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項目 内容
ID J3300248
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔豊富村誌上〕○山梨県豊富村誌編さん委員会編H12・3・27 豊富村発行
本文
[未校訂]三、安政東海大地震
 前掲した村入用夫銭帳の、嘉永七年(一八五四・安政
元年)十一月四日(陽暦十二月二十三日)の項以降に、
安政東海大地震に関する記事が次のように記されてい
る。
十一月四日
一大地震ニ付
御役所(市川代官所)江届ニ参る 賢次郎

一大坪様御出役
村方御見分
金壱分弐百文御家来(朱書)
右ニ付
一六百四拾八文 買物入用

一三百文 つりかきおみやけ
一夜ニ入御帰陣 市川迄御案内
八日
一河野様御出役 勘九郎
御堤通御案内、金六・平内
四日・七日、届書堤滅御見分願ニ付
一弐拾四文 紙代
十一日 地震ニ付日延ニ相成
一御役所江参る、源右衛門一件 勘助
十二日
一同断参る
地震ニ付、再置米願参る
注・「置米」は、村役人の扶持米、または村普請人夫の賃
米、あるいは備荒貯蓄米にあてるため、年貢のなかか
ら、村にそのまま留め備えておく米。
右ニ付
一九百文
さわら三本大坪様御掛リ遣候
廿一日
一地震ニ付村方見廻り 藤右衛門
四日ゟ八日、自分迄夜廻り
廿五日
一御(荒井清兵衛)代官様 御廻村郷継
小屋料拝借被仰付候
一五百文 上くわし弐箱
一茶屋へ 伝兵衛
一村内共、御帰陣(市川代官所)御案内
勘九郎・賢次郎・勘平・勘右衛門
一市川迄而人足 金六
一御見送り
同廿六日
一御普請役様 賢次郎
白井河原村迄而参る
一同、下曽根村 金六
御機嫌伺ひ参る
一壱分 蠟燭壱丁
一御案内、勘九郎・武八・勘左衛門・幸左衛門・七五郎・勘
右衛門・勘平・平内・藤右衛門
同廿七日
一御普請役様御見分、
御案内、賢次郎・勘平・甚右衛門
一右人足、高部村境ゟ大塚村持込、源助・十内・勘之丞・岩
左衛門・団七・弥惣次・宇八・孫右衛門・与兵衛・恵八
一場所人足・喜太郎・平右衛門
一七匁五厘、から松入用〆
内七分五厘大工賄入
一大塚村御機嫌伺ひニ参る 甚右衛門
夫平内
同廿八日
一御同人様大塚ゟ乙黒村御通行、野長(帳)御持参なく、くき打延
行ニ成る
同廿九日
一御普請役様、堤通りくき打
御案内、賢次郎・勘九郎・勘平・甚右衛門・金六・平内
一人足、七平衛・甚助
一金壱分 藤右衛門
地震ニ付半潰ニ付、村方ニ而助力遣し候
十二月三日
十一月廿八日分
一金弐朱と百七拾弐文
上女かも壱羽、扇屋ゟ取
是ハ、御普請役様御宿被仰付候得共、地震ニ付御宿御免
申上、下曽根村ニ御泊ニ成申候、右ニ付進上申上候
十二月四日
一四分
市川ゟ飛脚持廻し、潰家之儀ニ付御直御尋有之由、元〆
様ゟ郷宿被仰付候ニ付
十二月八日
一三嶌泰右衛門様、御代官替ニ御廻村、奇特人ゟ差出金、難
民共ニ被下候、
御案内、賢次郎・勘九郎・甚右衛門・勘平
十二月九日
一御役所江参る
潰家御拝借願ニ付、御延籾共ニ御免願ひ
 以上、安政東海大地震の記録のみを夫銭帳から拾い上
げてみたが、残念なことに被害についての具体的な記録
がないので、その全貌を知ることはできなかった。しか
し市川代官荒井清兵衛、その役人、御普請役らが廻村し、
被害の見分を行ったのは事実で、村役人や人足らがそれ
に対応し、救済を求める村民の心情がありありと読み取
れる記録である。また、文中に「堤滅御見分願ニ付」など
が見えることから、浅利川あるいは笛吹川の堤防が大き
く崩壊したものと考えられる(後略)
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 1255
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山梨
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