売渡シ申新田場証文之事
一、那古村川崎、未之地震〓塩旱形ニ罷成候ニ付、新田開放之儀、 御地頭様江御願申上候得共、無相違被為仰付候、併ニ大普請之儀出来難仕候、依之小川堺杭〓南江七拾五間、岡浜之儀は田地出来次第ニ、尤河筋共ニ、代金子弐拾両ニ相定当金請取、新田御百姓として売渡シ申所実正也
一、御年貢之儀ハ、新田出来之上、 御地頭様御役人方御見分之上、御上納可被成候事、
右新田場所、代金請取相渡し申上ハ、人足御用賃金御手前普請被成、御子孫迄永々御百姓御勤可被成候、名主、組頭、惣百姓迄少も申分無御座候、何者ニ不寄六ケ敷申おいてハ、判形之者急度埒明、少茂御難儀かけ申間舗候、為後日仍而手形如件
一、新田出来仕候而、外江御渡シ候共此方ニ構無之候、以上
那古村名主 利兵衛(印)
同所 組頭 弥左衛門(印)
同所 同断 源右衛門(印)
惣百姓代 次郎右衛門(印)
喜三郎(印)
長左衛門(印)
甚五兵衛(印)
宝永八年卯正月日 喜兵衛(印)
利右衛門(印)
船形村
九右衛門殿
注、本史料は、館山市 正木家文書(岡田晃司「館山湾沿岸における元禄地震被害と干潟利用について」『千葉県立安房博物館紀要 第二巻』に所収)。