるよとおほえし間もなくおほいに地震(ナヰ)ふり来りて、一瞬の間に許多の変をなして衆人の憂苦を発せり、抑昔よりこの変自他国にをり/\ありしこと書にも見話(コト)にも聞しハあれとも、よその事ハ只其見聞ときのミ心をおとろかすはカりなるに、今自ら此難にあひミてハ世に地震ほとおそろしきハなしとはしめて感思せられぬれハ、後人のこゝろえにせまほしくて見聞ほとのことのありのまゝを拙き筆にかきしるしかたにもうつせるハ、おのか老婆心のとゝめかたけれハなり
なゐふるさま
地震のゆりきたるさま山野にありて見たる人の話に、はしめ西南より風立て砂ほこり真黒に煙リ、立来る其勢ひ大波の衝か如くうねたちて、地をゆり立、東方へすき行けり、其すぢにたてるもの、樹木ハ地を薙くにひとしく、行人ハ皆振倒され、又地の裂けたる口に転ひおつるもあり、此時尾崎村善慶寺の住持ハ、朝とく起出飯をえものせで三条町に至らんとする途にて此難にあひ、ふりまろはされ起ることもえせでゆくりなく倒なから東方を見しに、彼方なる山々暫時出没せしよしを話(カタ)る、又真木新田権八といふもの其里近き江溝の中に雑喉(ザコ)すくひてあるをりから此難にあひ、江の中にふりたふされ、頓にハえたちかねて岸にとりつきはひあからむとせしに、目前なる田畠大波の押ゆく如く撼たて荘瀬村のかたへすぐしバしがほどかの里あらはれつかくれつして見えけりといへり、又入蔵新田邑長源兵衛ハ蔵内村邑長勘右衛門とゝもに此日早旦吉野屋村より帰路鴨ケ池村を過、縄手道にかゝる時、この地動にあひて、後ろのかたへ転はさるゝを起んとすれハ、又前へ倒さる、其かわきたる田面をゆすること波涛に似て、所々ごみ砂を飛はすこと煙のことく、またゝく間に一滴の水なき田面を泥水あぜの半をひたせり、翌る日ふたゝひ其辺にゆきミれは、水ハなくて所々地の破裂せるをミる、然らは、きのふミし所はこれもかれも皆地を押破し時のわさなるへしと話れり、又我隣邑某の家の前に建る門、高壱丈三尺、地の間八尺、あり、左右の本柱にならびて控柱といふものをたてるか、石にて根継して深さ三尺程土中に埋めおきしを突あけたれハ、左右の塀をはなれ、戸さしのまゝ転はされ、五七間はカり隔ちて逆にたてり、これかれの説によりて地震のすくるさまと震気の強く衝ところの烈しきさまを思ひやるへし
山水の転変
山岳の脱出しもの長岡領にて六百六十余所、又大面町の上下村松領域にて大に脱出るもの十所、皆田畠をくつかへせり、其他僅に崩おち欠下りなんといへる地は枚挙しかたし、そか中に専ら変とすへきものハ堀溝川といふ川を塞けるなり、この流ハ刈谷田川の枝川にて、其源村松領下タ田ノ郷に出つ、小流といへとなかるゝ所の水路凡一里余皆山間にて水おほく出つ、故に見附町の郷地一万石余の水田も此水を引て足れりといへるを、山崩れて流れを塞く所六、七所昼夜に湛る水いと高うなれるが一斉に押出さん時あらは流末河辺の堀溝村の家居皆覆りなむと衆民やすき心なカりしを、翌る春に至領主の命令にて雪をわりて其ふさかりし地をさらハれしかは、憂をのそき皆こゝろおちゐたりといへり、かゝる大変なりしかは弥彦山壱丈はカりもゆりあかれりといふもあり、又ハ三里ほと海中へ突出せるなとあらぬ妄誕をいひはやせと、後にきけは地震のをりハ山いたく鳴りし事ハ正しくありしよし其あたりの人ハいへり
江河ハ大小となく地震ふりしをりにハ、水減したりしこと所々の渡守らが現に見しところ、又のほり下りする船子ともハ地震と心つかて水の逆たつを川くまといふ難ならんかと狼狽まハりしとそ、暫時のうちのことなれは、舟をそこなふほとの事ハおほかたなかりしとなむ、今井新田猟夫徳松ハ此時鉄砲提て川島に出てありしに、川中所々波立のほること、或は五、六尺又ハ壱丈はカり岸辺ハひきしほの如く数町陸となれるを見きといへり、すへて江河の堤欠下リゆり窪めて川床高う押出し、又池沼の類ひも岸をくほめ、水中へ砂を震出し、平地より高くなれる所もあり、山地の井筋ハすへて山くつれて所々ふさカり、平地のハ大かた水をゆりあけ、雑喉蛙子なと岸にさまよへり、長岡領鴉ケ島ノ井ハ水路凡二里、村松領貝ケ島井ハ水路凡一里半、ともに山地にあり皆埋れて其跡を失へりといふ
凡平坦にして堅硬の地ハ破裂し、弱土ハ陥リ、砂はカりの地ハ無事にちかきことおほかたのさまなり、故に鵜ノ森村の前後信濃川堤外川原幅二、三尺より二、三間長二、三十間より三、四百間深三、四尺或ハ八、九尺所々破裂、又陥りしところ数所、今井新田川原地なとも又これに同し、前須田村民戸ある所より城ノ腰といへる畠地へかけ、凡長二百間はかりのうち地裂て砂交りの水を吹出し、新之丞・孫七・孫八なとか宅中へ水押入れり、古老の口碑に伝へ来し、須田川あとゝいへるあたりにてハこまやかなる芥木又松の実なと埋れしかおほくいて荻島新田入野とゝなふる畠地にてハ長八、九尺周囲四、五尺はカりの黒ミたる埋木をゆり出し曽根新田砂川原にても同しく周囲二尋余長八、九間はカりの大木をゆり出す、これらのものは幾許のとしを経しか今あらハれしにやしるものなし、横場新田忠治右衛門か宅地竹薮の地裂しところより黒砂交りの水を吹出すこと高五、六尺、近隣の家宅へ水押入て皆逃まとふ、又曽根新田佐助ハ籾をすりてゐたるをり地震ふりきたるにおとろき逃出て、ふたゝひ宅に入れハ寝所の下より砂水を吹出せるか摺たてし米を押なかし、末宝村門治郎か宅中も同じく許多の砂水を吹出せり後、炉中の砂をとりのけしに二尺斗下よりおのが茶釜をほり出せるのたくひかそへも尽されす、又七日市村某か妻井戸のもとに茶かまみかきて居しかゆりたふされしハしありて起なほり茶釜をたつぬるに其辺になし、必定地の裂たる口へおちたるならむと七、八尺はかりの竿もて其穴中を探れと、とゝかすはてハ七、八寸はカりの小碇に綱付たるをさしおろして穴中をさかしてえたりとそ、またこれに似たる話あり、そは荘川村曹洞宗荘川寺の和尚生土山王村にゆきてるすの時、山ゆり崩れて庫裏を倒す、留守せし僧侶和尚の父伝助ともに庭にかけ出て難をさく、しハしありて僧等伝助か行方をたつぬるにしれす、然るに庭中径五、六尺七、八尺はカり長く裂たる所四、五所、若誤て其穴中におち入しやと竿もてかきさかせとさくり得す、悉堀穿たんにハおほくの人夫入わさにて雇ふへき人もあらす、とかくするうち雪ふり積件ンの破裂口(サケクチ)も三、四月まて雪に埋ミていよゝたつぬる便を失ひき、いまにゆくへしられぬハ果して割けたる口に陥りて活なから葬られしならんとそあないたましや
(付箋)
「甕雄云、上保内長泉寺住僧ハ名を祐保といひ、又比良ともいひて、としころ吾朋友にて歌よめるよりおのれもをり/\とふらひて此井の美水なることをしれり、さて此住僧の話にいはく、文政年中の地震の節、庫裏の倒れし下にみつからなりつるかまのあたりの机の下に頭さし入て身をひそめしゆゑ、無難のよしいへり、住僧存生まてハかの恩頼を思ひて机を大切にせり、時に住僧不幸にして今年より七年はかりさきつとしに身まかりぬ、机ハ今に存リ、但唐机にておほかた世にあるにことならす、こハおのれにかの住僧みつからの話にて正事なれはこれらもこゝにさゆ入可然也」
脇川新田邑長幸蔵か宅前の井戸ハ、深三間にあまれり、奴婢等水を汲たるあと汲桶(ツルベ)を井中に投し索のはしを井筒に結ひつけおきしが、地震ふりしときかの汲器(ツルベ)を人ありて投けあげしことく井筒のうへ三、四尺も飛あガり又もとへおち下ると、ミしほとに水わきあがり、曲輪にあふれ出、其なかれにさそハれてつるへ庭に転ひ出し、其索のかきりなかれいてゝ止む、翌朝幸蔵井の辺にゆき見しに湧出し、白砂四辺にみち、井中をのそけハ水ハもとのまゝにをさまりぬと見ゆれと、石を投入てうかゝへハはしめより深くなりて、水の味ひもさきにまされりとそ
