[未校訂]二 善光寺地震
震災の状況
弘化四年(一八四七)三月二十四日夕五
ツ時(午後八時ごろ)、突如としておきた
大地震につき、浅野村正見寺住職はつぎのように書きし
るしている。
大地震にて大地一時に持ちあがり、家居が即座に圧し潰
された拙寺では庫裏が丸潰れ、そのほか廊下や護法閣が
潰れた。本堂は裏どおりの地形が二尺余(約六〇㌢)下
がり、大いにかしがった。鐘撞堂は柱がぬけ、まさにひっ
くりかえるばかりの状態になった。また、石垣は一〇カ所
余もこわれた(後略、資料二―一九二)。
これが、震源地を善光寺町(長野市)の西方山中とす
る推定マグニチュード七・四の善光寺地震(弘化地震)
の始まりで、地震の範囲は北信を中心として越後高田(上
越市)から中信・東信におよんだ。また、地震にともな
う地滑りも各地に発生した。以前から善光寺町の西部に
連なる山中は、地滑り地帯として知られているが、この
ときも四万数千カ所で発生したといわれる。その最大の
ものは、犀川右岸の更級郡山平林村と安庭村(ともに長
野市)にまたがる虚空蔵山(岩倉山)で、山の両角が崩
落し、岩石・土砂・樹木が犀川に落ちくずれ、その流れ
表Ⅲ―75 善光寺地震柏原宿の被害一覧
No.
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
名前
中村六左衛門
徳左衛門
喜左衛門
半左衛門
源左衛門
太兵衛
兵左衛門
与右衛門
九市
丈三郎
多十郎
弥兵衛
八右衛門
庄兵衛
与三郎
弥吉
栄作
与助
太内
竹四郎
清吉
与三太郎
藤作
政吉
喜三郎
専吉
弥五右衛門
要吉
とよ
弥左衛門
又蔵
嘉右衛門
しを
源九郎
清右衛門
民吉
彦五郎
次郎左衛門
孟蔵
れの(作右衛門)
利兵衛
新次郎
利八
寅之助
やを(一茶)
豊五郎
小右衛門
明願寺
善左衛門
重右衛門
家族
16
22
9
7
6
12
12
6
5
7
7
3
3
7
6
5
6
6
5
3
3
5
7
11
4
13
5
4
1
7
4
8
2
11
3
5
9
5
7
3
2
6
6
4
2
6
4
11
2
2
持高
39.259石
67.089
3.809
1.675
4.553
19.944
26.172
9.788
15.704
2.604
2.446
14.180
14.664
1.907
2.274
0.880
0.561
0.255
2.673
1.476
3.472
0.274
4.038
2.271
1.263
1.844
5.912
1.326
無高
0.560
0.738
9.006
1.232
8.726
6.746
1.616
0.350
3.299
1.220
1.403
0.790
1.188
2.552
無高
2.662
1.299
3.415
3.738
9.657
0.902
身分
本陣・問屋
名主
年寄
組頭
〃
〃
御伝馬屋敷百姓
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
居宅
■14.5間×9間
■3.5×6
■6.5×9.5
■12×8
■8×4.5
■13×7.5
■4.5×10
■3×5
■7.4×6
■4.5×6
■8×5
■4×2.5
■6×4.5
■6.5×5
■6.5×4.5
■5.5×7
■3.5×7.5
■6.5×4
■6×3.5
■6×5
■7.5×4.5
■9×5.5
■4×2.5
■4×2.5
■3×3.5
□6.5×3.5
■7×3
□4.5×2.5
□4.5×6
□6.5×7.5
□5.5×4.5
□6×4.5
□4.5×6.5
□4×3
□3.5×5
□4.5×5
■庫裏10×6
■12×6
■5.5×4
土蔵
●5 間×3間
●9×2.5
●8×3●5×3
●8×4.5●6×4.5
●4×2
●10×2.5
●8.5×3
○3×2
●5×3
●3×2.5
●3.5×3
●3×2
○3×4
●2.5×3
○3×2.5
○4.5×2.5
●7×2.5
●5×2.5
物置
▲5間×2間
▲3×2
▲5×2.5
▲4×2.5
△7×3
▲3×2
▲3.5×2.5
▲2×1.5
▲4×3
▲3×2
▲
▲6.5×2.5
▲5×2.5
▲4×2
▲7×2.5長屋
▲4×3
▲5×2
▲3×2
▲6×2
雪隠
×
×
×
×
×
×
×
×
×
×
×
×
×
備考
即死 利惣次
死馬 2匹
即死 甚之丞
即死 太助・くの
即死 きた
即死 喜太郎
即死 伝作
即死 広吉
即死 ろく
死馬1
死馬1
即死 いま
建足全壊2.5×2
No.
