[未校訂](遠州大地震見聞記)2
一遠州大地震与申ハ頃ハ嘉永七寅十一月初の四日朝五ッ
半時冬の事なれハ朝風も無クして晴天ニ朝日の昇リ氷も解
□□流れたる処未の方よりゆれ来リ次第に強くなり
皆々迯出しほ茫う然として彳たり先近所見舞せんと廻り
段々見聞候処各和辺不残皆潰れの様子ニて林の芝原に
登り見渡し候得は早原川ハ潰家の中より炎火もへ出し
其外袋井の方其上山梨の方も烟り立誠に気鬼も消果た
り折しも未方にて雷の落たる如く鳴渡りたるより早々
ゆれ来リ男女泣わめき生たる心知(ママ)ハなかりけりされ共
岡津村之義ハ天の助によつて助り唯潰家二軒有之孫二
郎三之助所々火事も静りたれとも震事度々にて中々家
江入事不叶皆々戸〆致し家の側に莚をはり屋根を拵ひ
一夜明さんとせし所四日夜八ッ時とも思ひし比領家村
ニ火事発利右衛門宅り見へ共誰壱人行かんとせし者無之居たりし
に空に何やらん丈九尺斗り紅の如くに見へし物戌亥辰
巳之方に群れ是抔俗に□火の柱と申べしおそろしき
事と気も魄も消失たり一時も過次第に薄く成たり見し
者これに恐れぬ者ハなし明れハ五日地震ハ不止掛川袋井
辺不残焼失致し人死も夥敷有之由風聞有村方ハ格別の
事も無之共此故如何相成候哉与何の気□(色、カ)もなく近所の
見舞延引たゝ野宿用意而己いたしける時暮方に七ッ時成り西
の方雷の鳴行か如くニて地震来リ此上者何様ニ成やらん
と皆藪に入竹に取付生たる心知なかりけり格別の事もなく追々所々評
はんして袋井宿ニてハ凡七拾人余即死焼死たる其中に
て白木や杯者拾弐人の家内中拾壱人焼死壱人病身成家
の子壱人助り其外弐人三人死たる者へ夥敷木におされ
土蔵かへにおされ又者瓦にうたれ手足を木に押れ生な
から声を立焼死たり誠に目も当られぬ有様也掛川ニて
ハ二藤町高十分家幸八と申者家内産後にて夫者迯出し
所又立帰リて女房を出さんと掛入親子三人即死ス其外
色々の死後(ママ)有とも数多し事略ス凡百弐三十人木に押れ
ながら火事さかんに成助ヶ給へと呼声夥し火煙内ニ而死ス近郷皆潰レ
の村方原川領家徳泉貫名名栗久津戸袋井近郷不残高□
村者格別の事なし石野村者七分潰レ小原川不入斗辺ハ山
付にて助る留部にて三人死す黒田ハ助る領家出郷新家二軒潰外は助
る下垂木山付ハ助る田中ハ平地の分ハ不残潰れ長谷辺
ハ助る高御所ハ山付ニても大半潰れ掛川御城内西家中
ハ不残潰レ東ハ余程助る御城は半潰御天子ハ一□(志カ、志カ)ゆん
御城へ震落掛川東大釜町迠皆潰山端境にて東ハ助る山
手ハ不残助る浜辺ハ不残潰ル郡之内山付ハ助る浅羽辺ハ
不残潰岡﨑岡山柴村辺ハ三分潰法多山御仮堂潰レ御坊
主二王門ハ助る油山本堂塔助る篭屋樓内潰レ是ハ天保年中に新たに
建立の二ヶ所大工の手(抜、カ)貫か又ハ時節カ
駿河路ハ清水江尻かん原沼津三嶋焼
失ス西の方見付ゟ浜辺ハよし池田辺近辺不残潰レ川西
ハ上の方助る浜手ハ不残潰レ九日夜九ッ時と覚へし比西
の方闇ゟ早くゆれ来リ誠深更なれハ別におそろしく思
ひけり夫ゟ毎夜々野宿して夜の眼も寐すに十四五日野
宿致しけリ天の助か雨無之誠難有事共也村方夜廻リの
者八人ツヽ□切二人ツヽ村方ヲ廻リ平二郎屋敷のくろ
へ小屋かけし薪木置夜を過けり昔ハ七日七夜野に伏た
りと伝聞といえとも余所事のよふに思ひ又近年信州大
地震弘化四年三月廿四日夜四ッ時又嘉永七年六月十四
日朝正六ッ時勢州四日市地震にて宿中潰レ焼失シ悲歎
の苦ミ聞およふといへとも余所事と思ひ居リ何の用心
も無誠に人間は怠成者也と後悔ス其年十二月改元有て
安政元年となるも年も暮たれとも地震ハ未タ不止明れ
ハ安政二年卯正月初七日廿七日二月一日初午又々大ゆ
れ二度にゆれ
(注、以下各地の地震や洪水、大風等のことが記されて
いる、その内当地の地震に関する記事のみを記す)
廿(安政四年壬五月)二日夜明正七ッ半時大地震尤原川各和辺去夘年九月
廿八日地震位イ (中略)
六(安政四年)月少々宛地震 (後略)