Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3300119
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔村誌さかきた 下巻(歴史編・近現代編)〕H9・3・31坂北村誌編纂会編発行
本文
[未校訂](三) 善光寺大地震
 江戸時代、信州で最も大きな地震は弘化四年(一八四
七)の地震である。震源地は、善光寺町の西方山中で、
北信を中心に越後高田(現、上越市)から中信、東信に
およんだ。震度はマグニチュード七・四と推定されてい
る。激震地は、北は飯山から南は稲荷山、東は松代から
西は山中(上水内郡鬼無里・中条・小川村)の一帯で、
とりわけ、御開帳でにぎわっていた善光寺町の被害はこ
とのほか大きかった。地震のニュースは、善光寺への参詣人によってまたたくまに全国に広まった。この地震は「善光寺大地震」とか「弘化大地震」
とかいわれる。
 三月十日から始まった善光寺の御開
帳は多くの参詣人でにぎわっていた。
二十日ごろからときどき小地震があ
り、地震の前ぶれはすでにあったが、
それにもかかわらず善光寺はにぎやか
さを加えていた。大地震当日も万燈の
灯がともり、山内および町内は諸国近
辺の参詣人でごったがえしていた。
 三月二十四日午後一〇時すぎ大地震
表Ⅰ-24
七二会
中条村
小川村
大字鬼無里
家屋被害%
(埋没・全壊・焼失)
416(60)
412(34)
256(24)
33(7)
死者(%)
167(24)
342(17)
92(8)

はおきた。余震はやむときなく、夜明けまでに二〇〇回
余もあり、翌二十五日も朝から強震が断続的に襲った。
 麻績町村の一人はそのようすを次のように記録してい
る。
大地震大雷の如く、寺院并市中一度に揺潰し闇夜とな
り、程なく数か所より出火、大火となり家毎に泣きさ
けぶこえ天地にひびき、無難にて逃げ出たる者は父母、
妻子、兄弟を助けんと艱苦をなし、火を消さんとする
ものもこれなく、銘々野田へ逃出し、ただ忙然たるあ
りさまなり
 地震による家屋の倒壊と火事による被害をある記録
は、「火事は二日二晩燃え続けた。仁王門や堂庭の小間物
店や茶屋、むしろ張りの見せ物小屋類ものこらず焼失、
町屋は横沢町をのこしてほとんど焼け、その数は二二〇
〇軒、潰れ家は一六〇軒、死者は寺中・町内でおよそ一
四〇〇人ほど、旅人の死者は一〇二九人」と伝えている。
 江戸馬喰町の吉田屋小吉は「町も城下もその在村も、
あまた潰れ家その数知れず、大地裂けては煙が上がり、
夜も昼とて分かちはなくて、親子手を引き逃げよとすれ
ば、割れめ割れめへ落ち死ぬばかり、泣けど叫べど仕方
もなくて、さても恐ろし哀れ話、やんれい〳〵」と『信
州地震くどき』の地震哀話の瓦版を出した。
 この地震は善光寺町の西部につらなる山間地、すなわ
ち西山山中の地すべりも引きおこした。この地は県内屈
指の地すべり地帯なのである。虫倉山や虚空蔵山の地す
べりは大きな被害をもたらした。虚空蔵山は犀川に落ち
くずれ、川の流れをせきとめてしまった。せきとめられ
た上流は、日増しに水かさが増し、湖水は安曇・筑摩両
郡へと広がり、押野までおよぶ大湖水となった。虚空蔵
山は別名岩倉山ともいう。
 日に日に水かさを増す大湖水、犀川へ流れ込む支流を
もっている地域はいつ支流の水が逆流し氾濫するか、恐
怖と不安な生活が続いた。おそらく当地方もそうであっ
たにちがいない。松本城下町の商人が不安な心境を日記
に書きとめているくらいだから、まして犀川へは山ひと
つ隔てたところに位置する当地方にとって、その恐怖は
ことのほか大きかったろうと思われる。
 四月に入り八日、九日の大雨があった。このため大湖
水は切れ、濁流はいっきに川中島平へと押し寄せた。こ
の激流は下流の村々九七か村を押し流し、一万八〇〇〇
人あまりを溺死させたという。
 当時善光寺御開帳に参詣する人たちの往来でにぎわい
をみせていた善光寺街道は地震や地すべりのため不通と
なった。多くの参詣人は途中で引き返すことを余儀なく
された。また、災害からやっとのことで脱出した人たち
もなんとか帰国することができた。松本藩は善光寺から
帰国する旅人のために、宿屋・旅籠代を下値にすること、
無賃のものも泊めるよう触れをを出し旅人への便宜をは
かり、救済にあたらせた。銭や金子などを帰国するもの
たちへ与える心あるものもなかにはあったという。
 大地震以後も余震は続き、人びとはいざというときに
逃げ出せるように庭などに小屋がけをし、夜はそのなか
で寝泊まりをした。そうした不安な生活が地震鎮静祈願
などの神社詣でをうみ出し、また鎮静を祈る日待などが
行われた。一年後の三月二十四日には地震一周年で神心
祭りをするところが各地でみられた。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 972
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

検索時間: 0.001秒