[未校訂]富沢町域の被害 本町の被害、あるいは安政東海地震
を伝える史料として、楮根区聴法寺の過去帳、昭和七年
(一九三二)発行の『萬澤村誌』、富沢町役場所蔵の「地
震ニ付損地小前書上帳扣」(安政二年)、万沢中沢望月愼一
家所蔵の「地震潰家相見帳」(嘉永七年)同下宿吉田盈家
所蔵の「乍恐破損宛所以書付奉申上候」などがある。次
にこれらの史料の主要部分を抽出し、本町の被害状況に
ついて触れてみたい。
聴法寺過去帳の記録は安政二年のもので、次のように記さ
れている。
廊下庫裏ウラ通内椽手水バ三ケ所、新造庫裏客殿屋根替、安
政二乙夘土蔵去ル寅十一月四日四ツ時前代未聞之大地震ニ
テ潰候故柱根次(継)カ、余木者新造也、日瑞土蔵新道同様造之、客
殿杉戸格子障子金拾七両入ル、日瑞甲府信立寺安政六未四
十七才ニテ三月十五日入寺ス
この記録によると、安政元年十一月四日四ツ時(午前
十時頃)、本町域は前代未聞の大地震に襲われ聴法寺の土
蔵は全壊してしまった。そのため、同二年、ときの住職
日瑞によって土蔵を再建したというものである。この史
料も『甲州文庫史料』と同じように、地震の規模につい
て、「前代未聞之大地震ニテ」と表現している。『萬澤村
誌』には次のように記されている。
安政元年十一月四日、甲駿大地震あり、霜月四日より十五
日間やまず、此の時白鳥山崩れ長貫村迄土砂押し出し富士
川を一時せぎとめ万沢村迄湖水になれり(西行太右衛門君
許記録)。
聴法寺過去帳の一部、右の行に「前未聞」の大地震とあ
る。
安政元年十一月四日、駿甲大地震あり、駿河最も甚だし、此
の際白鳥山崩れ長貫村迄富士川の流域を塡(てんそく)塞し、下流之が
ため全く涸渇するに至る、已にして潴水一方を突破し滔
(とうてん)天の勢を以て直下奔流し、富士郡加島村宮島を衝きて海に
入る、於是岩淵中の郷蒲原一帯の西岸歩(ママ)茫々河原に変した
り(庵原郡誌)。越渡区上の山道大亀裂を生じ越渡山総崩れ
あらんかと心配せしは、此の大地震の時なりし、住民戸外に
起臥せしこと十五日間なりしと云ふ。
『萬澤村誌』は、『静岡県庵原郡誌』(大正五年刊)など
を引用し、安政東海地震の惨状を伝えている。地震の起
きた十一月四日から十五日間(十一月十八日まで)は余
震が続き、住民は戸外の畑・竹藪などに小屋掛けし起居
したという。
また、自鳥山(万沢村東方、現芝川町境標高五六八㍍)
の東斜面が大崩壊を起こし、その岩石や土砂は、富士川
左岸の長貫村(芝川町)に達し富士川を堰き止め、富士
川湖を現出し、その湖は万沢村まで達したという。その
ため富士川の下流は完全に干上がった状態となった。
しかし、富士川を一時的にせぎ止めた白鳥山崩落の土
砂堤防は湖の強大な水圧には耐え切れず、堰はいっきに
切れ、その流水は「[滔天|とうてん]の勢を以て直下奔流し」、下流の
富士郡加島村宮島を直撃し、駿河湾に流入した。またこ
の瀑流は富士川右岸の岩淵・中之郷・蒲原一帯を襲い、
茫々たる河原が出現した。
この地震で本町万沢越渡の上の山の道に大亀裂が生
じ、越渡山が総くずれを起こすのではないかと住民は心
配したという。古老の話では、今もその爪跡が越渡山に
残されているという。
『静岡県庵原郡誌』の記録は、次のとおりである。
安政元年ノ大地震 安政元年十一月四日、巳ノ時今ノ午前十時
頃、
大山岳ノ崩ルヽガ如キ大音響ト共ニ激震ハ起リヌ、而シテ
動揺ハ刻一刻ニ劇シク、家屋ハ見ルヽ倒潰シ、尋イテ火災ヲ
起シ、又沿岸ノ地ハ一帯海(かいしょう)嘯ヲ被り、人畜ノ死傷無算ニシ
テ、其ノ惨害ハ實ニ言語ニ絶シタリ、而シテ小震ハ十五日間
止マス、人民皆藁小屋ヲ作リ、或ハ竹林等ニ露宿シテ避難シ
タリ、故老往々当時ノ事ヲ説キテ嬾然タラザ(ママ)モノナシ。
安政四年大地震 安政四年五月三十日大地震。(略)
