[未校訂]八 災害と一揆
弘化大地震
弘化四年(一八四七)三月二十四日夜亥の刻(午後十
時ころ)、信濃から越後にかけて激しい地震がおこった。
震源地は善光寺の西山中、虫倉山付近だったらしく、激
震区域は、北は越後高田より南は上田に及ぶ延長一一〇
㎞、幅三二㎞ほど、そのうち最も激しかったのは、北東
は飯山から南西は稲荷山に至る間および更級・水内両郡
の西山山地で、延長約四八㎞、幅約一〇㎞ほどであった。
この地震で最大の被害を受けたのは善光寺町であった
ので、この地震は俗に善光寺大地震と呼ばれている。こ
の年三月九日から善光寺開帳がはじまり、諸国から参詣
者が多勢入りこんでいたので、死者が多く、寺領のみで
町民一四〇三人、旅人一〇二九人が死んだ。
この地震の被害は犀川・千曲川左岸に多かった。虫倉
山系地域は、この地震の震源地でもあり、しかも不安定
な地辷り地帯なので、各地で地崩れをおこし、大きな被
害を受けた。松代藩士の視察によると、虫倉の山系地域
の被害は表Ⅰ―23のようであった。(虫倉日記)
この役人は、各村々の被害につき、左のように報告し
ている。(視察は柵地区から山田中・陣場山・虫倉山中腹
を経て、椿嶺から土尻川流域を下っている)
「志垣・[追通|おつかよう]・下祖山・栃原等(現戸隠村柵)では、毎
年和紙を作り、善光寺町から商人が来て買集めて行くの
が習いになっており、各村一年に七、八百両から千両の
現金収入があるのだが、震災のために善光寺商人が買出
しに来なくて困っている。この辺には小部落が多く、他
村への通路が崩れて山中の離れ島のようになっている部
落もある。(中略)
山田中村(長野市小田切)は最もひどい大抜けで、人
家は下の沢に崩れ落ちてかたまっている。
(以下小川村まで松本史氏が「長野」(一二六号)に発表
した「土尻川流域の被害」による)
長野市七二会地区
坪根村 虫倉山の直ぐ麓で、山が抜け落ち沢々へ押し下
し、田畑の被害も多く、建っている家は五~六軒のみ
である。
倉並村 山上より一時に大岩が押し懸ったと見え、居家
其の外跡形もなく押し埋ってしまった。凡そ長さ十二、
三丁横三四丁も抜け、その下方に五軒だけ残って住居
している。抜けた所より三四丁の瀬脇村分地を借り小
屋掛けして住んでいる。抜け所の上にも地割れが出来
ているので、何時崩れ落ちるかわからないので心配し
ている。
五十平村 大抜けの場はないけれども所々に抜け崩れが
多く、居家の辺りも地割れが多く、地割れの内へ入っ
てしまって屋根ばかり見える家も多い。他村では余り
見聞しない惨事である。
橋詰村 大抜の所はないが所々抜けた所が多く集計すれ
ば倉並村にも劣らない有様で、上組三十軒の処、全部
潰れ、用水にも苦労している。
岩草村 抜けた場所は甚だ多いが、大抜の場所はない。
大安寺村 当村は荒所潰家も少ないが、土尻川の橋が落
ち、隣村への交通に差支えている。
笹平村 農家が少なく商売の家が多く一時は困難したが
追々仮小屋を構え、店も開き、小間物・荒物・肴・茶
菓子等を商売して難儀をしのいでいる。
瀬脇村 抜け崩れも所々に多く、犀川端田畑の流失も多
く難儀している。
現中条村
念仏寺村 下組は格別に抜けた所もないようであるが、
上組は岩草村から続き臥雲院まで道筋が全部抜け落
ち、麦畑の抜け崩れた処を漸く往来している。名刹臥
雲院は寺地がそっくり大穴の如く杉立の処より一円に
抜け下り、大門の処は敷石、入口、庭の形も別に変り
なく、そのまま七・八十間も抜け下った。大門の下の
田畠も大抜け下り、上組の村家もここに溜っている。
梅木村 抜けた処も多く田畠の荒所も多いが道筋の大荒
難所はない。(下組の死者二十人中、十五人は押死、一