上保内村長泉寺、始真言宗後、改一向宗、の井水ハ清らかにして味ひ美なりと世ノ人いへり、さるを水濁れハ必変ありと古く云伝へ来しが、此年六月頃濁を見ることあり、又十月の末濁ありとて里人等こゝろおちゐさりしに、はたして此震にあひ、かの寺ハ本堂太子堂なンと大に破壊し、庫裏ハひたと倒れ、里の家々も同じさまになりて死失る人さへありしといへり、これにつきて思ひよれる一話あり、そは、十一月上旬見附町あさのや某か店へ立よりてものかふをのこありしハし立とまりたることのついてに、今年は大地震あらんことをおそると話せるを、あるしハ奇怪なることをいふものかなと思へは、よくもいらへせてすくせしに七、八日を経てこの震にあひ、おのか家も倒れてわひしき住居してありし時、かの男のいへるところ妄言ならさるを思ひ出しこともありしに、後かの男にあへる日さきに足下の話れる地震の占今更感せり、大震の後いまに折々動揺止す、此後尚大震ありやとゝへは、かの男いふいな我占をなすにあらす、おのか宅地に井戸あり、深さ四間はカり其水清潔にして汲置たるもの日数ふれとも味ひかハらす、近邑こぞりて名水とよふ、さるに此井水濁気あらハるゝを地震の徴として其濃淡につきて動揺の多少を弁す、すてに宝暦のなゐふる前井水濁気ありしこと、いまに口碑に伝へたり、さるを今年ハ初冬のすゑより濁りそめ、此月七、八日のころにいたり赤土をそゝけるにひとしく、さすかの名水も此ころハもの洗ふ用にさへたゝてあるにかひなし、されとも水ハ脇にて求めてたりなむ、只其震あらんことのミをおそれゐたるに、果して今度の大変にあひて、其伝へのいつはりなきをしる、さて、此ころ人々来りて、我井水を汲て濁りの薄らきたるをよろこひぬとて、家内のもの話れるをきけり、然らは此上の変ハあるましきそと応答せしと浅野屋より同し里の金井某に物語れり、そは何れの人なりやとゝへは、をりふし我店のものかひぬれとかしかけせされは、其名ところハしらす遺憾のことなりと話ししよし金井氏いへり、かゝることもあれはあるものかな
如法寺村と月岡村の間を提灯して往来するものおほえす、其提灯に火つきて焼けけり、はしめ四、五人かほとはおのれか麁末より出しと思ひ居たりしに、日数経ても人ことに皆同しこは狐狸なとのわさにもあるか何にまれあやしきことなりとて、後には変化の物出るよし噂高うなりて夜ハ往来するものなかりしに、心あるもの是を考へて、かの地中の火気さかんなるが真火をよふなるへしと真理をきハめ、ひと/\く安堵せしことゝそ、抑此如法寺村百姓荘右衛門か囲炉裏の隅に石臼をおきて、それに孔を穿ち、其あなに土中より吹出る風に真火をかさせは火となりて勢強く燃立て、けさゝれはかきりなくもゆること世人普くしるところなるが、地震ふりて後火をかさせは其烈しきこと常より三増倍の火勢を発すれはとて、失火をおそれしハしかのわさもとゝめしに、日数ほとへて又常の如くなりぬといへり、元来此あたりハ水田の中水沸々するところ陸にてハ土中より風吹出る気味ある所数多なり、これに火をかさせは必燃出れはとて、七月霊祭の頃なンと小児等たハふれに其所を探り管をさして火を出し弄となすといへり、これかれ考あハせてかの提灯をやきし理をきハめしものなるへし、此ハ西洋学をむねとしせる人たちにきかせまほしきものにこそあれ
遁れんとして却て死す
見附町新ン町諏訪町三町の家居列りて、竃数凡六百斗惣号を見附町といふ、難なき家ハ僅に六、七戸はカりにてひた倒れのもの三百六十余戸、又火出て焼失る家家百四十ほと、其他ハ傾けると破損せる家にて男女死けるもの百人はカり、そか中に魚商人六太夫ハ妻子とともに朝餉したゝめ終て、いまた炉辺に茶喫してありしに、ゆくりなく地震来り、家倒れんとするを六太夫ハいたくおとろけるさまにて、ものをもえいはて店先にかけ行鮮魚畜入るへき料と土中へふせこミありし桶の中に飛込潜り居れは、頓に家倒れぬれとものにおしうたるゝこともなきを、近隣に失火してやかてかれか家にも燃移れと、遁るゝ道やなかりけん、つひにそかまゝ家とゝもに焼うせぬ、後にきけは六太夫常々妻子に教諭して、若地動あらは、かの桶の中に入て遁るへしといへりとそ、さるものハかへらまに死し六太夫か心にあやふきにちかしとせし、妻子ハ命全うせり
大保村佐太郎か妻みんハ、十一日夕旧里傍所村佐五右衛門許(ガリ)ゆきて、翌る朝佐五右衛門が家人等ともに四方八面のはなしせるをりから地震来にけれハ、まつ家の戸前口(ハイリクチ)に稲こなせる男女ハ逸足(イチアシ)に外のかたへ飛出たり、つきにみんと佐五右衛門か妻娘らハ前後をあらそひ外面(ソトモ)近きまて出しに家倒れ桁(ケタ)といふもの三人かうへにおちて皆圧うたれて死す、なましひ足弱にて逃出かねし老人小児等ハたふれし家の下にハなれとこともなくて命を全うせり、みんが帰(ユキ)し家ハ無事なり、其処にあるか、又老人の許にあらは汝か児になけきはさせましものをといと口惜し
不意にして死をのかる
何れの里にやありけん、紺屋を産業とするものゝ妻弐歳の嬰児を懐き染物してありしに、地震ふり来り藍壷の中へ転ひおちけり、いまた這あからぬうち家倒れぬれと上(ウヘ)におつるものはしにかゝりて母子ともに命全うせり、かの六太夫かしわさとハおほいに反ンせり
三条町ハ五十嵐(イカラシ)川のなかれにそひて家居建つらねて東西へ長し、町はしに信濃川の大河ありて二川合流の地なれは、諸方へ船の便よく新潟・長岡への船通ひハ昼夜絶間なくして旅客の往来しけく、毎月二七ノ日市立ありて商人の交易売買ハ新潟につきたる地にて村上侯の公衙(ヤクショ)あり、又元禄年間より東本願寺の掛所といふもの建てより配下三百余ケ寺の出入、またをり/\仏事のいとなミあれは、詣人夥(オホ)くつとへり、繁花の地のならひ諸職もともしからす炊煙(カマドカズ)千三百はかりもあらんか、此度の震災此地の辺を最第一とすれハ件ンの家とも大小破ハさらに倒るゝも焼るもありて無難といへるハなく、人の死せるも百七十人に余れりと、そかの掛所といへる僧坊をはしめ、所々より火出てやけぬる家蔵凡千三十棟はカり、そか中に本寺小路、又御坊小路ともいふ則、本願寺掛所門前町也、碇屋長左衛門といへる料理茶屋あり、家内召仕の男女ともに九人地震ふりし時、端ちかきをのこハ早く駆出て難をのかれ間もなく家倒れて其下になれるもの七人、ものに圧れたるも然(サ)なきもあるへしのかるゝ途(ミチ)を得ねはや人をよへとも立寄ものもあらさりける、けふハ市立日にて此小路ハ近村より野菜を持出るものゝ集(ツト)へる所にて長左衛門か宅前にも道金村仁兵衛夫婦のもの摘菜里いもなンと背負来りしを、此処におろしてほともなく倒れし家の庇におされ自ら遁るへき力もあらねハ、鳴立て人の助けを乞ふ、近所よりひとりふたり駆つけ、まつ助出たるハ其妻なり、此町ハ茶店・旅篭屋といふものおほかれは、客まつとて煮やきのわさし火焚おけるが所々より燃出て、長左衛門か家もほと/\焼失むとす、その煙のうちに仁兵衛をも救ひ出さむと何くれととりのけんとすれと、容易わさにあらす、又仁兵衛か悴長之助ハおのか里の家々のたふるゝも人の死せるもあれは、父母の安否心もとなく二拾余町の途を駆来しかハ、父のかなしふ声身に徹(トホ)りてむねをいため、いかにもして助け出さんとあせるうちにはや父の体にも火かゝりて忽ち息ハたえにけり、かの倒れし家の下になれりし七人のものをも誰ひとり助け救ハんとするものなくて皆焼失ぬさるに、此家の二階に髪たけゐたる女ハ障子の飛はつれしにいたくおとろきて、箪笥の前に打たふれぬれと、うへよりおちしものみなたんすにはしかゝりて、身にさハらねハこともなく、火の難をもさけて逃出たりとそ、今町にて日雇をものせる甚六か家のたふれしあたりをゆきゝするもの家の下にて小児の啼音(ナキオト)きこゆとこゝかしこ見めくり、吏に告たり、いそき人々に指揮(サシヅ)して家をとりほごせは、甚六ハ煙管くハへて炉中に首さしのべたるまゝ、其妻ハ車まハして績ひきのばしゐたるに、雑具あけおけるすのこの天井おちたるにおされて夫婦ともに身死(ミマガ)りし、傍に六つになれる女子戸棚のきはにゐておちたるものゝ、身にさハらねハ、こともなくてまぬかれたり、かうやうにして命を全うせるものいとおほくありしときこゆ、此里も地震強かりしかハ、民戸二百四十余倒れ大小の破損せるもの二百はカり、四所より火出て焼失る家百十八怪我に死せるとやけて死せると五十四人馬の斃しもあり、見るところきくとろ誰かハ是をかなしまさらん
慾ハ止りかたきもの
何れの里にかありけん、呉服物商ひ質物なとをとりて産業せし某か家も倒れぬれと、をりよく主従皆のかれ出てこともなかりしを、近隣より火出ておのか家も焼なんとせし時、人よりかへせる金を居間におけるか焼失なむことをあろしいとをしミて、衆のとゝむるをも聴(キカ)で倒れし家にくくり入て、さくりまハし思ふまゝにかの金をとり得て出なんとせしときは、はや火うつりて然(モヱ)たち居れは、桁梁の類にもや焼落て、あろしか右の足のさきをはさめり、いさゝかのことに思へと心いらちて遁るゝこと得かなはねハ、声をはカりに人をよふ、此時、召仕のものらハ、主の家の中に居れは各棒鉞なンと持てほとりちカう火をふせきてゐたるか、きゝつけて声をたよりに尋行、いかにもして助け出さむとすれと、力およはす手をつかぬるはカりなるに、はや頭上まても火燃来りて、猶予せは身もやけなむほとにせまれは、よしや足を切すてたれはとて命にはかゝハらしとく足きれと主のいそかせは危急にのそみ辞しかたく、心を鬼となして鉞もて足さきを切すてゝ抱きかゝへ辛うして助出してけり、かくて其創瘢(キズ)人をふかくいたハりはしめハ破壊せる他(ヒト)の軒端をかりてあかしくらし七、八日経(へ)て仮家をつくり、こゝにうつして服薬貼薬なとすへて医療手を尽せとも寒気身に徹(トホ)り破傷風といへる病ひとなれり、いさゝか薬餌のしるしもなくて十余日をへてつひには力なくなれりとそ、其取出せる金ハいかはカりかはしらす、よしや千万のかねにもあれ命にかへむとは世におもはさりけむ、またたふれんとする家を一たんのかれ出なから一櫃の飯をとらんとふたゝひ其家に入て圧れ死せる婦(ヲンナ)もありときけは、貧福となく慾をはなるゝことハかたきものなりとおほゆ
