[未校訂](注、前畧)
玉穂町域の被害 本町の被害も前述の村々以上の被害
を受けたことなどが諸史料で見ることができる。次の史
料は玉穂町が稲積村といった時代に収集騰写した「今川
論書類抜萃」でこの地震の一カ月後に出された「乍恐以
書付奉申上候」と表題された文書である。
乍恐以書付奉申上候
森田岡太郎支配所、巨摩郡乙黒村外四箇村一同奉申上候、去
月四日大地震ニテ私共村々ハ勿論、数箇村ノ義ニハ候得共、
居家物置等及潰、田畑川除御普請所迄大荒仕、漸人命ヲ相遁
迄ニテ、当惑難渋仕候処、土地一体ノ義御普請所難捨置場所
都而御見分御座候処、町野田村・壱丁畑村今川論所堤ノ義モ
同様震出震沈ミ等モ有之、今般前代未聞ノ地震荒ニテ追々
心付見候処、野中田畑迄悉床狂ヒニ相成候様子、今川堤三番
御定杭ノ義杭頭土中ヨリ震抜候様子、根堅メ等如何相成居
候哉難計、其余定杭ノ儀モ右ニ淮シ地床ノ狂ヒニ付何分見
定難相成、且用・悪水路共震埋リ、村々耕地水湛居候仕義、
右今川堤ハ越水高低ノ難渋ヨリ事起リ、大津村ヨリ下郷今
福新田迄御見分ノ上御見平均ヲ以テ御裁被仰付候義ト奉存
候得ハ、破損ノ箇所多分ノ儀トハ乍申、水荒ノ義ニ候ヘハ
私共供々立会、御丁張奉請加判仕、御普請可奉請候処、
前書奉申上候通、地震災後今以銘々居家取繕ヒ難出来、
当惑途方ニ暮罷在候如未、地面狂ヒ用悪水路共、只今ノ姿ニ
テハ、一概ニ高低目当モ見留無御座候得共、地元村方ヨリ
仮築義奉願上候ニ就テハ、私共村々ヨリモ其如不申上
候テハ、御目論見方被遊カタク御利解ノ趣奉承伏候間、
来春御普請ノ儀ハ御見積ヲ以テ、仮築被仰付候様仕度、尤
追テ御定杭取調治定仕候ハヽ、是迄ノ手続ノ通相心得候様
可仕奉存候、依テ此如書付ヲ以テ奉申上候、以上
安改元寅年十二月十五日
森田岡太郎御支配所
巨摩郡乙黒村
御普請御掛
御役人中様
名主六蔵
長百姓甚右衛門
百姓代荻右衛門
下河東村
成嶋村
極楽寺村
大津村
(極楽寺・松村政家蔵)
この史料は、乙黒村・下河東村・成嶋村・極楽寺村・
大津村五カ村の村役人が、御普請掛役人に、村々の震害
の様子や、特に用悪水路の決壊による田畑の水びたしの
惨害などを報告し、緊急時で堤防普請の目論見(計画書)
の提出ができないので、来春の御普請は、「御見積もり」
により仮の築き立てを仰せ付けられたいと上申した史料
であり、震害の様子のみを要約すると次のようである。
私どもの村々は、去る十一月四日の大地震で、村民は「人命」
を逃がれるのが精いっぱいであった。家屋・物置きなどはみ
な倒壊し、大切な田畑や[御川除御普請所|おかわよけおふしんじょ](今川堤防)は所々
で大破した。
その後役所の見分(調査)では、町野田村・壱丁畑村地内の
「今川論所堤ノ義」も、陥没・隆起などが所々に起こり、今
回は「前代未聞ノ地震荒ニテ」追々心がけて方々を調べると
「野中田畑」まで、ほとんどが「床狂ヒニ相成候」と、陥没・
隆起が見えるありさまであった。
今川堤の普請のための三番御定杭は土中より震れ抜け、用
悪水路とも震れ埋まり村々の耕地は水びたしとなり耕作不
能となった。このような大災害に遭った村民たちは[家繕|いえつくろ]い
もできず、「当惑途方ニ暮」れる始末であった。
以上のように被災の模様を概観したが、当地城は地盤
が脆弱で所々で地盤の隆起・陥没を起こして「液状化」
した土地は、手がつけられなかったと考えられる。次の
史料は下河東の中沢剛貴家が所蔵する「災害救済資料」
である。
この史料(石和代官所管内)による災害救済用の籾・
現金の拠出は、境村名主伴蔵の親海蔵が「金三百両」、西
下条村百姓理平が「籾百俵」というように、百十四カ村
救籾金差出名前并割渡帳写
(中沢剛貴家蔵)
の有志二百五十七人が、籾二百七十九俵(百五十七石七
斗四升)と、現金五百六両二分永二百二十八文五分を献
金した。また拠出金は被災村の四十七カ村の全壊・半壊
の家屋を対象に割り渡されている。次にその史料を抜す
い記録する。
「安政二夘年四月十三日
救籾金差出名前并割渡帳 字下河東村」
一金三百両 境村
名主伴蔵親海蔵
一籾百俵此石六拾六石内籾三石六斗四升計五減 西下条村