安政元年白烏山山崩 安政元年十一月四日、大地震ノ際白
鳥山崩壊シ、富士川流域ヲ塡(てんそく)塞ス、下流ハ之カ為ニ一時全ク
涸渇スルニ至ル、[已|すで]ニシ潴水ハ一方ヲ突破シ、滔(とうてん)天ノ勢ヲ
以テ直下奔流シテ富士郡長貫村ヨリ五貫島村、宮島村ヲ衝
キテ海ニ入ル、於是岸淵・中之郷・蒲原一帯ノ西岸ハ、茫々
タル河原ニ変シタリ、是後年ニ於ケル新開地トス。
潰家小前書上帳 万沢中沢の望月愼一家には、「嘉永七
年寅十一月、潰家小前書上帳」と標題した帳面一冊、「嘉
永七年寅十一月日、地震[潰家|つぶれや]相見帳、万沢村山方」一冊、
「嘉永七年甲寅十一月四日、地震損地相検帳」一冊が残さ
れている。この三冊はいずれも安政東海地震で全壊ある
いは半壊の家屋を調べ上げたもので、「潰家小前書上帳」
は、被害に遭った住民に小屋掛け料として、全壊者に金
二分、半壊者に金一分を救済金として貸し付けた、その
内訳を記載した帳簿である。
表紙には、「御代官荒井清兵衛様手代志賀広蔵様御廻村
ニ而御割渡シ相成申候」と記されている。次にその内容の
一部を記載する。
一潰家七軒
一半潰家八拾五軒
合九拾弐軒
内
三拾三軒 寺・村役人其外可成取続候者除之
一潰家金弐分 大城定兵衛
一同断金弐分 同所長治郎
一同断金弐分 中沢市兵衛
一同断金弐分 大城小兵衛
一半潰家九分三厘つゝ大城金壱分 勘兵衛
一同断金壱分 同安兵衛(以下略)
潰家四軒
金弐両也
半潰家弐拾八軒
金七両也
右[者|は]潰家小屋掛料、書面[之|の]通り[奉請取|うけとりたてまつり]候、以上
名主兵蔵
嘉永七年寅十一月廿七日
長百姓十郎兵衛
同断七右衛門
百姓代直吉
右之内梅嶋分ハ八軒名前ニ[御座候得共|ござそうらえども]忠治郎・文左衛門両
人差加[江|へ]拾軒ニ割合申候[右者夘ゟ子|みぎはうよりね]年迄十ヶ年返納
里方分
一潰家金弐分 上代兵左衛門
一半潰家金壱分 上代兵左衛門
一同断金壱分 越戸六左衛門
一同断金壱分 同忠治郎
一同断金壱分 同藤右衛門(以下略)
〆金七両也
この史料の冒頭の記録では、山方の[潰家|つぶれや]は七軒、半潰
家八十五軒の合計九十二軒と記されているが、小屋掛料
の請取者集計では、潰家四軒、半潰家二十八軒と記され
ている。この軒数の差については不明である。また、「地
震潰家相見帳、万沢村山方」によると、潰家として、定
兵衛・長治郎・喜平次・六衛門・市兵衛・小兵衛・七右
衛門の七軒が記されている。このうち喜平次・六衛門・
七右衛門の三軒が小屋掛料を請取っていないので、この
三人は、「[可成取続候者|かなりとりつづけそうろうもの]」の一員で自力で小屋掛けし
たものと考えられる。
この大地震のあった十七年前、天保八年(一八三七)
の万沢村山方集落の戸数は約百軒(望月小太郎家史料・
飢饉の項参照)であったので、「潰家七軒、半潰家八十五
軒、合計九十二軒」という数字は、山方集落の被災率九
二㌫を示すもので、前述した聴法寺過去帳の「前代未聞
之大地震ニテ」という表現通り、山方集落は壊滅的打撃
をこうむった。
万沢吉田盈家所蔵文書による万沢口留御番所の被災状
況をみると、口留御門・潜門・見張番所・居小屋などが
大破した。
また地震の被害は、関所施設のすべてに及び口留御門
は十年前の天保十五年(一八四四)に両柱の根継ぎした
箇所が損壊(碎痛)、屋根下の「ほぞ」も折れた。[潜|くぐり]門も
同様の被害であった。また、全体的に北方へゆがんだ見
張番所は、口留御門とは逆方向の南の方へゆがんだ。壁
は総対的に「大破」し、使用不能となった。また、仕切
戸・雨戸・障子の各二本が折枠・格子折などの被害をう
けた。居小屋は、総体的に西南方向へ傾斜(ひずみ)し、
裏側の柱のすべてが「[折砕|おれくだけ]」した。また、鴨居二挺、仕