これもある商家のあるしなり、倒るゝはカりなる家を一旦のかれ出しに、近隣より火出ておのか家も焼けむとする時、商物取引のかきものなくてハ後損失の重ならんことを思ひ、ふたゝひ宅に入て大福帳・当坐簿なンといへるものを抱持て、二階の庇の端より外に飛出んとする時、下タに知己の人ありて、はや/\とひおりよ家のうちハ皆火まハりたり危し/\と、おとろかして走りさる故にまつ持たるものを下タへ投おとしさて飛バんとせし右の足にて屋(ヤネ)を破り是をぬかむとせしに左の足に力いりて、又其所(ソコ)もやふる、かくて両足ともにふともゝのあたりまて陥(ヌカ)りて、容易く遁れかたく、もだきゐたりしに、はや〓板(ヤネウラ)も燃たちて下りし足ももえなむとす、堪かねて身を動かすほとにいかゝやしたりけむ〓〓(ヒザヲレ)てのけさまにさがる猛火はや衣類・髪毛をやく、あつしくるしと泣わめけと、誰助けんと立よる人もなくて狂ひ死せりと、そこは其宅前を走り逃る人々の左(ト)ありき右(カク)ありきといふを聞て、此赴を察(シラ)れたり
今町にすめる大工弥兵衛ハ、なりハひのため朝とく起て七、八町隔たるかたへ行て、家にあらす妻ハるすをまもりて、拾歳より当歳の嬰児ともに四人をとりまかなひてありしに、家たふれて、皆其下になりぬ、おのれまつ屋(ヤネ)を破り外に出て、小児等をとり出んとあたりの人をよべとも、応答するものひとりもなくいかゝはせんと泣居たるに、はやくも夫かけつけぬれは、やゝ蘇生のこゝちして、ともに心をあハせ屋(ヤネ)を破りて四歳になれる女子を助け出し、なほあとなるをと心をいらち力を竭せと刃ものひとつたに持あハせねハ、こゝろのまゝに手もとゝかてありしうち、向ひなる家より火出て吹かせ、火の子をとばし、またゝく間にこなたにも火燃出つ、圧れ居る子等ハ尋常の折檻とや思ひけん、母人ゆるし給へ、けふよりハ逆らハしなといへるをきけは、胸をさかるゝ思ひをなし、いかにもして助けんと身をあせり、心くるハしく髪毛・衣類も火に焼けんとすれと、ことゝもせす、ひたふるに助けすくハてハと、ふたりしてかけめくれと力およはす、子等を失ひてハいきてかひなしと、妻ハすてに火中に飛入らんとするを弥兵衛ハひきもとさんとすれは、妻の足ものにはさまれて退きかねたるうちに、前後左右に火まハれと弥兵衛もはしめのほとハ鬢髪ハさらに体中ところ/\火にやくるをもいとハて、せめてハ妻はカりも助けんとすれと、堪かたくて命辛々おのれハ逃れ出たれと、遂に妻子四人を猛火のために失ひ労して功なきしわさとハなりぬ
愚直なるもの
与板稲荷町木挽亀蔵か妻ハ、倒れし家の下になりて、其生死をしらす、夫あわて屋(ヤネ)を破りて見れは、半身圧れて苦ミ居たり、亀蔵婦か片足をとりて出さむとひく、妻ハ苦痛いやまさりゆるし給へと鳴わめけと、亀蔵ハ唖にて耳聞えねは、力にまかせしにひきさけたり、婦ハ此時妊娠なりき、亀蔵ハ外に子なし、婦骨いまたひえさるに嗣又ほろふいと/\あハれむへし
ある里にすめる八兵衛といへる農夫ハ、いさゝか田畠を持て質素節倹を守り、かりにも偽をいはす、夫婦のなかむつましく家のなりをよくつとめ世をやすくあかしくらせるか、此とし秋のはしめより其妻煩ひ出しに、医療の功験もなくて、八月のすゑに身まかりてのち、今まてふたりしてつとめし内外のわさも身ひとつになりて、何事も心のまゝならて困しけるさまに見ゆれは、親しきものらか後婦のなかたちせるを深く辞していさゝかしたかへる色なし、このをのこハ、風俗こそおほかたの今の世にハそむけたれ、他人のいへることに悖れるハたえてなきを、かくにが/\しくことわりいへるには、必ゆゑあるへしとまつハしひてもいはて、霜月はしめ又さるへき婦を見たてゝすゝむるを、辞することはしめにかハらす、此時衆皆其ゆゑを詰問ふ、八兵衛笑止々々いひ出るハ、身まかりし妻と年頃いひかハししことあり、そは誰さきたちても残れるハかならす後のつまをむかへましと契約(チカヒ)おけるに、妻病床にありしとき、またこのことをいひ出てちかひし言ハ、世に反古(ホグ)となし給ひそ、若たがへまさハ、其うらみ片時も身をはなれしとかへす/\もいひおきて死せり、さるゆゑにあくまて辞するなり、あしからす聞わけて我心をやすめ給へと応答すれは、そはひとすちハさることなり、其約を変改すてハ女房の霊ハさそよろこひなむに、今亡父母の霊の来まして妻子をもたて八兵衛死することあらは、頓に家ハ絶ぬへし、先祖のあとを賑ハすこそ肝要なれ、家継人なくて其名はカりになせるハ父母先祖の重恩をかへりミで、妻の愛におほれて家を失へるなり、其罪かろからすといわれたらハいかゝ答へむや、かゝるあさはかことに心をくるしめで我等が心をこゝろとせよとひたすらをしへさとされておのか非をはしめてしりたるにや、口をつくミしハし沈吟せるが、かくてハあらじ、人々のいへるにしたかハんとやう/\答て、其日ハ打寄しひと/\をかへしやりて、八兵衛ハ翌朝早旦に起出て宅中を掃清め、手洗ひ口すゝきて仏檀をひらき経よみ終て後、亡妻の位牌にむかひ、其許の世にありし時後婦ハむかへましとかたく約せるをよに嬉しけにいらへて死せるを今におほえぬ、さるを親族らか其約の非をのへて我にすゝむれハもたしえで其ことにしたかへりこは我もとむるにあらす、其理こゝにおよへれハなり、ゆめ我をうらみそといひをはれハ、忽ち仏檀ゆるきいて、仏具をふりおとし、家なり壁破れ柱くちけて〓戸をとはし煤落て宅中暗夜にひとし、婦(カヽ)ゆるせよ、我あやまてり、なにせんに約をたかふへきといひて、つとたちて、くりやにいたり、包丁刀を持来て、仏前に坐しもとゝりをふつときりはらヘハ、ゆりうごくことやミぬ、八兵衛ハほうと長息して、さてもおそろしきことかな、命につゝかなきこそわか幸ひなれ、さらハ是より剃髪・染衣に姿をあらため、霊仏に詣て妻の追福をいとなまむとやう/\心おちゐぬれは、まつ炉のほとりはカりを掃(カヽ)はらひて朝餉したゝむる用意なとしてありしに、外の方にて人騒しくなり、わめく音きこゆれハ、差覗くに、近隣の家とも、或ハ倒れ傾けるなともありて、人死せりと泣さけふ声もきこゆるにいよゝおとろきて、こハ我亡妻のおのか家を傾けんとせしひゝきにて、他家まてもかゝるさまになせしか、あなあさまし、あな笑止、いかにして其辜(ツミ)をまをしとかむと人しらす心をくるしめ、外にも出かねてありしを、一類ともハかゝる大変に、八兵衛か家をも出すこもりゐるハ、怪我せしこともやあると、訪ひ来て八兵衛か身に恙なきをよろこひて、さても前代未聞の地震なり、三条町なとも大変なりとミえて、煙大空をおほふほとなりといへるをきゝては、しめて地震のわさなることをしり、我里のミならぬをさとりて、髪を切すてしことの今更はつかしくなりて、はしめのほとハ秘しおけるを、親族とも一人ふたりに物語れるかもれ聞えて、後婦むかへし後も地震道心とさへあたなせられて、今ハ世のわらひくさとなれりき
会津北方よりとし/\熊胆をうらんとて、こゝかしこ経めくる男、新潟にて馴染める売女にある里にてあへり、何れに宿れると尋ぬれは、しか/\の宅なりと答(イ)ふ、其夜かの女のもとにたつねゆけは、女ハ一向宗の僧に招かれて此地に来ぬれは、かの商人にハしミ/\しからねハ、はらたてゝをのこハそこ/\にしておのか旅宿にかへりしに、かの女ハ僧と臥所をひとつにして翌朝いまた起出さるに、地震ふり家たふれて、ふたりともに圧れ死せり、かの僧の寺ハほと遠からねハ、宿よりとく告やれは、坊守打驚て召仕の小もの壱人をひきつれてあわてかけつけ、死骸の辺りに近つき、二人寝し体をミて忽ち憤怒(イカリ)をあらハし、声あらゝけ、あなにくやあなはつかしと拳(コブシ)を握り、僧の頭上をうちいさかへらんとて、僕を伴ひ立出んとするを、家主これをとゝむれとも応答たにせすかへり去れり、主はせんすへなくて、ありのまゝを官吏に訴へて屍をとりをさめつとかの熊胆売話してのち、さて見るへし熊胆の功験地震の難症を治せりといへるそ、あなをかしき
懲震〓録上巻終
懲震〓録下巻
力およはさる類