人は臥雲院で畳指し、二人は笹平で大工をしていて死、
二人は善光寺町で死)
地京原村 虫倉山八分目程の処より抜け崩れ、藤沢組の
方へ一円に押し落し、十八戸の全戸が跡形もなく埋没
し、家諸共八十人程が押し埋り、生存者は一名もなく、
全面荒野の如く道型も全くなく、畑も七・八十石の場
所抜け落ち、三・四十石程の所を残し、深谷を押し埋
めてしまった。
伊折村 太田部落は、虫倉山の白崖と呼んでいる所の大
岩磐が崩れ落ち、凡そ十二三丁も押し落し、横巾五丁
の間一円大磐石により一気に十一戸全戸が土中に呑ま
れ、家族五十人程が死亡し、生存者は一名もなく、し
かも死骸は全く見ることが出来なかった。家のあった
跡らしい処へ石を並べ、藩から頂いた塔婆を立てて有
難がっていたが、誠に哀れな有様であった。道型もほ
とんど無く、この跡耕地には成り難く、容易に復興も
出来難い有様である。
奈良井村 潰れ家も多くあるけれども、田畑格別の損所
はなく、出抜けも格別には無く、荒所も軽いようであ
る。
中条村 田畑所々に崩れた処があるが、格別の大抜けは
ない。
青木村 田畑荒所格別にはなく、潰れ家も中条村より軽
い様子である。もっとも土尻川湛り水入の場所もあり
難渋している。
専納村 この村は片下りの傾斜地ばかりの村で平地が少
なく、抜け所も多く、耕地大半抜け落ちた様子で、近
村の内では最も難渋しているらしく、道路も難場にな
っている所が多い。
長井村 犀川の水押し、山抜けで田畑の損所も多いが、
麦作は相当に収穫される様子である。
五十里村 当村は格別の大抜けの場はないけれども、一
統に抜け下り、麦作など多分減収になりそうである。
殊に同村の内一ノ瀬組は土尻川を全く堰き留めの場
所、漸く掘割り水を通したが、いまだ二段の滝になっ
ているので、居家水入の分もあり、耕地も余程水入り
になって困っている。この滝を掘り割れば耕地も出る
が、真土で固めたような場所であるので容易に掘り割
ることが出来ないで困っている。
(因みにこの堰き留めの場所は四月十日まで満水になっ
ていたが同日昼過ぎ突然押し切り一丈以上の大鉄砲水に
なって押し出した。幸に岩倉山の堰き留で犀川が干揚っ
ていたので被害は少なかった。岩倉山の湛水が一時に流
出したのはこの三日後の四月十三日であった。)
現小川村
和佐尾村 栗本組は山の直ぐ下にあるが、後より抜け崩
れ、また花尾村境の処が五六丁も抜け落ちた。
椿峯村 ここへ至れば地震が軽い様子で埋没した家はな
い。虫倉山より余程遠く平地が多い場所であるが、麦
作もろくに作れないので、麻ばかり作っているが、道
路が欠壊し麻の出荷がうまく行かなくて、上納にも困
り心配している。(名刹高山寺は仁王門が倒壊し仁王様
の両手が欠けてしまった。)
瀬戸川村 成就組、馬曲組、埋牧組全潰七十八軒のほか、
半潰の家も多いが、埋没した家はない。一帯に傾斜地
の畑が多く、地割れや抜け落ちが多く、居家が斜にな
ったまま一丁余りも抜け落ち、そのまゝ住居している
家もある。
古山村 山格別の大抜けはないが、数多抜け落ちの場所
がある。桐山へ行く道が大層壊れて困難している。
上野村 名刹明松寺は一揺れの地割れで、七堂伽藍悉く
崩壊し、そのまま割口へはさまり埋没して割口をふさ
いでしまった。幸に火災もなく堀り出したが怪我人も
なく、また大切な過去帖も無事だったという。この跡
寺地にはなり難いように見受けられた。
花尾村 格別大抜けはないが、数多抜け所があり、田畑
も多分崩れ落ち、潰家も他村より多い。和田組平左衛
門家内五人暮しの処、潰れた上に焼失で、平左衛門な
らびに老母、子供二人焼死し、女房おり二十八才一人
