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項目 内容
ID J3300116
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔伺去誌〕H11・12・20伺去歴史研究委員会編・発行
本文
[未校訂](4) 善光寺大地震
① 善光寺地震の概要
 弘化四年(一八四七年)三月二十四日午後十時ごろ、
信濃から越後にかけて激しい地震が起こった。震源地
は善光寺町の両山中、虫倉山付近だったらしく、激震
区域は、北は越後高田より、南は上田におよぶ延長一
一〇キロメートル、幅三二キロメートルほど。そのう
ち最も激しかったのは、北東は飯山から、南西は稲荷
山に至る間、および、更級、上水内両郡の西山山地で、
延長約四八キロメートル、幅約一〇キロメートルほど
であった。この地震で最も被害を受けたのは、善光寺
町であったので、この地震は善光寺地震と呼ばれてい
る。
 震源地の説は、前文のように考えられるものと、県
庁から信大教育学部に至る地表の変化は、地下の断層
のずれが表れたもので、善光寺町直下である、という
説が信じられてきた。
 最近になって、信大教育学部地質学教室の教授の新
説が発表され、信じ難く、また驚いている。それは清
水震源地説である。おいおいと明確にされていくであ
ろうと思うが、研究不足でこれ以上書く力がない。
② 伺去真光寺地区の被害について
イ 名主より中野代官所への報告文
その1
大地震に付道路橋大破に付急破普請願書
乍恐以書付奉願上候
当村用水路字駒沢揚口より田掛り迄
水内郡伺去真光寺村 金左右衛門組(清水組のこと)
一長九百間程 善光寺往来農業道
同組
一長百二十間程
一土橋一ヶ所 但長六間横九尺
嘉右衛門組(南組の名主徳永嘉右衛
門氏)
 右用水路道橋共今般大地震に而大破におよび道橋共
通路難相成候得共人命危難を凌候追々には金銭米穀其
外□崩土中に埋或は振ちらし品少々に相成右用水路道
橋共急破普請に取掛り申度候得共大造の場所に而精身
盡果殊に小村故中々私共人力に及申す一同相難居候折
柄一村限の人力に難叶場所に而普請出来兼候まづ目論
見帳を以て可願出旨被仰付難有村中打寄幾重相談仕候
得共餘り大造而愚味の私共目論出来兼候間何卒格別の
御仁恩を以御見分
被成下置道橋の儀は早々普請不致候而は亡所残地切開
き兼村方住居無覚束用水地は迚も一時に成就難斗奉存
候尤亡所は精々相励鍬立候場所立兼稗成共蒔付申度心
構に奉存候間願の通御聞済被下置村方住居相成候様被
仰被下置候はヾ大小百姓莫大の御救と難有仕合に奉存
候依之乍恐以書付比段奉願候以上
 弘化四未年四月 両組三役人連印(伺去真光
寺村、北組、南組、名主、組頭、百姓代氏名印の意)
高木清左衛門様 中野御役所
その2
弘化四年三月大震災に付浅川橋架替願書を差上ぐ
乍恐書付を以奉願上候 (徳永嘉門氏蔵)
 水内郡伺去真光寺村役人一同申上候當村之内字浅川
原橋今般大地震にて右橋押拂候ニ付先達而御役所に懸
替の儀御願申上候得共得と村方惣百姓え及示談候處此
度押拂候ニ付川瀬甚以惡敷殊ニ川廣ニ相成橋木等も素
より寸間も長き木相持候得ば猶以保方不宣敷と存是迄
も年ニ寄一ケ年両三度満水致押拂候事も有之候今度の
災難ニ而村方百姓一同勞し自力ニおよび兼候故殆當惑
仕是迄自普請の處御願申上候段奉恐入乍去御普請御願
申上候而當年にも満水いたし流失等有之候而は歎ケ敷
儀ニ御座候間橋懸替の儀差止ニ而新規通御願申上度候
然所字横吹と申場所岩山ニ而自力におよび兼候間何卒
岩堀割の場所丈御普請仰付被下置候様奉願上岩前後の
場所を自普請仕候間格別の御勘辨を以右願の場所丈御
普請御聞濟被下置候ハヾ惣百姓一同難有仕合ニ奉存候