今町にすめる伊丹屋伊兵衛といへる木綿商人ハ、いまた壮年なれと六、七ケ年以来内障眼(ソコヒメ)といへる疾にて生業もてきす、妻が三条の市にゆかむと朝とく起て商物背負いでゆきし跡、炉によりて煙草くゆらしゐたり、又間を隔ち、母ハ孫兵太郎・利平太・乳母らと炬燵に身をあたゝめ居たる間(ホド)に、地震ふり来れは、兵太郎ハいちはやく逃出たるあと、倒るゝ隣家におされて伊兵衛か家もなかはたふれて、炬燵に居れる三人ハ圧れ居て人の助けを乞(コハ)ハんとす、伊兵衛か居間ハ傾きたれと身にさハりなし、眼前母子の難義をしるらめと助け救ハんともせす、七、八畳も敷へき居間を前後左右幾へんともなくかけめくり、声をはかりに人をよべと、外のかたにハとよみて人音すれど木魂(コタマ)にひゝく応もなし、はしめ逃出し、兵太郎ハおのか家もまへのかたたふるれは、後のかたへまハり戸をあけむとすれとは、しら曲り〓(マグサ)下り戸ゆがみて、入へきやうなく、うちを覗けば父か狂へるさまをさなこゝろにもきのとくさ身にあまり、あたりの人を乞へと、誰も々々皆此難を得つれは、力をそふるものとてハひとりもなく、せめてハ父はカりにてもといへの口にゆきつもとりつとかくするほとに、近隣より火出てまたゝく間におのか家にも燃つき立よることもえかなねハ、独からくのかれされり、件ンの四人ハのかるゝ術なくて、皆火にやかれて死せり、かくとハしらす伊兵衛か妻ハ一里半はカりもゆきてうち、おとろきあへき/\立もとれと、はやおのか家も近きあたり、皆焼うせけれは、しハしかほとハさめぬ夢のこゝちして明し暮せりとそ、其歎きのほとあはれといはんもおろか也
ある里にて倒れし家に男ひとり腰を圧れてのかれかねてありしうち、火出て頓に足腰を焼く、いまた死もやらてくるしみもかき居たるを、助出んと立よりしに、面部よりなかるゝ汗ハ水をこほすにことならす、且あやしきハ左右の耳の穴より火吹出して見るさへもおそろしかりしとそ、かゝれハ焼酎に酔たる人、炬燵に入て睡れるか耳より火出て死せりといへる話もそらことにはあらしとおもへり
三条町に穀物売買をなりハひとする某かいヘハ大破しつゝも、倒れぬをほとちかきあたりに火出てふせくものなけれは、いきほひたちて燃来リ、やかておのか家もやけなむとすれは妻子にさししめして書もの衣服家具なンと力のおよふかきりせとのかたへ持はこはせ、五十嵐川に繋きおけるふねに積入妻子、四人に下女をも其船にやりてまもらせおけりさるに、火はいやます/\猛くなりて、四方八面に飛火して、堤の内外にたてる家小屋なンとハさら也、塗こめまても皆一時にもえ立て、風のまに/\かの船なる小屋にも火移れは、はしめのほとハかよわき女なから、水まきかけなとしてふせけしも、火の子雨の如く飛来り、船中にミち/\て、ほと/\身もやけなんとすれと、船漕くわさもえ叶はねは、火をのかれんとして皆水に飛入ほとに、游きもしらねは、女わらへひとりものこらておほれ死せりとそ
貞操
ある里の一向宗の寺院の後住三十歳にミたぬが法用ありて、三条町に至、旅宿せるうち、其家たふれたる下になり、所々疵負へれは、療養をくハへかねて、むかひの小船にのせていへにかへらんとする途中にて、かの僧ハみまかれり、屍寺につきけれハ、遠近の旦越又親しきにも此事をつく、然るに近里にかの後住にめあハせむと納幣(タノミ)まてもとゝのへし結髪(イヒナツケ)の女ありしか、此をきゝて百たひ千たひ惜別号哭(イトヲシミナキワメキ)て、父母にむかひおのれ不幸にして婚姻をせさるハせひもなし、さりなから、かの寺にゆきて人々とゝもに仏事のいとなみすへくせさせ給ひてよと滴涙(ナミタナガラ)に乞ふ、そはひとすぢハさることなから、いまに帰(ヒキコシ)もせされはにや告もこさりける、さるをしかせんにハいかゝあらん、しハしまつへしととゞむれハ、女ハものをもえいはて、たゝひれふして泣ゐたり、かくてははてしと女か切なるこゝろさしをひそかにかの寺につく住持きゝて、いと不便に思ひ集(ツト)へる人々に此事をつぐこゝろよからす思へるも見ゆめれと住持の心もてつひにまねきよせ新婦(ヨメ)あしらひをなせハ、他これを坊守とよぶもあり、某里のあねさまなンとよぶもあり、又婚姻もとゝのハぬを坊守あしらヘハかたハらいたしなとさゝやくもあるを、新婦きゝつけいかにも口をしと思ひ、舅の住持に告て何とそ棺前にて杯とらせてと乞ふ、いろ/\いさむれとも用ひす、なほゆるさてハいかなる事か出来んとおほつかなう見ゆれは、やむことを得す婚義のしるしとて懇望にまかせ、のちいよゝ後住の坊守とよはせたり、さて葬式もはてゝ、二、三日親敷ものをとゝめ長立たる檀越をまじへ後住にハ弟の僧を決(サダメ)亡僧の結髪いまたとし若きを寡婦(ゴケ)になさむも気の毒なれハ、その弟にめあはせんという坐中衆皆しかるへしとて其よし説けれハ、そのすゝめに随ひてハをしへにそむけりと固辞す、おしていはて又よきをりもとうちすておけるに、七々の仏事ねもころにいとなみをへて後舅姑ヘ回鸞(サトカヘリ)を乞ふ、其時又再縁をすゝむ、辞することはしめにかハらす、つひにさとにかへりて父母にもつげで亡(ナ)き人の追善をいとなまむと薙髪して昼夜読経おこたらさりしとそ、よにまたとあるへき婚義にハあらさるへし
いさきよきもの
三条鍜冶町ハ両側百余戸皆たふれて、ところ/\より火出かゝる、俄の変にのそみてハ、まつおのか身のミを遁れて妻子の難をかへりミさるが下賎のもの大かたの情なり、こゝにも妻子ものにおされて苦しミ居たるがありて、夫これを助けんと立よりしころハ、はや四方火まハりて身も焦るはカりなり、さるに妻ハ夫のもてる出刃鉋丁をからんといヘるに、遁るゝミちやあると思ひ投けわたせは、手にとるよと見し間に其子をさしておのれも咽をつきて死せり、夫ハたゝあきれにあきれて辛々火をのかれて其場を立さりしとそ思ふに、婦ハとてものかれかたしと覚悟をきハめ、長く苦痛せむよりハとのしわさなることしるしと人もいへり、其勇気夫にまされることはるかにとほし
神祇の威徳
長岡にちかき里にて百姓某か新婦二月のすゑ友人の伊勢参宮にさそハれけれハ、ひそかに夫子にねかふ、夫其よしをおやにつく、其家勝劣派の日蓮宗にて、三十番神といふを朝夕拝ミて参宮なとせさるをしへなりとそ、さるからに舅姑おほいにはらをたち、嫁してハ何事も舅家にしたかふへきを、表裏の信心こそこゝろえね、家のをしへにそむけるもの一日(ニチ)もとゝめかたし、疾く里にかへしやるへしとく/\といへるに、夫はもたしえすいとまつかハせハ新婦いろ/\とわひぬるをももちひて舅姑の片意地に追ひ出されて、なく/\里にかへれハ、父母もいたくなけきて、ともにわふれと、いささか熟縁となるへきさまも見えねハ、しハらくそかまゝになしおけるに、かの参宮の友人等がかしまたちの用意とゝのひ明日たひたゝむとせる日いとまこひにきにけれは、婦もなこりをしけにミえしが、二、三日過て一ふでの書をのこして是も又参宮の旅立せり、さるほとに舅姑を諌むる人あって熟縁を推薦(トリモチ)ことゆゑなくとゝのひぬれと、新婦里にあらねハそのかへりをまつ、かくて五月のはしめかへり来しを、草鞋のまゝ舅家に伴ひ何事も皆おだしくをさまりぬさるに、男婦(ヨメ)ハ伊勢より受かへれる大御神の大麻(オホスサ)を神棚まうけてをさめおかんは、親夫にはゝかりありとておのか髪あくる部屋の棚にひそかにまつりおきて、朝夕信心おこたらす、月日ヘにけるが、地震ふりし時、此家もたふれ、人々皆圧れ居て異口同音に助けくれよと呼たてゐたり、然るに婦ハ母屋につきたしし中門(チウモン)といふ所の部屋を掃除してゐたるが、其居間のほとりハ母屋のたふれたるにひかれておほひに傾きはしつれと全くたふれであれはおとろき飛出て、親を助けんと左右にかけめくれと、かよわき女のいかてか其わさをなすへき、かゝる時にこそと例の部屋にゆきて大御神の御号を唱へ家のちにある人々の危難を救ハせ給へとくりかへし/\祈りをろかミゐたるに、くわた/\どた/\と家鳴動(メイトウ)して、かの母屋と中門ンのつきめはなれて母屋ハ前へのめり、中門ハ後方におきなほりたり、婦ハこのありさまをミて、親夫ハはや圧され死にけんと思ひなからも、おもわす泣声高う父母をよへは、応とこたへる音のきこゆるをうれしく、声あるかたへはしりよれハ、煤塵ハ煙の如くたちて暗夜にひとしき中より舅甥(ムコシウト)召仕なんと皆恙なくおひ/\に逃れ出来にけれハ婦ハ、みな/\を伴ひ、中門に入て嬉しさよろこはしさにまきれてありのまゝを一同につく、舅姑ハひとへに男婦(ヨメ)か真心を神も感しましてミめくミまししこと疑なしと衆皆蘇生のおもひをなしてよろこひあひ、にわかに神棚設てかの大麻をまつり、誰かれとなく旦夕尊信礼拝して家内いとむつましくなれりとそ
