二十六日雨風 七ツ時大地震、夫より夜中迄ニ数度ゆり 休日ニ付在宅、煙草のし致候、昼前岩沢同役被参候、昨日之御意ニ御家中難渋之者此節働事無之銭取不被致候者は愛宕山之柴伐為致可申、代八十文ツ被成下可然由也、相談致候様被思召候旨被申聞候、御尤之御事何茂江申達可然也、昼後七ツ時金左衛門参候、御蔵江罷出候得共、米一切済寄不申咄ニ参候内ニ大地震ゆるき誠ニ家小屋をむくる様ニ覚、皆人々外江逃出候、我等早速御機嫌伺ニ罷出候、御前奉始御方々様逃出給ひて外江被為出候、御土蔵四方大破、其外町方之土蔵共大破致候由、桂や之土蔵表之方壁大落し、〓、伊セや、〓皆々そんし候由、夜中利右衛門参咄候、夜中迄ニ少々宛数度ゆり申候、誠ニ前代未聞之大地震也
二十七日 曇小雨時々 御用前出勤、昨日の大地震ニ付御土蔵そんし候処破損、斎藤氏罷出候、立木宇之助、小八両人ニ而くしまるき為致候、終日在宅煙草のし致候、夜中利右衛門参候、荒砥之問屋佐与次鹿島屋之蔵昨日之地震ニ而むくれ候由咄候、誠ニ大変之事ニ候、今日栃窪口御番所交代真島円蔵代佐藤良助罷越候由、我々宅江茂届申聞候、小者壱人召連入来候、袴羽織ニ而
○俊親日記は、小島俊親の日記である。『小島家文書 俊親日記一』によると、小島俊親は、寛政十年(一七九八)鮎貝(山形県白鷹町)に生まれ、文政八年(一八二五)から嘉永三年(一八五〇)まで鮎貝役屋将本荘寛長の用人職を務めた。鮎貝役屋は公的執務の場所であり、本荘氏の私宅であった。本史料は、小島が鮎貝役屋で勤務していた時期のものである。