(文化十四年十一月)
○五日晴、四つ時大地震、両度あり、
(中略)
○十五日晴、(中略)夜にいりて九つ時大地震
(中略)
○廿二日晴、午打さがるころ、富士・箱根の方にありて雷のごときひびきあり、出て望むに、西南の空かきくもりて、日のゆゑといふ事をしらず
(中略)
○廿八日雪四時に晴ぬ、春登法師、赤沢内蔵助まうでく、内蔵助語云、廿二日の震動の時、武蔵八王子近所の子安村、同大和田川原、日野の原の三所へ三尺計の石、空より落たり、他所にかたるが同くして、地中三尺計も打こミたり、大和田川原なるハ石、地へ落たれハ、くたけたりといへり、そのくたけを人のもて来て見セたりしに、焼石のさめ也き、といへり
(後略)
注、本史料、小山田与清の日記は「擁書楼日記」で知られる。第七巻から十二巻(文化十四年から文政元年)の日記の題箋は「擁書倉日記」となっていて、本史料は「擁書倉日記」であるが、「擁書楼日記」と表記した。早稲田大学図書館古典籍デジタルライブラリ—の画像によって校訂した。