依之村役人連印を以御願奉申上候
以上
水内郡伺去眞光寺村
弘化四未年四月 小前惣代 文蔵
百姓代 彦兵衛
組頭 伴蔵
名主 嘉右衛門
その3
弘化四未年両組高反別仕譯書上被仰
(関係の所を抜粋)
○高三石一斗五升五合 比反別五反二畝二十三歩 此
分不残亡地に相成申候 真光寺組
○高三十七石六斗七升四合四勺 此反別五町四反三畝
十六歩 高一石三斗三升亡地に相成申候
此反別二反十歩 伺去組
○高三十二石一斗七升三合 此反別四町七畝歩 亡地
に相成申候 真光寺組
○高二十七石七斗一升六合八勺 此反別四町三畝二十
七歩 亡地同様に御座候 金左衛門組
○高十石五斗六合二勺 此反別二町三反二畝九歩
内高九石九斗 亡地 真光寺組
○高十五石八斗八升 此反別九反二畝歩 内高九石九
斗 亡地 金左衛門組
右は両組高反別仕譯仕候處書面の通り相違無御座候信
州水内郡伺去真光寺村
百姓代 彦兵衛 組頭 伴蔵 名主 嘉右衛門
 〃 嘉十郎 〃 大蔵 〃 金左衛門
高木清左衛門様
 今般従御役所被仰付右之通り書上候に付両組には一
帳づつ扣置候
御觸請書
弘化四年三月二十四日大地震に付諸職人手間賃諸色直
段等無謂引上せざる様各村へ御觸に対し請書を徴せら

差上申候御請書之事
 當御支配所高井郡水内郡村々大地震に付潰家破損家
多分有之追々普請修復に取掛り候處諸職人手間賃諸色
直段等無謂引上候に付不埒之取計仕間敷旨当四月中御
觸渡し有之候處此度職人手間賃諸色鐵物等引上候様成
之儀有之候ニ付災害を請候者共弥難渋の次第に付右様
の儀無之様厳重可申渡旨御勘定所より御達御座候間猶
精々村役人共心付当四月中御觸渡し之趣堅相守候様可
仕不埒御糺之上若不埒の取計致候旨心得違仕間敷段不
洩様可申聞旨被仰一同承知奉畏候依而御請印形差上申
候處如件
御救米被下請書
 弘化四年三月二十四日夜震災に付真光寺被害者へ御
救米被下各人よりの請書差上申御請證文之事
家数十六軒 皆土中埋 内三軒 家内不残死絶候分
人数七十七人 内十八人 土中埋死候分 残五十九

一米十四石六斗二合 真光寺組窮民御救被下米
内男二十人 此米七石二升 但し一人付米二合宛
内女三十九人 内九人六十才以上 十五才以下男人
此米六石九斗四升二合 但し一人に付米一合宛
 但し米七月より十二月晦日迄分を引日数百七十八日
分被下之
 右は當御支配所信州水内郡伺去真光寺村之内真光寺
組の義當三月二十四日の夜大地震に而山崩落出道家居
不残押埋皆土中埋に相成格別に艱難に付来る正月迄取
続のため書面之通り御救米被下置候旨被仰渡一同難有
承知仕候依之御請書證文差上申處如件
弘化四未年八月 伺去真光寺村の内 真光寺組
百姓 りめ、茂兵衛、彦左衛門、与兵衛、伴蔵、文
蔵、吉左衛門、弥右衛門、市左衛門、民五郎、銀兵衛、
友左衛門、五郎右衛門、長百姓 与市 名主 嘉右衛
門 (限本は一列横書きである)
高水清左衛門様 御役所
御救手当
 弘化四未年震災に付伺去真光寺之内真光寺組へ御救
手当金被下
 差し上げ申し御請證文之事
真光寺組
皆土中埋潰家 十六軒 内三軒土中埋死絶候分
残十三軒 信州水内郡伺去真光寺村の内 真光寺組
 一金九十七両二分 御救手当被下金 但し一軒に付
七両二分づつ
 外米十四石六升二合 御救被下米先達被仰渡被下置

 右は伺去真光寺村の内真光寺組の義三月二十四日夜
の大地震に而家居不残震潰皆土中埋田畑は亡所に相成
極難に陥候に付当夏中場所御見分艱難始末巨細御糺住
所続様銘々新規居宅取建諸色代並び家財農具稼に相用
候品共差懸り入用の品々御見積御取調御伺被成候處此
度右品々買求め代金為御手当書面の通被下置候間難有
相心得居宅取建方は勿論夫々農業山稼渡世出来候様村
役人長百姓共厚世話いたし不益の儀無之様精々心付入
