一札之事
一、塩浜七町六反三畝廿壱歩
右は元禄八亥年御検地入候塩浜、先年地震変地仕、御運上御免之場所ニ御座候所、此度貴殿御請御新田地之内ニ入候ニ付、拙者共先地主之事故開発可致候ハヽ、地所御割渡可被下段御申渡承知忝存候、乍然右場所之義ハ、波当り強キ所ニ御座候て、拙者共自力ニ開発之義相叶不申候、然上ハ此以後貴殿開発御所持被成候共、又ハ望人有之余人へ御割渡シ被成候共、於拙者共少も申分ン無御座候、尤右地所横合より相構申者無御座候、為後日一札、仍て知件
宝暦四年戌二月 大師河原村
塩浜変地先地主
勘左衛門(印)
八郎兵衛(印)
次兵衛(印)
久左衛門(印)
喜左衛門(印)
塩浜御請負人
喜左衛門(印)
久左衛門(印)
太郎左衛門殿
注、本史料は江戸湾岸の塩生産地のひとつ、武蔵国橘樹郡大師河原村(神奈川県川崎市川崎区)周辺地域に存在した大師河原塩田の開発に関わる文書である。『川崎市史』の解説によると、寛文九年(一六六九)に大師河原地先の塩浜で製塩業が始まったとされる。「元禄八亥年御検地入候」とあり、元禄地震以前には年貢地として取立てられていた。その塩浜が、先年の地震で地形が変わり、運上免除の地となっていた。本史料は、宝暦年間に行われた池上新田の開発地内に入り、その開発をめぐっての一札(証文)である。地震被害のあった塩浜は、宝暦の開発が行われるまで荒廃していたことがわかる。