三条町にて難にあひし旅客国にかへらむとて、わか今町の客店(ハタコヤ)に宿れり、そは近江国の商人なりとそ、三条にやとれる家ハ商家か招商店(アキントヤト)かハしらす、其家なかはかたふけは黄昏時の如くなりて、東西もわかちえす家人ハ皆逃出ぬと見えて客独のこれるが案内にくハしからねハ、しハしさまよひつゝ戸口たつねてあけむとするに、鴨居下りてあれははたと蹴はつし走り出むとするに、此所ハ単笥を入し押入なりけり、又気をいらちかけめくりてあかりを便り外面に出んとする時、いへゆり動くにおとろき、あハて出しに足にて蹴とはせるものありと見れハ伊勢の大御神の大麻なり、こハかしこしと押戴き衿にさし入、背に負なしてのかるゝ道を見まハすに、此所(コヽ)ハ中庭にて遁れ出へうもなし、こはいかにとうろつきゐたるに、所々より火出たりと口々によはゝるおと耳に入しに、いよゝ打おとろかれ、いかゝはせんとためらひゐしうち、はや四方より火まハり、とてものかるゝすへなけれと、又死なん心ちもなく、何思ひけん、木高き松の植てあるにはひつきて、小枝あるところまてのほりつめたれと、火のこ吹立着衣に火つくをも消しかねて、今や幹の倒れんか、今や身のやかれんかと心をくるしめ居たるにあろしの訴にて官吏火をふせかせて我を助られにき、此あたりハ大かた倒れし家のやくるにて火勢低く、折から風もはけしかれは、たかきにゐて利を得しならめと、われも人もしか思ひし後に、おのかのほりし松を見れハ、小枝のさきまて皆焦てあり、又おのかからたもおほかた火ふくれとなれるまてなるを思へは、必定伊勢の大御神の加護にて九死を遁れし事疑なしと主に乞うて、かの大麻をおのれ奉得てそ朝夕災除の祈念するとかたれりと其寄主(ヤトノテイシュ)にきけり
忠勇
今町商家半七か宅もたふれて人おほく死せり、はしめ地震ふる時、主と下男ハ背戸のかたに飛出、召仕半治郎とあろしの姪男喜三郎ハ面門(マヘ)のかたへのかれんとして外面(ソト)まてハ出す、下女とくハ乳かふ子抱きて庇まて出妻ときのふ来てやどりし本津川(ホドカハ)村の六左衛門とハ炉辺を立はなれでありしうち、家たふるをりから、道行男の老たるか震におとろき、此家の庇はしらにとりつきたるさへに家の下になれるが、とく女と道通(ミチユク)をのこハむかひ側のひと人の目に見ゆれハ、これを助けんとて、三、四人駆著(カケツケ)たれと、庇はカりの重りならて母家其上に倒れて容易(タヤス)きわさにあらす、いまた救ひえさるに竃の火もれて家をやく、ふせく人ハなくをりから吹風烈く、たちまち一家皆火になりて、ちかよることもえかなはねハ、皆打すてゝにけさりしとそ、さるに母家の下なる半治郎ハ壮年強気のをのこにて、背腰を圧れて身も自由ならねと猛きこゝろをふりおこし、主の一族五歳になれる喜三郎かけふりにむせてほとりちかう泣居たるをまねきよせて、其帯の結目(ムスビ)を口にくハへ左手(ユンデ)にうへよりおつるをオさへ右手(メテ)にて土を掻たて/\外の方へ這出なむとするほとに、商ものゝ水油納(イ)れし桶くつかへりて半治郎か体をひたせは、燃来る火かれか衣につきやがて総身(ソウミ)にもおよへるいきほひなれと、ことゝもせていよゝ千辛万苦して、つひに外面に逃(ノガ)れ出つ、此とき半七主従もやう/\まへのかたにまハりてあれハ、此をミるより二人のものを助けいたハりて療養をくハへおきぬ、かの目に見えし下女・老男すら救ひかたきをいかて家の中なるものらを助け出へき術(テダテ)あらむ、男女・老少すへて五人皆火にやかれて死せり、かの道通りのをのこハ、此地より八里はカり下なる味方(アヂカタ)村の権太郎といへるものと後にしられぬ、さて半治郎ハ火焼(ヤケド)にてハ渾身(ソウミ)腫あかりものにおされたる痕(アト)ハ〓鞠(マリ)ほとのしこり出て、見るさへもおそろしく、其危難想像(オモヒヤル)へし、喜三郎ハさせる怪我もなく、ひとへに半治郎かために活命(イケルコト)を得たり、其忠勇を神も感し給ひけん、療養の功験(シルシ)ありて疵所も全くいえたり、凡主につかふるもの誰しの人も半治郎かこゝろなくんはあるへからす
死をさたむれと死せす
老も若きも危急(コト)に臨て心を定むることハいとかたきわさなるに、今町念故庵、浄土、宗、もなかは倒れぬれと逃はしるへき道なきにあらす、奴僕庵主鳳山に逃出んことをすゝむれと不肯(ウケズ)、此ハ時なり、死ハ天にまかすへしと袈裟を著し、仏前に出て経を読誦してあり、又同里の吉助か叔母よいも家内のものらがいさなひ出んとすれと、八十歳まて存命(ナガラヘ)て死すとも不遺憾(ノコリヲシカラズ)とかたふける家を立はなれす、姪男・姪女(ヲヒメヒ)のやから四人もさすかにかたハらをはなれかねてあり、是もかれも皆死ハまぬかれたり、鳳山も又七十歳にちかき僧なり
こゝろを動せさるもの
中西(ナカサイ)村農夫治郎兵衛ハ性直にして、わかき時より其ふるまひ他人にかハれることいとおほし、或時今町の市にものを売し価の金を途にておとせりと家に帰りて話(カタ)る、家内のものとく立かへりて尋さかすへきよしをしひていへは、いなゆくまし途(ミチ)に落たるハひろふものあり、おのれに損あれと人に徳つくわさなり、なといふたくひかそへもつくすへからす、家ぬちむつましく若きより家業をよくつとめたれと、今ハとし老て田わさなともなしえねハ、身をやすらかに、此日も例の孫ともふたりを愛して茶の間にをれり、賎息(セガレ)八五郎ハ召仕らとともに五人稲をこなしてゐたるうち、地震ふり来たるにおとろき、外の方へかけ出しに一瞬の間に家ハたふれぬ、さるに父と小児らかゆくへしらねハ、声をはカりによひたつれは、倒れし家の下にて応答す、こはいかにせんと打驚いそき、ひと/\をよひあつめ屋根(ヤネ)を破りてミれハ、治郎兵衛ハ孫ともを左右におきて、こともなけに座し居たり、見る人ミなあきれつ、まつ老少を背負出て、互に無事なることをよろこひ、さて治郎兵衛に始末をとへは、逃出むとしてなましひにあやまてることありてハと思ひて、家の倒れんとするとき、梁なンとに圧れぬやう、あふぎミてハ逃け/\、茶の間のうち前後左右に進退せるか、いさゝかあやまつこともなかりしと悠然として話せりとそ、かゝる大変にあひて、つゆはカりもこゝろをうこかさす、おのが志をたて、とほせるもの下賎の身にハ又あるへくもあらす、たれかは感せさらん
憶病
ひとたひ大震を発しつゝきて、又大震ありし例いまたきかねと、なへての俗情にハ後患を恐れてすまふへき宅をもすてゝ、新にかり家を建てすまひ、又ハ大道に莚をしき板をならへなとしたる上に丸寝し、又竹薮に逃入、船中にひそまりゐるたくひのミおほかりし中に、ある里の小破せる家にて大工をまねき、こゝかしこつくろハせてゐしに、親族ともの家やけてすミかもたぬが此宅の二階にかりすまひせる女、綿衣とゝのへむと裁縫ひ終りてわたを入仕廻、おのか著服につきたるわたをはらハんとて、手もてほと/\打おとさんと身をうこかせは、常さへ二階ハ歩行おとのさハかしきものなるに、まして損(ソコ)ねたる家なれは、いと/\音かしましく動きて、戸〓のはつれたるもあるを、下なる人ハ地震ふりて家を倒すかと思ひまかへ、叫ひ声たてゝ前後をあらそひ外面(ソト)にかけ出るあり、其声にさそハれて大工ハ繕(ツクロヒ)かけし障子をふミをり、釿にて足に疵つけ、姥婢(ウバ)ハ小児を抱て炉中にまろひ入、あまつさへ二階の女まてもおのかわさとはつゆしらす、又何のゆゑともえわきまへで、只人のにくるにしたかひて、いそかハしく楷子を下る半はに、ふミはつしてけかするなと、思ひもよらぬ災難を得しとそ、此ハ皆憶病と狼狽とにあり、わらふへし