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
名前
三五右衛門
直七
藤七
作之助
瀧蔵
八十吉
惣四郎
きわ(惣吉)
此右衛門
うた
良右衛門
権八
弥左衛門
七左衛門
長八
長三郎
吉次郎
惣太夫
代五郎
勝三郎
きせ
明専寺
村中
家族
5
6
6
1
3
6
9
4
7
2
3
7
6
6
5
4
8
7
7
6
1
7
持高
0.407
3.574
1.819
0.280
無高
0.658
1.986
0.814
0.939
無高
5.860
2.440
2.544
0.842
6.801
0.496
2.022
3.941
1.705
5.606
5.579
2.189
身分
御伝馬屋敷百姓
〃
御高地屋敷百姓
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
居宅
□6.5×3.5
□5.5×3
■8.5×5
■5×3.5
■6.5×3
■9.5×4.5
■7.5×4.5
■4.5×3.5
■5×3
■2.5×2
■5×3
■8.5×5
■6.5×4.5
■7×4
□8.5×5.5
□5.5×3
□5.5×3
□5.5×4.5
□5×3
□本堂12×12
□庫裏15.5×7
土蔵
●3.5×2
○5×2
□郷蔵4.5×2.5
物置
▲
▲4.5×2
▲4.5×2
▲3.5×2.5
△4×3
▲2.5×2
雪隠
×
×
備考
死馬1
死馬1
即死 惣吉
即死 しか
即死 清吉
死馬6
注 ■居宅全壊 ●土蔵全壊 物置全壊 ×雪隠全壊
□〃半壊 ○〃半壊 △〃半壊
「地震潰家其外巨細取調帳」(中村英雄家文書)より作成
表Ⅲ―76 善光寺地震柏原村の被害
集落
柏原
大久保
赤渋
熊倉
仁之倉
合計
被害
全壊
半壊
全壊
半壊
全壊
半壊
全壊
半壊
全壊
半壊
全壊
半壊
居宅
40
17
11
2
3
5
6
4
36
18
96
46
土蔵
15
7
1
2
1
3
21
8
物置
23
2
4
5
5
6
43
2
雪隠
15
8
8
7
26
64
即死
13
男 8
女 5
6
男 2
女 4
11
男 4
女 7
3
男 1
女 2
6
男 3
女 3
39
男 18
女 21
死馬
12
3
3
18
被害者数
431
男 214
女 217
79
男 35
女 44
71
男 34
女 37
54
男 29
女 25
271
男 137
女 134
906
男 449
女 457
備考
御殿全壊1、門塀全壊1
酒蔵全壊2、本堂全壊1・半壊1
郷蔵半壊1、庫裏全壊1・半壊1
本堂客殿半壊1
建足門塀全壊1
高札場全壊1
庫裏全壊2
建足全壊1
注 「地震潰家其外巨細取調帳」(中村英雄家文書)より作成
を堰きとめてしまった。その結果、犀川の下流は干あが
り、飯山町(飯山市)近辺の千曲川でも徒歩で対岸の木
島まで渡れるほどになった。いっぽう、上流では堰きと
められた水が、日々その量を増し、六~七里(二四~二
八㌖)のあいだが湖水のようになり、押野(東筑摩郡明
科町)にまでおよぶ巨大なダム湖ができあがった。
この地震による最大の被害地は、三月十日からの御開
帳で、全国の善男善女が集まっていた善光寺町であった
が、激震地帯にはいる飯山領・松代領の被害もまた大き
かった。飯山領では、城内各所や藩士の居家の破損があ
り、城下町の民家などの倒壊や焼失があった。飯山町の
即死者は三〇〇人である。城下以外の在郷では一一一一
人の死者、馬・牛の死失二三七頭のほか、居家・土蔵・
物置・郷蔵・水車小屋などが倒壊し、各地の用水堰も破
損した(県史⑧五七〇)。
ここ浅野村では、即死者が三六人ほどあり、丸潰れ居
