(天保十一年(一八四〇)五月十五日)
夏の日の暮れがたう、かく物語するほどに、なゐふりぬ。此ごろをりをりかくある、いと心づきなし。
己(おの)れは雷(いかづち)よりもきらへり、といふに催されけるにか、此人又いへらく、「己(おの)が国にては是をみな人なえとなんいへる、はた享和とふ年の、二年(とせ)にあたりける年は、己(おの)れ〈イツゝ〉五才の歳にて、袴着とふ事をし侍りて、羽茂ノ郡〈ヲギ〉小木ノ湊なる、木崎(きざき)の社へ、父のうちつれて詣させ侍りしが、時は霜月の望の日なりき、空の色俄にあやし気にかはり、雨(あま)雲も手にとるばかり近う見ゆるに、皆人あやしみさわぐ間(ま)もなく、土(つち)ふるふ事おびたゞし、今日(けふ)の祝(いは)ひに人あまたこゝに集ひけるが、此社(やしろ)たまるべうもあらず打傾(かたぶ)き、おどろ/\しうなりとよむに、此大地たゞ今打かへしつべし、世ははやうせなむと泣叫(なきさけ)び、にげ出ンとするにえたち得ず、みな階より転(まろ)び落(おち)けるに、己(おの)れもこけ落(おち)たるが、御殿(みあらか)の柱の根つちに深く堀入レたる、いたうゆるぎて、大きに隙(ひま)あきたる間(あはひ)へ転(まろ)び入(いり)けるを、父のとく引いでければ落(おち)も入(いら)ず、柱にはさまれもせで、からき命いきたるを、助(たす)け負(おひ)てはひのがれ、程へだゝりつる山辺へにげ入けるに、此里の人も皆此山へにげいり、なゐのやむを待ほど、六日七日(なぬか)へたりき、さて家どもはみなゆり倒(たふ)し、こゝかしこより火出来て一ト里やけうせ、人あまたそこね、牛馬など数もなう失(うせ)たりき、さてのち見れば、此なゐにより小木の湊のしほ、はるかの沖まで干潟と成ぬ、其後此みなとのわたり皆田にはりてければ、もとの汀(みぎは)に船つなぎし岩ほの、土(つち)よりおひのぼりていと大きなるが、今(いま)は田の中にたてり、一とせの秋、此岩(いは)の田中にたてるを見やりて、かくなむ詠(よみ)侍る」とて、語(かた)りつる歌、
舟よせしみぎはのをじまおも影にいまも稲葉の波ぞかゝれる
○本史料『井関隆子日記』は、江戸九段下に屋敷があった旗本井関親興の妻である隆子の天保十一年(一八四〇)一月一日から天保十五年(一八四四)十月十一日まで、年齢でいうと五十六歳から六十歳までの日記である。隆子は、佐渡奉行所役人で歌人である蔵田茂樹と、文通をするなどして親しく交流していた。本史料は、天保十一年五月十五日付のもので、上府していた蔵田を招き語り合っていた際に起こった地震をきっかけに、蔵田が五歳の節句であった享和二年(一八〇二)十一月十五日の経験について語った話を書き記したものである。なお、天保十一年五月の地震は、十四日、十五日、十七日に起こり、この地震についても『井関隆子日記』に記されている。