用の品は早速買求め業体に基き明利を辨ひ荒地開発出
精仕御年貢上納筋相励候様可仕被仰渡承知仕出精し御
手當御救夫食米等被下置住居の土地に不相離相続出来
候段□御仁恵御恩澤の程一同挙而難有仕合奉存候依之
御請印形差上申處如件
弘化四未年十月 信州水内郡伺去真光寺村の内
真光寺組 百姓友左衛門外十人
惣代兼 長百姓与市 同五郎右衛
門 組頭伴蔵 名主嘉右衛門
高木清左衛門様(中野御役所) 弘化四年未年十
月御救金割渡し請取帳 真光寺組 但し横帳

一金高九十七両二分也
内三両二分 りめ遺し 残金九十四両也 金七両
二朱六匁三分五厘づつ 一人前
 右金与之儀は一人に付七両二分宛の處りめ落に相成
右金高の内三両二分引候如斯也
各人に何日に渡したかの記録あり。略す。
③ 弘化四年三月二十四日の善光寺地震を伝える文献
(記録書)
その1
「弘化四年善光寺大地震」(書名)
 この本は、信濃毎日新聞紙上に連載された記事をま
とめたものである。明治三十五年三月二十一日から百
二十三回に渡って、信毎記者束松露香の執筆による。
 この地震の震源地は上水内郡中条村の虫倉山付近だ
ったらしく、マグニチュード七・四といわれ、飯山町
から稲荷山町に至る一帯に大きな被害をもたらした。
しかも、地震とそれに続く火災のほか、この災害は洪
水さえ伴っていた。地震で犀川上流の岩倉山が崩れ、
久米路橋の下流で犀川がせき止められ、上流一帯は延
長二三キロメートルにわたって大ダムができてしまっ
た。
しかもこのダムが、二十日ののち、突然崩れて善光寺
一帯はたちまち大洪水になってしまった。
その2
次の方々の記録書
 松代藩家老桐山の書いた記録鎌原桐山翁の「地震記
事」
 同じく家老河原綱徳の「虫倉日記」
 権堂村名主永井左衛門幸一の書いた「地震後世俗話
之種」七冊からなる記録で、長野市の文化財に指定さ
れている。
 真光寺地区の状況については、渡辺敏の記録がある。
(長野高女、城山小の校長・郷土史家)
④ 震災後の真光寺地区の住民
その1
新しい場所に真光寺組の再興を決する
 震災前の真光寺組の住宅や耕地は、現在の入真光寺
地下であったが、大部分が被害に遭い、代官高木清左
衛門氏の指導を受け、ループ橋建設以前の真光寺に新
天地を求めて、再起に励んだのであった。
 真光寺組の人々は、救恤を以て復興を計られ、其恩
徳を永久に記念するために、高木清左衛門氏を真光寺
の地をトし高木大明神と小祠を建て、毎年三月二十四
日を祭日として祭祀し、今日に至る。
⑤ その他の地区の被害
イ 中野代官所の対応
 弘化四年三月二十四日夜九ツ時善光寺平一円に渉
り大震災は空前の事にして中野代官高木清左衛門は
幕府より他界水内郡御料所各村救助の為二千五百両
拝借を願各村被害者を救助せられたり真光寺の外伺
去・清水も此被害あり、殊に清水には人畜の圧死せ
るものあるも文献なき故茲に記さざるを遺憾とす。
ロ 伺去組の被害を想像する
 地区全体について聞き取り調査をして、明らかに
しようとも考えたが、伝えられているものに確信が
持てない。
 真光寺地区に保管されている旧南組の資料のなか
弘化四年の地震による山崩れの様子
に、被害を示す絵地図があった。
 小江戸は三軒全部倒壊。家治村不明。東中村四軒
不明。中村十軒不明。西中村七軒不明。(不明は未調
査を示す)
⑥ 弘化四年の地震による山崩れのようす
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 959
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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