家が三八、九軒生じた。大倉村では、とくに破損した家
はなかったという(資料二―一九二)。蟹沢村の震災につ
いては、死者一四人、死馬一匹のほか、潰れた家屋は居
宅四五軒、物置・土蔵三四軒、社三カ所、不動堂一カ所、
鐘堂一カ所、庫裏三カ所となっている(県史⑦一九四六)。
南郷村では、居家二三軒、土蔵・物置など二六、七軒
が丸潰れ、八人ほどが即死した。田子川の川下の三才通
りでは、三〇間余(約五五㍍)が土手なしになった(資
料二―一九四)。
中尾村の名主の記録には、「当家の居宅はもちろん、土
蔵・長屋・物置ものこらず潰れ、母と末っ子の妹親子が
座敷でふせ寝していたが、そのまま横死してしまった。
私は潰れ屋の下からはいだして、かろうじて無事であっ
た。(中略)翌二十五日の朝は、村中が食事に差しつかえ
たので、私共は白米を俵にしてだし、それを炊き出しに
あてた。また、横死者の家を掘りだして八ツ時(午後二
時)ごろ、裏の山で土葬に付した。また、西脇大松の北
西に二間半・五間ほど(約二・五㍍×五㍍)の堀立小屋、
その続きへ四間に三間の物置をたて、家財をここに入れ
て、五月二十三日から普請を始めるにいたった」とある
(資料二―一九三)。
このように、豊野町域の村々の地震災害による被害は
大きかったが、なかでも千曲川の沖積地で地盤が弱い千
曲川ぞいの南郷・石・中尾・浅野・蟹沢などの諸村では
被害が大きく、山寄りの大倉村などでは格別の被害はな
かった。
いっぽう、犀川上流にできた堰きとめ湖は、いつかく
ずれ落ち下流に甚大な被害をもたらすことが予想され
た。そこで松代藩は、犀川の川幅の掘りひろげ、新しい
川除土手の築造、従来の土手の補強などをおこなってい
たが、ついに四月十三日の夜、堰きとめ湖から水がいっ
きょに流れだした。その状況を南郷村の名主はつぎのよ
うに書き留めている(資料二―一九四)。
千曲川の下流域一帯をおおい、五ツ時・長沼・赤沼一面を
洪水と化し、南郷村の水門をこえて神代村・中尾村より水
五、六尺も高くなり、一度に熊取川水門の西で一五、六間
ばかり水門を押しやぶった。また、田子川・浅川も二、三
カ所押しやぶり、たちまち南郷村の川崎・中村・入川一帯
を水と化した。
そのさい、拙宅台所まで水がはいり、新蔵坊ひかえ土手
までの綿畑に残らず浸水した。そこへは、材木・桶・挽臼
や諸道具がおびただしく流れついた。(中略)また、信叟
寺の東がわ一帯にも材木がおびただしく流着した。水内
郡西条村(長野市浅川)の西薬師山の土砂も押しだし、浅
川の二〇間余の土手も押しきられ、南郷村の平坦地も大
海となってしまった。その後、片付けの三〇日間は潰れ屋
か小屋掛けの生活で生きた心地は全然なかった。(中略)
当村の東側の田は、浅川へ砂を大量に押しだし川床は高
くなり、田はみな池になってどうしようもなくなった。そ
こで、赤沼・石の両村へ談じ、上浅川の赤沼・石・南郷の
三カ村は砂が付き寄せた場所を掘りあげて、ようやく田
植をしたが、その年の秋の収穫はようやく八分位で、人々
は難渋の年越しをした。翌年も田はまた池になってしま
った(下略)。
このように、善光寺地震は、人命・居家などに大きな
損害をあたえただけでなく、田畑などにも大きな後遺症
をもたらした。秋の収穫が思わしくなかったことは、よ
り困難な立場におかれていた小作農に端的にあらわれて
いる。たとえば、浅野村の勝之助と新吉は地主島津勇左
衛門にたいし、小作籾六俵と四升七合、代金にして二両
一分と銀四匁七分九厘の四月までの延納を願いでている
(資料二―一九九)。
なお、弘化地震の二次災害ともいうべき湛水湖の決壊
は、千曲川下流域に大満水を引きおこしたが、このとき、
洪水に襲われた村々から千曲川へ大量の品々が流れだし
た。南郷村に流れついた品々をみてみよう。
