巻第七十三
流年録 豊原多助重軌筆記
これは上ノ巻にて次は闕本となれり、恨むへし、此巻豊原後弐百石まてにすゝミ、御元占役になれり、今の御蔵米取と云、御町人の事も此仁の発端に出たるよし
(中略)
○十六未二十三歳四月ころ大君御遠慮御免にて御登城あり、これより人々心広く安堵の思ひをなしぬ、五月妙祇山ヘ御代参を勤む、先達て田中氏、宇石エ門、御用人、、勝木氏、平三郎、御近習、を荘内江下シ給ひ、御家老よりはじめ諸役人御センギありて、或は御暇を賜ハリ、妻子を引つれ知らぬ国ヘ赴くもあり、或ハ禄を減せられ、閉門仰付らるゝもあり、聞に心を痛ましめぬる事共や、又かたハらにハ禄をまし重役につき、又は屋敷替して栄ヘ出るもおほく、世の移りかハり、目の前にこゝろを驚かしぬ、十一月廿二日、丑ノ刻はかりに地大に震ふ、相番西堀氏伊左エ門、秋保氏十右エ門、塙氏笹之助を呼かハし起たれと、灯は皆ゆり消しいと闇けれは、皆転ひあへり、予は預かりの鎰を持行、奥占切の戸を明ンとするに、物の落る音たかく、心さハかしけれは頓(トミ)にもあかす、からうして戸を明、御庭ヘ出る、大に震ふ事三度(ミタビ)、明暦二年の大地(はやめ)四度(ヨタビ)にもやあらん、地われ家倒ることおほかりし、明暦二年の大地震も、斯やと覚ゆるに、此度は其跡やまず、尋常驚(ヨノツネ)くほとの地震ハ昼夜障なし、此地震、廿四日の夜雨降て、大かたしつまりぬれと、一日に二度、三度計りつゝ、淘ることは日数を経ぬ、同月廿九日本郷といへる処より火燃出、雑具を取したゝむる程に風烈しく、御中屋敷ヘ火もへかゝり、若君の御供して御上屋敷へゆく、爰も火あやらしとて、それより芝、清光院といへる寺ヘ退き給ふ、予は山岸氏伊右エ門と同宿し、かぢ町といへる処に纔の二階をかりて年を越しぬ
(中略)