一、御当山様御領分之内、私居屋敷之儀は、寛永十一年ニ御領分と相成申候、其以前は御公領之由申伝候、後之山巌窟不動之上、東之方、松源寺境、是鶴岡領、境之処、元禄十六未年十一月廿二日之夜、大地震之節山崩レ、下之平地之処鶴岡分地江落ちて山ト成て、別不動坂是にて候、
一、御領分之山かけ崩レ候処、先規之通、東ノ方は鶴岡境峰之平地之真中を南ノ方江見渡しを境ト致し、南ノ方は巌窟不動之岩ノ鼻を東ノ方江見渡し、渡しを境ト致し、先規之通、其節より支配被仰付候、荒レ山ニ相成候付、御年貢御引方も被成下置候、其後年暦押シ移リ、自然ニ土出来ニ付、雑木植付仕之節、御訴申上候処、崩レ跡之儀付、御年貢先規之通御引方被成下置候、
一、西之方境は、下ノ境之くねを北之方江見渡しを境ニ御座候、山上は峰を境ニ御座候、是花光院ト之境ニ御座候、
注、本史料は、鎌倉市英勝寺に伝存する英勝寺・鶴岡八幡宮領境界図の付帯文書である。『特別展鎌倉災害史』の解説によると、「巌窟不動(窟不動)」の東方、鶴岡八幡宮領「松源寺」と英勝寺領との境の山が地震で崩れ、その下が山のように盛り上がって地形が変わったと記され、境界図には当時の地震痕跡が記されるとする。