まず乳幼児の頭を保護する子ども用の帽子や夜具・布
団など。家具・建具類では、簞笥・茶簞笥・行灯・障子・
出窓格子・雨戸・門口戸・蔵土戸・雪隠戸など。勝手道
具では、箱膳・膳箱などが多数流れついた。生活用具類
では、炬燵・畳また煙草盆・煙草入れもあった。炬燵は
すでにこの時期、冬季の暖房として使用されはじめてい
たし、畳も相当に普及していたものと思われる。臼類で
は、すり臼・たち臼・つき臼・つがつるす・まつするす
など多種多様であった。運搬具では、しよいこ・たつぼ・
こいおけ・かつぎ棒・ひきびじゃくなど。容器類では、
桶にかるおけ・こおけ・てかけ・ておけ・たるおけなど、
樽にしょうゆ樽・たまり樽。ほかにかめ・てんこ・はん
ぎり・きりこみなどがあった。幕末近い近世後期の衣食
住生活の水準がありのままにあらわれている。産業、生
業の進展をうかがわせる物品も多い。
農機具類では、稲扱き(千歯扱き)や大豆・麦などを
たたきつけて脱穀する「うたの」があり、鋤鍬類では、
えん鍬・えん鍬鋤などがある。また、養蚕が盛んとなっ
たことを裏づけるものとして、蚕かごが六〇枚余流れつ
いた。木綿栽培の盛行を反映するあか綿・くり綿・つぶ
綿・どきもの綿・木綿綿などもあった。
宗教的なものでは、如来・仏や天神の掛け物、浄土宗
の位牌・数珠・蠟燭台などが漂着して庶民の信仰生活の
一端を示している。
流出主の判明するものとして、小市(長野市芹田)や
里村山・小島(同柳原)、福島新田(同屋島)の各村のも
のがある。小市村はともかく他の諸村は南郷村の近隣で
ある。村人は、これらを丹念に拾いあつめ、持ち主が判
明するものは、一つひとつ送り届けた。持ち主不明のも
のは、おそらく拾い主の所有に帰したものと思われる(金
井清敏「弘化地震の満水拾い物書留帳」)。
飯山藩の救済策と村民の災害復興
地震地帯とくに激震地帯の諸藩
は、その復興に頭を悩ませた。さ
しあたり、飯山藩では応急措置として家中・町方のもの
へ三月二十五日から四月三日まで、一日に三度ずつ施粥
をおこない、さらに格別の困窮者には、四日から続けて
救済をはかった。いっぽう、飯山城下の米屋なども施粥
にのりだしていたが、これらの応急策では焼石に水であ
った。
藩ではあらためて、本潰れものには金一分、半潰れも
のには金一朱の御手当金をだし、急場をしのごうとした。
しかし、これだけでは被災者を救済することは困難であ
り、四月二十二日にいたって幕府に一万両の拝借金を願
いでて、三〇〇〇両の貸し渡し金があった。なお、須坂
藩には一五〇〇両、松代藩には一万両の貸し渡し金があ
った。
さて、さきに述べたように豊野町域の各村々では、大
倉村などを除いて大なり小なりの被害があった。神代村
では、皆潰れ家数が四〇軒、皆潰れと半潰れ家数のあい
だの被害家数が一七軒、半潰れが七一軒あり、五月これ
ら全体に三〇両一分が、西組・町組・横町など組別に飯
山藩から支給された。柳原寺と正伝寺へは藩が直接御手
当金を下付した。おなじ五月、蟹沢村の本潰れのもの四
三人へは一分ずつ、半潰れのもの二五人、また半潰れの
龍沢寺・持専寺・大乗院の三寺へ一朱ずつ、全村で一二
両二分が下付された。町域の他の村々にも金子が下され
たはずである。なお、神代村では、村内にあった穀留め
御番所の建て替え御普請をおこなった。そのさい、大工・
佐官などの手間賃の金三分・銭二〇貫九〇八文や、土台
六丁、三寸五分(一〇・五㌢)の角の九尺柱(二・七㍍)
一九本、七尺柱五本、三寸五分×四寸五分の桁七丁など
の木品を藩へ下付するよう願いでている(資料二―一九
八)。
藩の下付金などでは、被害家庭にはほんの足しになる
にすぎず、各家では、自力復興に全力を傾けざるをえな