何れの里にかありけん一禅刹に近来入院せし和尚、おのか生土とかさきにすミし寺のほとりとかより齢ひ四十はかりのをのこ夫婦つれなるを伴ひ来りて今の里にすませおけるか、此家も倒れたれと、をのこは遁れ出て寺に逃来り、和尚にまミえてさてもいたましきかな吾妻ハ桁に折圧れてあれハいかにもして助けんものと力を竭して、今しはし間もあらはつれ出んと思ふころほひ、両隣家より火出て、はやおのか家も燃たち身もあつうなれハとても救ひかたけむと思ひて、覚悟せよと妻に言捨ておのれハ出んとすれは、いたくうらみつ泣つすれとすへなくてひとりのかれて来つるなり、あないとほしや妻ハ地獄のくるしミをなして死せるなるへし、あハれみ給へと涙落してものかたる、和尚も不便に思へと今さらすへきやうなし、幸ひ寺ハ倒れされハ、しはしの穏やかになるまてわかもとにといひつゝ席をたちて用あるかたへゆけり、然るにかの男ハ、仏前に至りぬかつきて、しハしかほと何かぐど/\ものいひて泣居たるハ妻の死せるを仏に歎くなるへし、さるほとに庫裏の方よりかの女房ほとり近う来りおまヘハ此所(コヽ)にかと声かくるををのこ回顧(フリカヘリ)ミれは我妻なり、其形状(サマ)髪を乱し、身ハ白衣の姿にてあれハいたくおとろき、あなおそろし/\と声たてゝ飛出せるを、こはものに狂ひ給へるかまつきゝ給へと妻ハいへとはしりなから、かゝゆるせよ/\といひつゝ、坐敷の口なる三尺の板戸を蹴破るか如く押明け入ると見しかはたとたてゝ妻を入れしと内よりおさへ居しに、著物の裾のひけと来(コ)ねハ、亡妻の外にて其端を押へてはなさぬ事と思ひて、かゝゆるせ/\と独ことするそいとをかしき、此ハ怖ろしき余りに走る足さへ遅しと急き戸をたてけれハ、おのれと裾をはさみなから亡妻ヲ入れしと力の限り戸を押へ居し故なりけり、妻ハ夫のさまに仰天して頓に方丈に行てありし次第を具にものかたれは、和尚をかしさを堪(コラ)ヘやかて饗堂(ザシキ)の口にゆき、をのこの号(ナ)をよひてこゝあけよ、気つかひなし、といひて漸戸を開かせ内にいり、かのをのこが股戦(フルヒ)わなゝき居るをなためて、汝ハあの女を世になきものと思へはこそ深くおとろけるならめ、まつ/\心をしつめて我言をきけ、汝か寺に入来しあと、ほともなく来ていふ、我もいきなから火にやかれんと覚悟きハめてありしに、我をおしたる桁もえをれて少しゆるきたるか、幸ひのはしにて辛き命をたすかり遁れ出たりと、汝か妻のいふをきゝておほいによろこひ、汝にもはやくよろこはせんと仏殿にたつね行かせしか、かゝる間違ひの出来へしとハゆめ思ハさりしなり、先こゝろをやすめよ、といひさとされ、さらは妻か著服の白衣とミしハ、我僻目かととひかけられて、和尚いふ、はしめ女か来りし時、単衣きて帯もせぬ体なれハ、我著ものひとつをあたへやる例の女の心にて若汚してハと衣桁にかゝりし小僧等か白衣の垢染たる単をうへに襲たるなりときゝて、やう/\こゝろおちゐしさまなれハ、和尚に伴れて方丈に至り蘇生の妻にあひまミえ、互につゝかなきをよろこひ、あひさてをのこハ妻の亡霊かうらみいひに来しかとおとろきしなといへは、傍に拾二、三歳はかりの小僧ありて、かのをのこか始終のさま、仏殿にて見しまゝをものかたれは、さるにてもあまりなるおとろきやうなりと一坐皆腹ををかゝへて噴飯(フキダ)せは、をのこハまけしかほしていきましきか来るのミかハ、所といひ時といひ、其行装(イデタチ)まて娑婆(シャバ)の人にハなきものをとましめにいへるぞいと/\をかしき
我身のうへ
十一月はしめつかたより、おのれ長岡の東北なる椿沢(ツバキザワ)村念覚寺、一向、宗、にあそひゐ、十二日ハ朝とく起出て仏殿の傍なる一室に画事をなしゐつるに、僅に震動すとおほえしに、忽ち堂舎倒れて天井板といふもの落かゝれと、さへける物や有けん身にさハらねハ、打おとろけるまてにて怪我することはなく、はしめのほとなにのゆゑとハしらねとおもヘハ、此地山の尾上なれハ、地さけて寺陥りしならんと心付て、とく其闇黒中を遁れんと少しのあカりを目あてにはひまハり、辛々庭に遁れ出、あるしの僧のゆくへをしりて互に恙なきをよろこひ、さてあたりの農家をミるに、悉倒れ近き里々まても目におよふかきり皆同しけれは、此里はカりならて世上一体の地震のわさなりと初てしりぬ、さらはおのかすめる地ハいかゝあらんと妻子のことなとあんしわつらひ、頓に主僧にいとまを乞、蓑ひとへをえて家にかへり来る通路の里々何れといはす皆家倒れ、又頭脳(アタマ)潰れ、はらわた洩れ出、手足をれなとせる屍をゆり動かしてうらみかこつもあり、たゝなきになくもあり、中には路頭にさらしおきて傍に寄そふへき男女の一人も見へぬハわきてかなしかり、凡二里にあまれる道路、皆かゝるさまにて、よその歎きも身にしミて、袖打しほりつゝ、漸宅にかへりつけは、おのか家ハ只かたむけるまてにて家内(ヤヌチ)のもの恙なけれはまつよろこひ、賎息ハいつれにありやとゝヘハ、官吏にめされて邑長許ゆけりといふ、おのか無事にかへれることとミにしらせやれは、ほともなく宅にかへりきて、互によろこひあへり、さてかゝる大変に、おのか身恙なくは親の安否をとくとふへきを、時過せしハ、いかにといへは、賎息答けらく、そはさることにて申わくるに詞なし、かく罪えかましくなりしハ、きのふ里長のもとに官吏きましてやとらせ給ひしに、けさ此変を発し六百戸はカりの家居一箇も全きはなく、あまさへ三所より火出れハ、倒れし家の下なるものハ即今(イマ)やけ死すと歎(ナケキ)訴(ウタ)ゆれは、官吏おのれを召されていはく、我出て衆民の危急を救はんとすれと、里正いまた長せされは、汝を伴ひゆかむ、いさ/\と令せらるれと、おのれ辞しけらく、いまた親の安否をとハす、又属邑の難事ハいかはカりなるや、ともに我身の急務なりと申せは、そはさることなから、今目前の危急をいかて見過すへき、汝か父と属邑と若無事ならんをしらて走廻りつゝ此眼前(マノアタリ)焼死せん衆民を救ハさるハ汝奉仕(ヤクマヘ)を如何心得るやとく/\といそかされて進退途窮(センスベシラ)ておもへらく身ひとつにしていかてふたつなから全うせん、父と属邑との遠きハ神に乞願て、今近き官命ハ背かるましと直にその後へにしたかひ出て、今目前の急をすくひゐしを、しハし立はなれて来しとふをきけは、滞れる子細わかりぬる故は、やくゆけと官吏のもとへかへしやりて、おのれハ属邑の御民ともの安危ミとゝけはや、とその装ひして立出むとするほとに、御民等手に手に棒桶なンと携持おひ/\にかけ来ていふ、われらか里ハ幸ひにして難うすきに、こなたにハ火さへ出てミゆれハ、これを救ハはやと思ひて駆こしに、其災の群ならてめてたしといへるそいとうれしき、かくてかのものともをかへしやりて後、我里の難おほき所にゆきミれハ、さきにミて来し二里はカりのありさまに似たるハ、三、四十歩の間なれと火さへ燃たちたれは、あたかも地震変相の画にひとしく、いとほしともかなしとも言出へきことはなし、抑此変にあひて、わか身ハのかれ、親兄ハ失せ、妻子にもわかるゝの類ひいくはくならん、此孝道に背け、恩愛にうとく、すへて人倫の道を得わきまへぬに似たれと全然にもあらて、大かたうろたゆると力およはさるとにあり、此ハかゝる火急の変の常になき故なるへし、さて我里ハさらに三条・見附なンと何れとなくはしめ火出たる時のさまをのちにきけは、其家人ハ尋常の失火とひとしく声たてゝ他人の助を乞へど、さらによりくるものなきハ、面々の家も倒れ、又大破・小破ありてひとつも全きハなく、剰倒れし家の下になりて死生のしれさるもあれハ、こも又人の救ひを得て助出さんとはカり、たま/\小破の家を遁れ出ても虚気(ウツケ)て前後の弁へなきあり、或ハ浮屠のをしへを是として弥勒出世なとゝ悟(サト)り得しおもゝちして、ゐるしれものなともあり、すへての人心しハし女々しく泣惑ひ、憂にしつミ狂気のことく理非の差別を弁へかたけれハなり、ふせく人なけれハ、火ハ益勢ひたちていつくまてももえなんとす、これもかれも官より人を出されて指揮せられ其難とあるかきり皆ふせかしむ、我里ハ領主君のおはしませる地ヘハほととをかれはすへて急変を訴へまをさんもいかて頓の用を弁すへけんとてをり/\民の安危をミめくらせ玉ふ、吏幸きのふこゝに来まして、あれはとミに駆出て指揮せられしかハ、皆力を竭しておほくの人のたすけ救ハれしハ、実に我里の幸ひといふへし、此時命助かりしものハさらなり、一族のはし/\まても其慈恵のほと骨髄に徹りてよろこはしといへり、かくておひおひの注進にてひと日ふつかのほとに高きひくきおほくの官吏出来まして、衣食住なき窮民等に米銭を給ハれハ、かれ井の魚の水えたる心地して、又さらに命生たりける、かゝる時、其難の多寡によりてハ貧富となく困窮しぬれは、さしあたりて他の救ひをえでハ叶ハぬものなり、さて日数ふるほとに此里にても其難かろき有徳のもの、遠近他郷の豪富の人々迄も、困窮せるものともへ米銭飲食の類思おもひの手宛をなせは、平日よりもかへらまに米銭を得て、一時の富をなせりとよろこへるものをおほかりし、すへて難にあへる民ともの住居をさため家の業をとりまかなふまてハ其領主々々の君より、或ハ施し、或ハ普通の米価より安き救なとあれは、許多の月日をもすく、さてもとの村居をなせるハ、ひとへに君の御恵なりと上下皆感涙してよろこへり、今債おもへは、ちかくハ天正・慶長の乱れたる世に、猛きつはものらか民屋を乱妨放火(アラシヒヲハナチ)て民をくるしめしハ、今此ありさまと全く同しかるへし、されと今の難ハひとたひ地をくつかへしてふたゝひ又大変をかさぬることなし、つはものゝなすわさハ、いくたひともかきりなけれハ世をさまるまてハ万民安堵といふことのなかるへきを、 