百姓理平
一籾拾五俵此石九石九斗内籾六斗 市部村
百姓同半兵衛
(略)
合籾弐百拾三拾九俵此石百五拾七石七斗四升内籾九石弐斗 計立減金五百六両弐分永弐百弐拾八文五分
右割渡方
金弐両壱分永百八拾六文六分籾壱石弐斗 広瀬村
潰家四軒大破四軒
(略)
金百拾壱両永弐百三拾弐文弐分籾拾石八斗 乙黒村
潰家五拾四軒渡
金五拾三両壱分永弐百三拾三文籾拾三石六斗 大津村
潰家六拾八軒渡
金弐拾三両弐分永百九拾弐文籾四石七斗 中楯村
潰家五拾三軒大破壱軒渡
金弐拾九両壱分永弐拾五文四分籾六石四斗 極楽寺村潰家三拾五軒渡
(略)
金九両永五拾三文八分籾弐石五斗 町野田村
潰家拾弐軒大破壱軒
渡
金弐拾両壱分永百九拾三文籾七石六斗 下河東村
潰家三拾軒大破拾六軒
渡
金拾九両壱分永弐百拾四文六分籾五石七斗 成嶋村
潰家弐拾五軒大破七軒
渡
(略)
右寄
渡合籾百四拾八石五斗四升金五百六両弐分永弐百弐拾八文五分
(下河東・中沢剛貴家蔵)
右の史料により玉穂町旧村の村々の被害状況を知るこ
とができる。しかし残念なことに上三条村・下三条村・
一丁畑村・井之口村・西新居村の五カ村は、代官所の管
轄が違うため、この史料(石和代官所管内)からは、そ
の詳細を知ることはできない。
次に文化十一年(一八一四)成立の『甲斐国志』に記
載されている各村の戸
数を基準に、家屋の被
害状況をみてみたい。
○乙黒村の『甲斐国
志』(以下『国志』とす
る)の戸数は五十六戸
で、史料の潰家(全壊)
は「五十四軒」と記さ
れているので、その被
害率(全壊・大破)は
九六・四㌫に及び、ほ
ぼ全滅状態であった。
近隣の大津村(甲府市)
も八七・二㌫でこれ
に匹敵している。
○中楯村は『国志』
の戸数三十三戸で、全
壊五十三戸、大破一戸
の計五十四戸で、『国
志』の戸数を二十一戸
上回っている。これは
『国志』の成立以後(約
三十七年)、急激に村が
発展、戸数・人口増があったものと思われる。この村は
一〇〇㌫以上の被害率で、全滅状態であった。
○極楽寺村の『国志』の戸数は三十四戸。全壊三十五
戸と記され、全滅と思われる。
○町野田村は、六カ村の中でもっとも小村で『国志』
の戸数は十七戸で、全壊十二、大破一の計十三戸の被害
で、その被害率は七六・五㌫と高い。
○下河東村は、『国志』の戸数は八十五戸で、成島村に
次ぐ大村である。ここでは全壊三十戸、大破十六戸で四
十六戸の被害を出している。その被害率は五四・一㌫で
あった。
○成島村は六カ村中最大の村で『国志』の戸数は九十
五戸であり、全壊二十五、大破七の計三十二戸で、被害
率はもっとも少ない三三・六㌫であった。
六カ村の集計で、もっとも被害率の高かったのは、中
楯村・極楽寺村の全滅で、次いで九六・四㌫の乙黒村。
町野田村の七六・五㌫、下河東村、成島村と続いている。
六カ村の平均では、全戸数三百二十に対し、全壊二百九
戸、大破二十五の合計二百三十四戸で、被害率は七三・
一㌫と、驚くべき数字に達した。また、史料がないため
ここには記録されなかった玉穂町の他の旧五カ村も、同
様な被害に遭遇したことと考えられる。
この安政東海地震の「震度」については、すでに前項
安政東海地震の震害状況
村名
甲斐国志戸数
全壊
大破
被害合計
被害率
摘要
戸
戸
戸
戸
%
乙黒村
56
54
54
96.4
中楯村
33
53
1
54
100.0
極楽寺村
34
35
35
100.0
}実戸数は『国志』成立後、増加したものと思われる。
町野田村
17
12
1
13
76.5
下河東村
85
30
16
46
54.1
成島村
95
25
7
32
33.6
6カ村合計
320
209
25
234
73.1
で述べたが、改めて諸史料に記された被害状況を考察し、
再度、玉穂町の震度について相定してみたい。
玉穂町近辺は、笛吹川・荒川・釜無川に囲まれた、甲
府盆地では標高差のもっとも低い、しかも小河川を集末
する地盤の脆弱地帯である。このようなM八・四という
巨大地震に襲われた当町地域はひとたまりもなかった。
村々の家屋はもちろん、生活の根元をなす田畑の灌漑施