残り誠に気の毒である。浪人大日方司、途中まで出迎
え面会、居宅へ立寄って休息したが、今年は仕方ない
が、一日も早く復興して御上様のご厄介にならないよ
うにしたいと張り切っていた。
竹生村 同村は平地で土尻川添にあるが、北の上野村境
の山が大抜けで、町組まで一円に岩石泥等の押し下し、
田畑多分に押し埋り、居家も沢山押し埋まってしまっ
た。浪人大日方源吾は山際に居住していたが、悉く押
し埋り、埋没死一人を出し、勝手向も甚だ不如意で、
村方の厄介になっているようである。
小(根)祢山村 同村より松平様御領大町への往還の道の舞袋
と千見村の境附近へ岩石が抜け落ち交通不能になって
しまったので、藩より黒鍬(畦鍬)等を遺し、千見村
より人足を出して漸く切開いた。
椿峰村の内立屋組 小根山村より新町へ越す辺にある村
で、椿峰本郷より一里半程の所にある小郷で、土地も
悪く麦作りも碌に出来ず、麻を作っているが地震は軽
かったようである。
久木村 平地が少なく傾斜地ばかりであるので、田畑の
抜けた所や、道路の滑り落ちた処が多い。(火災二軒は
記録に見えるが他はわからない。古老の口伝に、家の
上方の田の水が震動のたびに障子に音を立てて振り掛
ったという。)
夏和村 (「虫倉日記」に記載がないが、「夏和村今昔物
語」に地滑りが各地にあり、家の倒潰二軒、死者一名
が見える。)
鬼無里村 町組は須田辺まで十三軒ゆりつぶれ、松原、
八斗で各一軒、才門では十一軒抜け落ちで皆潰れ、古
在家は七軒が潰れの上焼失、上平萩の峯で十二軒焼失、
そのほか大川入入口にも火災がみえた。(村史四六五
頁)
家屋の被害(埋没、全壊焼失)パーセントは七二会地
区六〇㌫、中条村三四㌫、小川村二四㌫、旧鬼無里
村七㌫などであり、死者も同じ順番である。死者は鬼無
里村の報告書(村史)には書いてないから、鬼無里村地
区ではごく少なかったであろう。
地震による水害も多く、犀川が岩倉山の崩壊でせきと
められ、三月二十四日夜から四月十三日夕方まで十九日
間湛水、上流下生坂まで湛水延長面積三二㌔、湛水面積
約一八平方キロ
に及び、四月十三日欠壊して下流は大洪水にな
った。虫倉地域はこの被害は受けていない。土尻川も四
月十日までせきとめられ、青木・五十里など川添いの村
は水入があったが、犀川ほどの被害はなかった。裾花川
は七月三十一日まで湛水した(信濃国大地震火災水難地
方全図)鬼無里村には「数日水入」の家が九軒あったが、
あまり大きな被害はなかった。(村史四六六頁)
大地震のエピソードさまざま
○夏和志神組上村の源七宅は上ノ平峯からはるか下まで
押し流されたが、家人は家を破り這い出て死傷者なく、
家具もこわれなかった。(夏和今昔物語)
○当時 道路を通行する者、長い細い木を携帯して歩く
者が多かった。所々に地割れがあり、そこに落ちるお
それがあったから、木で身を支えるためである。(同)
○郡方代官南沢甚之助は藩主視察の下調査のため椿峰村
高山寺にいたが、地震の夜は林の中であかし、翌日上
楠川を経て帰ろうとしたら、橋が落ちていて通れず、
引返して二十五日は高山寺に泊り、二十六日瀬戸川か
ら上野をへて、昼ころやうやく松代に帰った(むしく
ら日記)
○手代鈴木藤太は臥雲院の庫裡で調べものをしていた
が、突然の大ゆれで筆と帳を持ったまゝ東の庭へ飛出
し、夕方、住職に隠して魚を食べたので、山神か天が
おどかしているのかと疑いながら、昼間見覚えていた
大木にしがみつくと、その木がそのままずるずると一
丈ばかりも抜けおちたので、大門の辺の大杉のところ
へ行こうとすると、その杉がみえない。その木の側の
観音堂へ行こうとすると、堂ははるか上の方にみえた。
