(天明二年)
一、七月十四日、十五日夥敷大地震にて、相州小田原城中へ水押入り、死亡せし者甚多く、此地、城下・町家・農家等へも同様水おし上ケ、死人数しれす、此旨十五日ニ及て江戸へ注進到着也、此ひゞきにて右の両日共江戸中も余程の地震也き、又大山石尊え登山之者、彼ノ地震にて困難云計リなく、石尊近辺ハみな大石こけ落ち、是が為メニ死人・怪我夥しく、目もあてられぬ有様の由、此せつ御代宮遠藤兵右衛門殿、手代沼津え御用にて参り被居候所、この辺は十七日ニ至て大地震なり、人家多くゆり潰し、同人止宿被致候旅篭屋も同様くづれ候故、無拠取物も不取敢、表往来筋之江駆出され候得ば、こゝかしこ地われ、泥ふき出し候ニ付、又々裏之畑へ立抜かれ、有合せの戸板等をしき、其夜しのぎ被居候次第、存も不寄難儀被致候由也、又甲州筋は同しく十四日より十六日まで引つゝきの大地震にて、名高き猿橋もゆりくづれ、房州辺は大津浪にて、一村にて人家一軒も残らぬ処有之由、実ニ類稀なる大変なり
(後略)