寺領を過るあたり、みちよければ歩行せしに、はや小木町へ来たり、こゝは佐州第一の湊といゝて、町村にて高七百石余、人数弐千七百計あり、夷町ほどの富家はなけれど、よきみなとにて、筑紫がた、蝦夷が島へ行通いの船々、多き時は百四、五十艘もかゝる湊なれば、うきねの妻たるものもありて、ことに賑し、夫故、家づくり等、相川よりよし、只の商家のものも、紅かみかけなどせしものある也、ふながゝりする湊のなかに、城山という山あり、めぐり五百間余にて、直立十九間という、のぼりみしに、さくら数十本あり(植えたるものとみゆる也)、よほどよき詠の山也、雪・月・花ともに、比類なかるべしとおもわる、その城山へ行くみちを隔て、西は内澗、東は外澗という、(天保十二年三月十六日)享和二年の大地震にて、うち間の水二丈五尺余減じて今はよほどあせ、新田など出来たりと、今の御番所ある辺は、いにしえ、三百石以上の船かゝりける所也という、
○本史料『島根のすさみ』は天保十一年(一八四〇)六月八日に佐渡奉行に就任した川路聖謨が、七月十一日に江戸板橋を出発してから翌十二年五月二十六日に江戸に帰るまでの間、道中と佐渡滞在中の見聞を記した日記である。川路は天保十一年七月二十三日から天保十二年五月十六日までの間佐渡に滞在し、小木へは天保十二年三月十六日・十七日に巡見で訪れた。その際に、現地で知った享和二年十一月十五日の地震の情報も書き記したものが本史料である。