かったが、急騰する材木代や手間賃、米穀の騰貴など、
復興をさまたげる要因が山積みした。これらをはねのけ
て復興するには長い年月を要した。たとえば、蟹沢村で
は、大地震の二年後の嘉永二年(一八四九)四月、四七
軒中「家作仕り候もの」は二八軒、仮宅九軒、小屋掛け
一〇軒であると、藩に書き上げている(蟹沢区有)。二年
後の段階で、家作できたものは約六〇㌫で、あとの四〇
㌫は仮宅や小屋掛けであり、このなかで何人のものが
家作にこぎつけえたであろうか。
また、同じ飯山領で、石村に隣接する吉村(長野市若
槻)では、大地震後の荒れ果てた田畑の復興がなかなか
すすまず、嘉永三年十月にいたって、ようやく村内でつ
ぎのような開発の和談証文がとりかわされた。①起き返
り新田へ仕付け(田植え)をするときには、お互いに苗
を融通すること。②そのさいの用水は、余水か、最寄り
もよりで溜めておいた水を利用して、本田用水へは決し
て支障をきたさないようにする。③番水のときは、村役
人が世話をし、睦まじくおこなうこと(県史⑦一九四八)。
このようなことは、豊野町域の村々においても大なり小
なり、また、遅かれ早かれおこなわれたものと考えられ
る。
この震災と洪水のために、住居の移転を余儀なくされ
た集落もあった。神代村田中組は、江戸時代中期まで現
在の豊野駅付近から東町付近にかけて二〇戸ほどの集落
であった。しかし、洪水被害をうけやすいところであっ
たから、一八世紀末には数軒の福沢氏が小瀬へ移転した。
それ以後も残りの住民のうちには、「どこかに適当な水つ
きにならない場所があれば住居を移転したい」とつねづ
ね考えていた。しかし、移転には経費もかかることから、
踏み切れないでいた。ところが、この大地震で家も井戸
も潰されてしまい住めなくなったので、伊豆毛神社の北
側の地へ移転することになった。この事実についてはこ
れまで伝承だけで証拠はなかったが、このたび移転願書
の下書きが見つかったので、その全文を掲げる(善財隆
氏所蔵)。
恐れながら書付を以て願い上げ奉り候御事
名所出雲宮浦一 中畑二畝一歩 当村願人吉左衛門
同所一 中畑二十七歩 同断仁左衛門
同所一 下畑一畝三歩 同断孫右衛門
同所一 下畑二十一歩 同断吉右衛門
同所一 中畑一畝五歩 同断重左衛門
同所一 下畑十六歩 同断弥肋
〆
右は当村枝郷田中と申す処に住居仕り来り候へども、右
場所一体窪地ニて、先年より満水の砌たびたび居宅まで
水押し上げ、難渋仕り候ニ付、相応の場所見立て候わば屋
鋪替え仕りたく、年来心掛け罷り在り候得共、差し当たり
普請仕り候儀難渋ニ存じ奉り、これまで見合わせ罷り在
り候処、去る三月大地震ニ付、居宅ならびに井戸まで寄り
(揺り)潰れ、当時住居出来がたく候に付、前書の場所へ
屋鋪替え仕り、追て家作普請仕りたく願い上げ奉り候、な
おまた同組合の内六人高地の場所に御座候に付、元屋鋪
に住居仕りたき段願い上げ奉り候、何とぞ御慈悲を以て
御見分の上右願い上げ奉り候通り仰せ付け下し置かれ候
わば、一同有り難き仕合せに存じ奉り候、以上、
(年月と宛て名なし)
右のように、田中組の一二軒のうち六軒だけが伊豆毛
の地へ移り、残りの六軒は高地で水害の心配がないので
現地に居残ることになった。移転した家は嘉永年間(一
八四八~五四)に仮住まいをつくり、その後明治初年ま
でに本格的な家作りを終えたようである。なお、残った
六軒の何軒かは、明治十九年(一八八六)の豊野駅新設
工事にともなってやや東へ移転した。
一連の善光寺地震の情報は、善光寺参詣人が全国に持
ち帰ってひろがり、江戸では早くも四月、瓦版がだされ
たという。地元善光寺町でも瓦版が出されたもようであ
る。また、やんれえ口説節で説かれる地震哀話の瓦版も
多くだされ、人びとの同情をさそった。