観音堂へ住職はじめ人々が集まった。
○この村の医師玄理の子利左衛門は寺へ手伝いに来てい
たが、地震と同時に家へ走り帰り、つぶれかかった家
のなかから母を助け出し、母を背負って観音堂へ昇っ
て来た。藤太は「孝子がきた。このような孝子は天も
お助けになるだろう。ここはもう抜けることはない」
とはげましたので人々は力を得た。翌朝になってみる
と、観音堂の回りだけ二十間四方ほど残って、東西南
北全部抜け落ちていた。
○茂菅静松寺では、台所の隅に馬屋と五右衛門風呂があ
り、仲間の老人がはいっていたが、ここだけが抜け落
ち、はるかの谷へ落ちたが、老人ははいったまゝで、
風呂の湯もこぼれなかった。馬も谷へ落ちたが、その
まま寺へ帰った。(以上『虫くら日記』)
表Ⅰ-23 虫倉山系地域の被害
中条村
小川村
長野市七二会
長野市小田切
村名
念仏寺
梅木
地京原
伊折
奈良井
中条
青木
専納
長井
五十里
小計
和佐尾
椿峯
立屋組
瀬戸川
古山
上野
花尾
竹生
小根山
久木
夏和
小計
坪根
倉並
五十平
橋詰
岩草
大安寺
笹平
瀬脇
小計
小鍋
山田中
宮之尾
吉窪
深沢
小計
戸数
130
110
130
170余
(125)
130
(139)
36
(166)
(66)
(1,202)
80
130
42
(109)
100
(92)
82
130
200
(62)
(105)
(1,132)
61
44
68
160
150
(43)
79
88
(693)
150
100
100余
(64)
(60)
179
人口
700余
600余
700余
500余
(661)
600余
(782)
(189)
(566)
(331)
(5,629)
390
(425)
200余
(599)
510余
(484)
430余
680余
1,000
(335)
572
(5,625)
380
220余
340余
800余
700余
(251)
390余
542
(3,623)
900余
500余
500余
(330)
(326)
1,296
埋没
3
6
18
17
44
5
6
2
6
19
2
22
24
2
39
3
?
?
44
全潰
85
50
11
15
27
87
27
66
368
18
10
78
13
33
37
27
7
(2)
237
35
11
30
60
105
70
81
392
30
13
30
?
?
73
半潰
30
37
5
10
9
22
6
129
7
22
13
40
145
16
6
6
6
30
3
3
67
6
10
15
?
?
31
死者
30
70
80余
90余
8
44
20
342
7
9
10
11
40
13
1
(1)
92
10
70
10
40
5
25
7
167
18
50
10
?
?
?
備考
被害軽し、水入あり
流失を含む
土尻川堰止、水入あり
軽し
焼失9
夏和村今昔物語
焼失11
残存5、6軒
残存5軒
被害少し、橋落
焼失1
中組のみ被害
耕地3分2以上抜崩
抜所多し
沢に水湛え
鬼無里村
戸隠村
村名
鬼無里
栃原
志垣
追通
上祖山
下祖山
小計
戸数
484
220
60
(79)
112
人口
2,454
1,000余
360
(445)
520
埋没
1
13
14
全潰
33
8
6
2
16
半潰
57
15
8
22
45
死者
3
1
4
8
備考
被害少、紙買入なし
セハズ山山抜け
○「むしくら日記」による。
○( )内の戸数・人口は慶応4年「家数人別五人御改帳」(「長野」27号)により補う。
鬼無里村は弘化三年
○太字は特に被害の多かった村。
○松本史氏作製、小林計一郎増補