(正保四年五月)
○十四日昨日より数度大震し、城中石垣五、六間崩る。よて紀水両卿、尾宰相及在府の諸大名、群臣まうのぼりて御気色を伺ふ、尾邸へは松平伊豆守信綱御使し、地震によりけふ御対面停めらる、又紀邸へ小姓組番頭石川播摩守総長、水邸へ北条右近大夫氏利、尾張宰相のもとへ書院番頭伊沢隼人正政信御使して、とはせらる。また同じ事によて、日光山へ松平右衛門大夫正綱、并目付松平孫大夫重次つかはされ、紅葉山、増上寺等をも巡察せしめられ、京坂、長崎、豊後等の国々、すべて在番目付等まかりたる国々へも急脚をはせ、地震のさまをとはせらる、また伝奏衆、帰洛の途中へも奉書もてとはせ給ふ(日記、吉良日記)○十五日(中略)紀邸へ牧野佐渡守親成御使し、こたびの地震に日光山中ことなる事なき旨御注進ありしよし仰つかはさる、けふも地震ニ、三度に及ぶ(日記、紀伊記、榊原日記)(中略)○十九日松平右衛門大夫政綱、留守居杉浦内蔵允正友、日光山よりかへり参る。こたびの地震にて 台徳院殿、 崇源院殿御幕辺の石垣并石灯篭倒傾せしかば、修治すべしと、其奉行を八木勘十郎守直、高木筑後守正次に命ぜらる(中略)(日記)(中略)○廿二日(中略)小姓組島弥左衛門正利、大判丸毛兵左衛門利忠、こたび地震によて破損せし各所の修理奉行を命ぜらる(中略)(日記)(中略)○廿七日、さきの地震にて、御茶室辺石垣破損せしかば、酒井河内守忠清修築の助役を命ぜらる(中略)
(正保四年六月)
○二日(中略)、この日、先の地震にて破損せし各所修築の助役、西城櫓下、并に西の土橋、的場曲輪は戸沢右京亮政盛、西城下永井日向守直清が邸宅に向ひたる石垣は堀左門直吉、麹町門側角石垣は内藤帯刀忠興、紅葉山後は本多八郎兵衛勝行、神田橋は杉原帯刀重玄、織田源十郎秀一、呉服橋、鍜冶橋は佐久間権之助勝豊に分ち命ぜらる(日記)
(中略)○五日(中略)このほどあやしく地震日ごとにたへず、よて老臣毎夜宿直す(日記、水戸記)○六日、使番津田平左衛門正重、蒔田数馬助長広、書院番加藤平内光定、小姓組長谷川三左衛門守勝、地震によて各所崩頽の地修築奉行命せらる、百人組の頭阿部四郎五郎正之、先手頭たりし時、此事沙汰せしかば、こたび此ともがらに指揮すべしと命ぜらる(日記)(中略)○九日(中略)又、連日地震もやみければ、老臣の宿直をゆるさる(日記、水戸記)。
(正保四年七月)
○八日(中略)、相州馬入川の渡口、先の地震に崩頽せしかば、修築のため片桐石見守貞昌巡察を命せらる(中略)(日記、水戸記)