設である用悪水路の埋没、堤防の破壊などで田畑は冠水、
所々で降起・陥没し、玉穂町は「前代未聞」の大惨事に
見舞われ村民は貧窮のどん底に落とされた。
前述した気象庁の震度階級では、「家屋の倒壊が三〇
㌫以上に及び、山くずれ、地割れ断層などを生じるの
が、震度七」とあるので、玉穂町全域は、まさに震度七
以上の激震に襲われたことに間違いはない。当時の農家
の建物はひん弱で、現在の建築基準とはほど遠いものの、
被害率の六カ村平均七六・一㌫や、諸史料にみえる地盤
の隆起・陥没・用悪水路・堤防などの埋没は、それを証
明する見逃がせない事実である。
災害救済活動 次の史料は下河東・中沢剛貴家に残さ
れた「災害救済史料」であり、その一部を抜すいし読み
下し文とした。
(表紙)「御礼書調印書上帳 地震村々」
去る寅(安政元年)十一月四日、当国未曽有の大地震にて、
支配所(石和代官所)村々の内、民屋[数多|あまた]震れ潰れ、または
大破に及び貧窮のものども当日[夫食|ぶじき]にも差し支え、難儀[罷|まか]
りあり候に付き、
公儀御用途莫大の御時節も[厭|いと]いなされず、急場御救いとし
て、多分の御借(拝)欠カ金仰せ付けられ、有り難き御仁恵感伏[奉|たてまつ]り
候由にて、支配所村々の内、境村名主伴蔵親海蔵、西下条村
百姓理平(略)、四日市場村名主吉兵衛儀、籾・金差し出し、
救方いたし度き旨願い出で、奇特の儀にこれ有り、一体同支
配所内右様の災害これ有る節は、互いに[救|たすけ]合い申すべくは
当然につき、同様奇物の[志|こころざし]これ有り救い方いたし度き者こ
れ有らば、米・籾、金銭など何品にても多少によらず申し立
てべき旨申し触れ当て、精々申し[諭|さと]し候処、二日市場村長百
姓八右衛門(略)其の外有志のもの救い方追々願い出で候
分、前後合せて籾百五拾七石壱斗四升・金五百六両弐分永弐
百弐拾八文五分これ有るに付き、本潰(全潰)壱軒へ金壱両
永百弐拾六文・籾弐斗[宛|ずつ]、半潰(半壊)壱軒へ金弐分永六拾
三文・籾弐斗つゝ、其の余り家作大破の内[極|ごく]困窮のもの百八
拾五人へ壱人に付き銭三百文・籾壱斗つゝ、同壱人へ籾弐俵
割り渡し候処、一同[忝|かたじけな]く由にて、礼書差し出し候間、右
籾・金割渡帳相添え村々へ廻達[令|せし]め候条、奇特人どもへ見届
けさせ候様致すべく候、一体百姓ども返納相[嵩|かさ]み候者、子孫
まで[患|わずら]いを残し相続筋に[拘|かかわ]り不宜の儀は、兼て仰せ渡され
てもこれ有り候えども、今般の儀大災難の次第忍び見ず申
し上げ、過分の拝借金は仰せ付けられ[候得|そうらえ]ども、返納方如何
と勘弁中、幸い奇特人ども籾金高相成、右拝借金の内願いに
付き返納をも取り[斗|はから]い遣し、右残りの分夫々割り渡し候間、
返納高少なく相成り仰せ渡されの御趣意に相[叶|かな]い、百姓ど
も子孫の[患|わずら]いもこれ無く、農業相続も出来、且村役人共小前
返納物取り立て方手軽に相成り、彼是れ両全の為筋と、大度
これに過ぎず候、別冊受印帳へ村役人并救籾金差出候奇特
人も調印の上、比廻状早々順達、後留め村へ相返すべきもの
也
夘正月七日 森(森田)岡太郎
八代山梨郡巨摩
村々役人
(下河東・中沢剛貴家蔵)
この大災害で石和代官所管内の有志から、被災民への
「御救籾金」(救済籾金)、籾百五十七石一斗四升と、金
五百六両二分永二百二十八文五分が集められた。また幕
府も急場「御救金」(御拝借金)として被災者に多額の金
を貸し付けた。
この籾・金は、被災者のうち全壊一戸当たり、「金壱両
永百弐拾六文と籾弐斗[宛|ずつ]」が、半壊者には一戸当たり「金
弐分永六拾三文と籾弐斗宛」が、また、[極|ごく]困窮者百五十
五人へ一人に付き「金三百文と籾壱斗つゝ」が支給され
た(前掲史料と一部重複)。
この史料は、石和代官森田岡太郎が、あとがきに救済
金の経過・内容、その取り扱いについて説明、八代・山
梨・巨摩三郡の村役人にあてている。前文については重
複箇所が多いので掲載はさけたが、表題どおり、被災者
から救済者への御礼状と、両者の調印形式がとられてい
る。