東照神の厚き御心もちて 天皇の大御代を安御代と永世太平に固め給へる御功績ハ昼夜わするゝことなく、此神の鎮り坐かたを伏をろかむへきをさもなさぬ人の世にミゆるハ、たとへは日の神の御影のありかたさよりハ暗夜に灯火かせし人のありかたさかまされることく思ひ錯れるハ、あまりに日の神の御恩徳の大なれハなるへしとあるものに説たるたくひなるへきか、此度倒れし家の中に、うへよりおちくるものゝ机にさゝへられ、或ハ椽さきの半銅庭石なんとのためにこれをよけて身にさハらぬとて其無情のものを命の親なといひて其物品を崇め尊とみおけるなとハ、柱にあたまうちて泣止まぬ小児をすかさんとて、子守する女子かはしらめハ、にくいやつと其柱を打かへしてミする方便なとゝおなしきおもむきなり、さてかゝる変にあひてハあるましき事を思ひもしいひ出もするハなへての人情なれと、すへて世の中にありとある善も悪もミな神のミしわさなりといへる事、皇国の古伝説にて、既に玉鉾百首にも世の中のよきもあしきもこと/\に神の心のしわさにそある、又世々のおやの御かけわするな、代々のおやハ己か氏神己か家の神、とある二歌の意をうまく味ひて寒暑温涼の往来することく、吉事凶事のゆきかハり/\する世間なれハ、よきにつけあしきにつけ、神の守りをねかひ、君の恵をおもひ、親の恩をかへりミなは、災をさけ福を下し給はん事しるかりなむゆめわするましきものよ
世すこしおたしくなりてのち頑児(セガレ)いはく、さきに地震ふりし時、一旦右往左往しつ、又母子打寄て身に恙なきをよろこひつゝも、世上一統の大変とミゆれハ、父ハいかゝせしや、又属邑の民等の苦心いか計にや、属邑といひ、父のゆくさきといひ、一時、二時してゆきつくものを、まつこの二所にゆかはやとよそひせるまに官吏と上司ののたまへること出来にけり、そは官吏これより町をはせめくりて、衆民の危難を救ハんとせる間、汝後につきて加功(テツダウ)へしとの給ひ、上司よりハ官吏につきそひ、我にかハりて指教(サシズ)を得、今町のことハともかくも取しつめよといひおこせられたりけれハ、これもかれも皆ゆるかせになしかたく、おほいに痴心をくるしめ、忠孝不能両全といへるハ此所(コヽ)なるへしともたしえす、一旦官吏の命にしたかひて過しぬれと、かゝる時にハ官吏のことにしたかふへきや、親の事をさきにすへきや、心くらくて惑ひいまたとけす、過さりしことなから、後の心得に其別を承りおきたしととへり、おのれ答けらく、凡人の子たるもの不幸にして、かゝる変に遇時ハ、我身生くへき道理なきことをまつさとりて、うまく味ひ、あつく考へ、事の軽重、物の大小をはカりて、処置(トリハカラフ)へき筈なり、昔治承五年二月、宗盛右大将東北の国々そむくものとも征伐せんとて兵士(ツハモノ)をあまたゐて出たゝむとしたまふ日に、入道相国おとろ/\しきなやみにて、おもき病と見えけれハとゝまりたまひぬ、能登守教経申けるハ今源氏の徒(トモカラ)を打おろほしたまハすハ、いみしき後のわさハひに侍るへしとゝまらせたまへハとて、相国公の御病おこたらせたまふにもあらし、出陣したまハんにおくらせたまふへきかは近き国々まてめくらせおほせて兵士(ツハモノ)ともあつまれるにやめさせたまハゝ、又の号令(オホセ)もうたかふへし、うつへき時にうたされハ、くゆともかひなかるへし、御出陣したまひ、といさめ申けれハ、右大将のいへらく、親の病をミすてゝ出たつハ不孝なるへし、源氏の徒きのふけふあつまの夷をかたらひあはすとも、何はカりの事かあらんといはる、教経洟を流して又申すやう、武士の道にハ出陣する日に家をわすれおやを忘れ妻子をわする、ましてこれハ天ノ下を得るか、失ふか、敵をほろほすか、ほろほさるゝかの戦にて、今度とゝまらせたまひなは、平氏ハほろふへし、相国公わかくおはせしほとよりミ心を尽して天ノ下にならふものなくをさめたまふ、世を敵に奪ハれんハ、子ありて子なきかことし、大なる不孝にこそ又源氏の徒何はカりの事しいてんと思ひたまふハ、甚しき非説になむ、畿内の兵士馬にのり弓ひき太刀うちふるわさ、いかてか東の兵士等におよひ侍へき、すきし富士川の戦に遠江・三河のものとも参らさりしも、東の方やう/\に兵衛介に従ふにてハさふらハすや、せめてハ今たに殿の出陣まし/\なは西ハ中国をかきり、東ハ伊勢・尾張のをのともハ皆参るへく平家のいきほひあるうちに出たゝせたまはゝ、東国の中にも平氏に心かよはすものもさふらふへしさもあらハ、平家の領国をわかちあたへてまねきたまはゝしたがひぬへし、いかて/\けふ御出陣と諌申けれと、右大将さらにうけひかれすといへり、宗盛がその諌を用ひさる、たれかよしといはん、教経か諌むるところたれかあしといはむ、又源ノ義朝及北条氏政の臣松田左馬介が如きハ、すてに天倫を害し、仁義をそこなふの大なるものと世にハ罵るならすや、又漢の趙苞遼西の太守となりて城を守りしとき、鮮卑といふ夷の攻囲ミて、苞が母を捕へ苞に示す、苞悲号して大に戦ひ、遂に賊を破りたれと、母ハ賊のために害せらる程子これを論していふ、君の城をもて賊に降るハ固より不可なり、されと母を生かす手段をもとむへきはつなり、不得止ときハ自身降参してよし、三国のとき徐庶か処置これを得たりといへり、又唐の徳宗のとき李懐光といふもの謀反せり、其子李〓養子石演芬其謀を徳宗に告く、一ハ懐光に殺され、一ハ懐光敗死のとき自殺しぬ、此を忠臣義士と称せり、これらの事ともをよく/\味ひて料簡を決へし、なほ博識徳行の人にあひしとき、尋問覚悟なし、おきて事にのそむて其中正を失すへからすと応荅せり
懲震〓録下巻終
或問
大地震といふこと、ものにしるせるハ、をり/\見ることあれと委しく書記せるをミす、或人とふいにしへより、かゝる大なるハなしと虚実いかなるやといへる荅に地震にあへるさまを目に見る如く委曲(ツバラニ)にしるせるハ、長明か方丈記なとにやあらん、又大地震とのみしるしてことをしるさゝるハ何とも弁すへきやうなし、中にハ普通に大文字をそへたるもあるへけれはなり、さて又いにしへより今度の震より大なるハなしといへるハ例の俗談なるへきか、そはまつ日本書紀天武天皇白鳳七年十有二月是月筑紫国大地動之、地裂広二丈、長三十余丈、百姓舎屋、毎村多仆壊、是時百姓一家在岡上、当于地動夕、岡崩処遷、然家既全而無破壊、家人不知岡崩家避、但会明後、知以大驚云云、これより七年を経て同しき十有三年冬十月己卯朔壬辰、逮于人定大地震、挙国男女叫唱不知東西、則山崩河湧、諸国郡官舎及百姓倉屋、寺塔、神社、破壊之類不可勝数、由是人民六畜多死傷之、時伊予湯泉没而不出、土左国田園五十余万頃、没為海、古老曰、若是地動未曽有也、是夕、有鳴声、如鼓聞東方、有人曰、伊豆島西北二面、自然増益三百余丈、更為一島、則如鼓音者、神造是島響也云云、とあり見るへし、此年筑紫なるより四国の震の大なる文を味ひてしるへし、これよりさき此地動にまされるものありやなしや、いまたえたゝさねと此二条あることふと思ひ出るまゝ巻をひらきて応答にそなふ、こゝに古老の若是地動未曽有也といへるハ、いにしへをふかくさくりていへるにハあらて、おのかしれらんかきりをいふならめハ必定と決(サタ)むましくや、そは今の人の目に見、耳にきゝ、口に味ひ、こゝろにおとろくものすへて、おのか感あるを日本一なといふハ俗の常にて、是となしかたきと同理なるへく思へはなり
大震の後、又をり/\動揺あるにつきて、ある憶病者又いかなる大震あるへくや心うしといへるに答ふ、凡震は気の滞塞するを押出せるなりといへは、かくまておほいに発して、後ハ滞気も残少になるへし、かゝれハいかて打重ねて大発あるへきや、たとヘハ富家にておほいに金銀つかひすてゝ残少になれるうへに、又はしめの如くせんとしても其種なし、いかてか、しかなるへき地震も、まつ当時ハ大発のたねなかるへし、苦心ハ無益ならんか
地震ハなまつ魚のなすわさなりといふハ、いかに、荅榊巷談園、榊原玄、輔著、にこの国の下になますといふものありてそれかうこきするときハ、なゐのふるといふこと、よくわらへの物かたりにする三才〓(図)会に木魚の事をのせて、閻浮提ハおほきなる鰲の背にありこの鰲つねに身を痒かりて鱗甲をうこかす、そのときハこの世になゐふる、さるほとに其のかたちを作りてつねにうちたゝきて痒かりなきやうにするなりといへり、この国のものかたりもかうやうの事よりいひ出たるなるへしとミえたりといへは、又問地震をなゐといへるハいかに、荅地震をなゐと訓すること天智天皇御紀にもミえて古訓なり、名義ハ未考越谷吾山が物類称呼に、地震を関東及北陸道にてぢしんといふ、西国及中国・四国にてなゐといふ、とミえたり、陸奥国何郡金山谷にてもなゐといふよし会津人いへり
