[未校訂]三、災害と訴願運動
1 安政東海地震
安政元年(一八五四)十一月四日、遠州灘沖でマグニ
チュード八・四と言われる大規模な地震が発生した。有
感地域は現在の岩手県から九州にまでおよび、津波は房
総半島から土佐まで至る海岸に及ぶ広範囲を襲った。例
えば伊豆・下田では八四〇戸流失全壊、三〇戸が半壊水
入り、無事な家は四戸のみという有様であった。この大
地震で特に被害がひどかったのは、沼津から浜松に至る
沿岸と、富士川沿いに甲府盆地にまで至る地域であった
(『日本史大事典』平凡社)。
十一月三日、市川役所支配の巨摩・八代両郡惣代より
地震被災に関する願書が差し出された。
乍恐以書付奉歎訴候
当御支配所巨摩・八代両郡惣代一同奉歎訴候趣者、当寅十
一月四日五ツ半時頃より地震起り立大震動ニ相成、郡中
村々居家又者土蔵・物置・作物こわし新屋外囲等ニ至迄一円
ニ陶り潰微塵ニ相成、既ニ人命ニ相抱リ漸逃出し候得共、一命
相果候も儘有之一同歎敷次第ニ奉存候ニ付、其段御注進奉申
上候処、早速 (平出)御代官様并御手附御手代中様方御見分奉請
難有仕合ニ奉存候、然ル処当寅年之儀者、五月植附頃より七
月中旬頃迄免角雨天勝ニ而、冷気強く不順之気候引続候処、
同月中旬過ゟ相当之時候ニ相成、草生立至極立直り候ニ付、
ケ成之年柄ニ立戻り候与銘々相悦申居候得共、最初冷気勝
ニ而出来少タリニ付、稲作取実薄殊之外違作ニ而、米穀者追々
引上り、村々之儀下作人共右之始末申談し候故、夫々引方ハ
たし遺候程之年柄ニ而籾納之儀被 仰渡候間、難渋之段奉申
上候得共容易ニ御聞届無御座、御忍沢之御利解難黙止、無余
儀御請仕候次第ニ而此間中迄ニ漸取入、此節籾干立等ニ取懸
り候ニ付、[孰|イズレ]も堅俵ニ而小口かゝり等不致候砌り、右地震起
り候間、火事之儀も心配いたし取急キ取出し候得共急変之
事故雑穀ニ相成、御物成米御上納ニ者無覚束罷在候刻、数多
村々之もの共寒気時分ニ相成、右毀屋取片付人足等ニ至迄最
寄村々一円之儀ニ候得者、誰手伝人足等も無之、当時小屋掛
ケ住所亦者衣類・世帯道具・鍋釜・農具等ニ至迄家財一同打
毀シ、惣百姓当惑退転ニおよひ候次第ニ而、無難之村々迚も
信州・駿州隣国迄も致震動候由ニ付、土蔵其外或者戸障子破
損所数多有之、亦者野中・田地・耕地之内滅所下り地割目等
数ヶ所出来、右より泥水吹出シ、麦作其外等痛ミニ相成候
躰、且者釜無川・笛吹川通其外谷川沢之通何れも両縁御普請
所数筋大割目出来いたし、川床亦者田畑江吹出シ是亦減所夥
敷、迚も川除御保方ニ者相成不申与奉存候、用悪水路押埋り
伏越・圦樋戸・水門等銘々破却ニおよひ、往還筋之儀も陶り
下りニ而水中之場所箇所ニ通路差支多ク、川橋之儀も陶り落
し、又者総落之孰も手入不仕候半てハ差支罷在候、大川筋之
儀者山崩等出来川路差支之場所数多有之、一統及惑乱悲歎
至極、組合村々極難渋之始末何共難申上尽奉存候、尤組合
村々之内難渋之始末者銘々村ゟ別紙を以奉願上候間不顧恐
右今般奉歎訴候、何卒前件御憐察被成下置、格別厚以 (平出)御慈
悲先差当り飢夫食・小屋掛ケ・農具相続方之儀、老若男女等
ニ至迄相助り候様、幾重ニも厚き御慈悲之御沙汰早速被 仰
付被下置度、郡中惣代挙而奉歎訴候、以上
嘉永七寅年十一月十三日
差出し申候
野牛嶋村要助
下条東割村瀬兵衛
上宮地村松吉
藤田村幸左衛門
鰍沢村長蔵
浅利村勘兵衛
紙漉阿原村半兵衛
馬籠村佐兵衛
無惣代五ヶ村代兼
大塚村重太郎
市川御役所
(山梨県立図書錯所蔵甲州文庫)
震災被害の救済として飢夫食、小屋掛け、農具相続方
を願う嘆願書である。その内容からは地震の被害の程度
を知ることができる。地震は十一月四日午前九時頃発生
し家屋、土蔵等が損壊、多くの死者も出た模様である。
また地割れから吹き出した泥水により麦などが被害を受
け、釜無川・笛吹川などの川筋では地割れ、山崩れ、用
水路・橋梁の損壊など相当の被害が出たことが伺い知れ
る。富士川沿いの当地域も多大な被害を受けたであろう。
以上のような嘆願を受けて、救済はどのように行われ
たのであろうか。一例として、この時の大地震による拝
借金を割り渡された南部村の小前百姓の書き上げを示
す。
(表紙)嘉永七年霜月廿九地震ニ付御拝借金小前貸附帳南部村名主惣右衛門
寅霜月
地震ニ付
一金拾四両弐分也 拝借金
右小前
一人
一金二朱宛 庄助印
(中略)
角蔵印
〆八十四人
柳島
源五郎印
(中略)
伝兵衛印
〆三十五人
右之通霜月廿九日村役人立会割渡し候処相違無之候、依之
向後被仰越有之候ハヽ年賦御返納可仕もの也
(朝夷一郎家文書)
以上によると宿場を擁する南部村では八四人、その枝
郷の柳島では三五人の小前百姓が、大地震から二五日後
の十一月二十九日に、村役人の立会の下、拝借金の割渡
しを受けている。その金額は全体として金一一四両二分、
一人に付き金二朱宛てであった。そして返済は年賦によ
ることになり、具体的な返済方法は今後の指示によるこ
ととなった。
開国して間もない状況下にあって、安政大地震は、社
会の激動を予想させる強烈なインパクトを人々の心に残
したと思われる。