切戸四本、雨戸六本、障子六本、壁などが損壊し、関所
の機能は完全に[麻痺|まひ]した。
福士村の地震史料 富沢町役場所蔵の安政地震関連史料
は左の七点である。
①地震ニ付損地小前書上帳扣(安政二年)
②地震小屋掛料拝借返納名前帳(安政四年)
③地震小屋掛料拝借返納名前帳(安政五年)
④地震小屋掛料拝借返納名前帳(安政六年)
⑤地震小屋掛料拝借返納名前帳(万延元年)
⑥地震小屋掛料拝借返納名前帳(文久元年)
⑦地震小屋掛料拝借返納名前帳(文久三年)
①の史料は、山崩・[崕|がけ]崩・欠落などによる田畑の被害
(損地)を「小前」(百姓)別に書き上げた調書である。
被害の及んだ地域は、「亀割・一小路・崩下・藤嶋・舟打
沢・赤め畑・前嶋内小村・上畑・まゝ下・中河原・宮脇・
南又・由淵・日影・はば」で、田畑合計六反二畝十五歩、
屋敷二畝十九歩が山崩などの被害に遭っている。この帳
面の末尾に次のような記録が残されている。読み下し文
とした。
右は去る寅霜月(安政元年十一月)大地震に付き、山崩・崕
崩・欠落に相成り候処、書面の通り相違ござなく候、以上
安政二年夘正月日
市川御役所
名主喜重郎印
長百姓源蔵印
百姓代猶右衛門印
②~⑦までの帳面は、地震で全壊・半壊(潰家・半潰
家)した者たちの「小屋掛料」として拝借した金の年賦
返済の明細帳である。返済は巳年(安政四年)から始ま
っている。拝借金は潰家に金二分、半潰家に金一分ずつ
が割り渡された。次はその内容の一部である。
(表紙)「安政四巳年十二月、地震小屋掛料拝借返納名前帳、福士村
名主
安政元寅十一月地震ニ付、拝借被仰付候分、当巳ゟ返納金
壱分ニ付永廿五文宛
一潰家金弐分 徳間大和
文三匁 当巳年分
一同断金弐分 同断松右衛門
文三匁 同断
一同断金弐分 小峠兵左衛門
文三匁 同断
◎三百三十弐文受取
一半潰家金壱分 徳間五郎左衛門
文壱匁五分 当巳分同断
一同断金壱分 同断忠次郎
文壱匁五分 同断
(略)
当巳年分
永七百七姶五文
〆四拾六匁五分
〆弐拾八軒
安政元寅十一月廿八日
金七両三分
荒井清兵衛様ゟ御渡ニ相成候ニ付、右名前人数江銘々割渡申
候
当巳年
永七百七拾五文ヲ右人数へ割也
この史料による福士村の被害は、全壊家屋は徳間で二
軒、小峠に一軒の計三軒であった。半壊は、御堂六軒、
徳間五軒、酉組三軒、池ノ山・鯨野・一小路・切久保に
各二軒、東組・竹ノ沢・石原に各一軒の総計二十八軒が
全半壊の被害をうけた。特に徳間は全壊二軒、半壊五軒
の計七軒の最大の被害をこうむった。
以上、本町に残された諸史料により安政東海地震によ
る本町の被害を概観したが、震源地に近い割に、国中地
方に比べて被害が軽微であったと考えられる。
続く大地の動乱 安政二年十月二日、夜に入って雨は
すっかり上がったが、雲間に見える星は妙に近く感じら
れた。江戸の住民の大半は、黒々と密集する屋根の下で
何も知らずに寝静まろうとしていた。
夜回りの拍子木が四ツ(午後十時)を告げる頃、芝に
住む弥八という魚屋は、悲しげに吠えながら着物のすそ
を引っ張る飼犬にさそわれて外に出た。おりしも海上か
ら、江戸の上空がにわかに明るく光るのが望まれた。
江戸直下の岩盤がついに大破壊を起こした。世にいう
「安政の大地震」、または「安政江戸地震」で、M六・九、
最悪の都市直下型大地震の発生であった。
小石川の水戸藩邸(現・後楽園全域)では長屋などの
倒壊で四十八人が死亡したが、そのなかに藩の最有力者
といわれた藤田[東湖|とうこ]と、戸田[蓬軒|ほうけん]の二人が含まれていた。
両人を失った水戸藩は、その後内部抗争が激化して、万
延元年(一八六〇)、桜田門外の井伊大老暗殺事件につな
がった(『大地動乱の時代』石橋克彦・岩波新書)。