或人問、我越後国にて昔も大なる地動のありときけと、其強弱今度のとハいかに又其大にゆるところハ何れの地なるやきかまほしといへる、答に我国にておほいなる地震ふりしことものに見えたるハ宗長か宗祗終焉記に、文亀はしめの年の六月のすゑ駿河の国より一歩をすゝめ中略九月一日ころに越後のこふにいたりぬ云々、かくてしはす十日巳刻はカりに地震大にしてまことに地をふりかへすにやと覚ゆること日にいくたひといふ数をしらす、五日六日うちつゝきぬ、人民おほくうせ家ころひたふれしかは、旅宿たにさたかならぬにまたおもはぬやとりをもとめて年もくれぬ云々とあり、こは頚城郡にての変をいへれと、書体あらく詳に弁しかたし、又佐野卿成か続王代一覧に、寛文五乙巳十二月廿七日、高田領大地震城中本丸破裂、其外武士屋敷町家破損し、諸士及商人等百廿余人死亡、と見ゆ、又古き日記に寛文九巳酉五月五日、新発田大地震とミえたれと、其時のさまハいかにありけんしらす、又片山円然か読王代一覧に、宝暦元年辛未四月廿五日、越後国高田大地震、酉刻ヨリ丑刻ニ至テ三十余度山岳クツレ民家倒ル死スルモノ凡壱万六千余人、此年二月廿九日未刻京都、大地震の事もミえたり、、此時高田町家わつかに三十二軒たてるのみにて、其他皆倒れ其上失火して下小町より茶町まて六町かほと焼うせしよしかけるものあり、又柏崎人の其時贈りし消息文中に、四月廿五日晩明七ツ時分大地震ニて町在ともに倒れし家八十三軒死人六人、残る家も皆倒るゝはカりになれるよしミえたれは、此辺ハ高田の如くつよからさるか、橘南蹊か東遊記に見えたる名立小泊の山くつれていへをうめしとあるも此ときのことなり、又寛延四年辛未、此歳宝暦と、改元あり、五月新発田より訴上させられし書の写といふものに、去月廿五日丑ノ刻地震にて領内のうち破損するところ百姓の家倒るゝものハ三十一、なかはたふれしハ七十二、土蔵のたふれしハ十三、人馬には怪我なく陸田幅四尺ほと長十町ほと破裂砂少吹出其他少の破裂ハなほあり、城内侍屋敷町家ともに無事なりとあるを思へは、此時の震、名立・高田辺との西方より発し、東方をさして動りし故に、刈羽・蒲原なとハ其傍にて響のために倒れしいへなとも出来しにていとかろきゆるきとおもはるゝに、今度ハ今町・地蔵堂町方との坤より発し、〓の方へ幅五、六里はカりに震行しなり、さるからに我すめる里なとハその気の通路の最中なれは、にやいとよくものを損ねたり、さて新発田領中はカりも数村にて倒れし家千六百六十軒、なかは倒れしか七百拾五軒、焼失るもの百廿一軒、圧死せるか二百拾人、焼死もの廿七人、斃馬廿二疋、田畠破裂して砂を吹出せる地弐百八拾壱町余、此他寺社の破壊せるものハこゝにいはす見るへし、宝暦改元の震も今度のも其通路と傍なるとにて損ねしものゝ多少をしるへき也、さて此両震を並へて其強弱を論せは、宝暦のかた強かるへくなむ
或人問、世俗の常語に地震・鳴神・火事・おやぢ、国俗邑長をおやぢといふ江、戸人などハ親父の事を云、とこの四つのもの必おそるへしとならへいへれと、なる神ハおちむとするまへ光も音もあれハ人おの/\こゝろかまへをなさんにハ災をまぬかれんとする道なきにあらす、火事はおのれまつつゝしミてあやまつことなくもし人失火することありともこれをふせくの術あり、邑長ハかミのおきてを下へ通するもの、掟ハもとより背くへからさるものにて背くことなけれハ、罰もうけすされは、ひとり地震ハ四時昼夜の差別もなく、其おほいに発するに至りてハ、一邑・一郷のかきりにあらて、手裏(タナウラ)かへすほとの間に数十里をもおし動かし、其強くあたるところハ金石もてかためなす家倉なりとも保ち得す、又屋(ヤネ)よりおつる瓦石にうたれて髄脳をあらハし、棟梁に圧うたれてハ目玉とび出、大地の裂たる口に陥りておのつから葬られ、老を背負て道路に倒るゝ子あれハ、幼きを抱き河水におちて溺るゝ親あり、或ハ牛馬にふミころされて肚洩出るなと、かくおそろしきありさまをなすも、皆一時に出くることにて其ゆり動かさんとするをとゝむるの手なく震さる地に逃るゝの足なかるへし、いかに答こはひとわたりハさることゝ思はるれと、少しく用意なきにもあらさるか、そは上件々にいへる如く、あつかるへき時に寒く、さむかるへきをりに暖にして、空はれやかならすなといふたくひの前徴をふかくさくり、また家のうへの重きハ倒れ易く、板ふきなるハ大かた倒れす、常さへあやふきか如く損ねたるいへにをるものハ猶さら耽談(ユダン)せす、又たふれんとする家をおそれて逃出んとして却ておされ死し、又倒れたる宅の下にありて死をのかれたるものなとハ、何のゆゑなる理をふかく考おきて、常におのか身を慎ミ、いへぬちのものにもをりをり茶談になしおきて、気候順に至るをまつま薄氷をふむの用心をなさハ、仮令大震にあふとも又わさわひをまぬかるゝ人もあるへきなれは、必等閑(ナホサリ)にすましきなり、世にその用心をなせる人のおほかたきこえぬハ、大震ハ平常になきものにしあれはなるへし、すへて変をなせるまへかたにハ必しるしありと思ハるゝ也、そハ平田翁の説にも、家にまれ、処にまれ、災事あるにそは人の過りて為出たるにまれ、盗する穢き奴の放ちたるにまれ、実ハ神の御心と為たまふか故に鳥獣ハさきに知りて其辺に住むもの他へ避往く、人ハ知らぬを鳥獣のまたきに知るこそ甚怪けれ、案に実ハ然るへき所以ありて、鳥獣ハ幽冥に属たるものと見ゆれハ、神の御心を聞伝ふるなるへし、また鳥獣を神々の使者と為給ふなともいひて、現にその御託宣を鳥獣より聞ことも有る、其は秦大津父が助たりし狼の欽明天皇にさとし奉りて大津父に官位を賜はしめたるなとを思ふへしといはれたるハ実にさることにて按(オモ)ヘハ、畏くも大巳貴神は鼠の言によりて火を避玉ひ、日本武尊ハ信濃の山にて白狗の導るより美濃に出玉ひ、雄略天皇ハ葛城山に猟し給ふ時、霊鳥努力(ツトメヨ)々々と鳴て嗔猪の俄に出しをも殺し玉へるなと、此類、前後古今ともにあり、方今(イマ)自国在々所々にて神事のをり氏子等巫女の御託宣を承る事あり、某月ころ夜のおとろき、昼のさわぎあり、獣鳥(シソクニソク)をもてこれをしらせんなとあれハ、人々畏ミて是を聞なからも、犬の遠ほえ烏のなか啼なとをきゝてハ、不祥として是をおひやらひ、あへてこゝろにかけで吉事を祈るにもあらぬハ、おほかたの人情なり、しかして後、災事にあへは不意に出来たる如く狼狽するハ、たとヘハ街道の駅々へ某月某日某殿通らせられんそれの駅にて休これの駅にて泊なとある先触(シラセ)書をも、あゝ厄介なり早く以て往(イ)ねとよくもミすおくりやりて、其日に当り不意の宿となりて致累(メイワク)かけるなといへる類ひと同しくて其理たかへり、又禍事にあひて後さきにかゝる前徴のありしをうかうかすくせりなとゝ千たひ百たひくゆるとも世話にいふ諍闘(ケンクハ)すきての棒ちきりいかにかもせむ、何れ尋常ならぬ善悪の来んまへかたにハ必其験あることしるけれハ、何事にもよく留心(ココロヲトメ)よそにハすましきものとこそ思ハるれ、その前徴といふにつきて、いまひとついはまほしき一奇事あり、そは清人霽園主人閑斉氏か著せる夜譚随録、巻之八、地震、といふものに、老人相伝、雍正庚戌歳、京師地震之前一日、西城一人、抱三四歳小児入茶肆甫及門小児輙抱其頚、啼不肯入、其人怪之曰畏此地人多耶、乃之他肆、至則復啼易地皆然、其人以為異、問汝平日極喜入茶社、食蜜果、今日胡為乎爾、児曰今日各肆売茶人及喫茶人皆各頚帯鉄鎖故不欲入、且今日往来街市之人何帯鎖者之多也、其人笑其妄、路遇一相識、問所之白其故、大笑而去、児哂曰彼亦被鎖尚笑人耶、其人帰逢所知、輙告之、或言小児眼浄、所見必有因、伺之可也、小児有堂兄二人児又驚其有鎖次日地大震、人居傾毀無数、凡小児不入之肆、無不摧折竟無一人得免、二兄亦為墻所圧、訪所遇相識、己覆屋下矣劫数之不可逃也類如此、といへりかうやうのことは和漢古今いとおほかり、取捨によりて生死を致す即各天命なれと総てハ必一概になすましきことにこそあれ
懲震〓鑑下巻
(張紙)
「吾友笹岡町広沢や太惣次、名笹広と、いへり、の家にてハ、先年当国地震後震難の用意とて、家内壱人前つゝ戸棚といふものをこしらへ所持せり、つねには調度なといれおけり、さてまのあたりあるを、甕雄うち見るにあるかたち畳一まいはかりにて、壱人ハ寝らるへきほと也、尤大丈夫ニせり、今眼前に見つれハ、これもついてにきこゆる也、おのれ思ふに町家ハさらにもいはすかの用意は無用にや、此書を見給ふるにおほかた火のわさはひさへ見ねは也、尤用をなすへきか」
○欄外の記事は割愛した。また原本には挿絵があるが割愛した。