(元禄十六年)
御札致拝見候、先月廿七日之晩御老中様御連名之以御奉書、廿八日四時御登城可被遊之旨ニ付、大膳大夫様其節少々御風気被成御座候故、内膳様御出被成候処、御老中様御列座ニて、今度江戸就大地震御城廻石垣破損御修覆御手伝被仰付旨、小笠原佐渡守様被仰渡候之由、為御請内膳様御用番迄御出被成候、其外御老中様えも為御礼御出被成候由、依之被仰越候趣甲斐守殿え申上候処、御太慶被成候、恐惶謹言
杉杜中務
元世判
十二月十四日
細川宮内
広通判
毛利蔵主様
益田越中様
佐世主殿様
(中略)
宝永元年
御札致拝見候、先月晦日大膳大夫様御登城可被遊之旨被仰出、御出仕被遊候之処、去年地震付て年号改元宝永被仰付之旨被仰渡候通為御知被仰下候、右同日右京大夫殿御登城可有之旨付て、御出仕之処右之趣被仰渡之由申来候、領内疾及沙汰候、恐惶謹言
杉杜中務
元世判
四月十九日
細川宮内
広通判
毛利蔵主様
益田越中様
猶々陶山喜兵衛方より各様え御聞合申達候様ニ申付候間、
委細彼者え被仰聞可被下候、以上
(後略)
注、本史料は、『下関市史』の解説によると、長府藩および清末藩の家老衆と本藩・長州藩家老衆との往復書状の中から抽出して編纂されたもので、寛文年間(一六六一)から享保十七年(一七三二)までの書状が収録されている。