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項目 内容
ID J3300107
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔長野県史通史編第六巻近世三〕長野県編H1・3・31(社)長野県史刊行会発行
本文
[未校訂]三 善光寺地震
弘化四年(一八四七)三月二十四日午後
地震と災害
十時すぎにおきた大地震について、松代
藩家老河原綱徳は、その著『むしくら日記』に、つぎの
ように書いている(『新史叢』九)。
 「突然の大地震に、いそぎ登城しようとして身支度にか
かった。折からの大揺れに三度まで転倒したが、ようや
くのことで身をととのえ、瓦が落ち、塀が倒れ家屋がつ
ぶれて混乱をきわめる城下をかけぬけ、城にたどりつい
た。藩主真田幸貫のご機嫌をうかがったのち、矢つぎば
やに注進されてくる各地の被害にたいし、その救済の手
だてと火の用心を指示し、また、幕府へ震災状況を一報
するため早飛脚を仕立てた。このあいだにも何回となく
鳴動があって余震がつづき、大書院の屋根瓦ががらがら
とくずれおちたりした。
 城の土手にのぼってみると、西方の山手から北方山手
にかけて七ヵ所ほど猛火が確認された。北方の善光寺町
(長野市)と清野山のむこうの埴科郡稲荷山宿(更埴市)
あたりの火事は、とりわけ大きくはげしい。そのほかの
火事は明けがたまでには鎮火した。
 余震はやむときなく、夜明けまでに二〇〇回余もあり、
翌二十五日も朝から強震が断続的にあった。その後の注
進によると、山中に山抜け(地すべり)があったとみえ、
犀川下流の流れがしだいに細く枯れて、七ッ時(午前四
時)ごろには膝のたけにもおよばぬほどになり、子ども
でも渡ることができるようになった」。
 右のような状況が、北信を中心として越後高田(上越
市)から中信、東信におよんだ善光寺大地震(弘化大地
震)のはじまりであった。
 震源地は、善光寺町の西方山中で、マグニチュード七・
四と推定されている。地震にともなう地すべりが約四万
四〇〇〇ヵ所も生じたが、その最大のものは虚空蔵山(岩
倉山)で、犀川の流れをせきとめてしまった。そのため、
山中の犀川ぞいの村々は水中に没した。
 激震地は、北は飯山から南は稲荷山、東は松代(長野
市松代町)から西は山中(上水内郡鬼無里・中条・小川
村など)の一帯であった。最大の被害地は折から御開帳
でにぎわっていた善光寺町であったが、激震地帯に所領
がすっぽりはいる松代藩の被害もかなり大きかった。河
原綱徳がかけつけた松代城では、本丸・二の丸・三の丸
の囲い塀・櫓・番所などが倒壊したり大破したりした。
藩士の居家は全壊三八軒、半壊二八六軒、大破六五四軒、
城下町は民家の全壊一七六軒、半壊一〇五軒、大破一一
四軒にのぼった。そのほかに土蔵・物置・酒造蔵あるい
は寺社の倒壊も多く、町全体で圧死人三二人、怪我人二
七人が出た。
 領内在方では、居家の全壊が九三二七軒、半壊が二八
〇二軒、大破が三一二〇軒、圧死人二一〇〇人余、怪我
人一二〇〇人余をかぞえた。死んだ牛馬も二六〇匹余に
なった。ほかに、土蔵・物置・酒造蔵や寺社あるいは水
車小屋・社倉・高札場・口留番所などが多数倒壊した。
 本田・新田の損毛高は、領内ぜんぶで約二〇〇ヵ村、
一二万石のうち、一五一ヵ村、七万一〇〇〇石余に達し
た。さらに、道路・橋・土手・用水堰などの流失、損壊
は、枚挙にいとまがない。
 松代藩以外の北信・東信・中信の諸藩・幕府領も、大
なり小なり被害をうけたが、飯山藩領と上田藩飛び地領
稲荷山村はとくにひどかった。飯山藩領では、
城内、藩士の居家、城下町、在方の居家・土
蔵・物置・郷蔵などの倒壊のほか、城下では
火災で五四七軒の民家が焼失し、即死者も三
〇〇人余をかぞえた。在方では一一〇〇人余
の死者を出した。稲荷山村は、善光寺道(北
国西往還)の宿場で北信有数の市場町である
が、四ヵ所から出火して二〇〇軒ほどが焼失
し、わずか二三軒が焼けのこったのみであっ
たという。死者も四〇〇人近くに達し、その
なかには善光寺参りの旅人もふくまれていた
と思われる。
善光寺町の震災
三月十日からはじまった
善光寺の御開帳は、二十
日すぎからのときどきの小地震にもかかわら
ず、にぎやかさを加えていた。大地震当日の
図12 善光寺地震災害地図
二十四日
も、山内お
よび町内は
諸国近辺の
参詣人でご
ったがえ
し、夜も万
燈の灯がと
もってい
た。そこへ
夜四ッ時
(午後一〇
時)すぎ、
にわかに大
地震がおそ
って一度に
揺りつぶし、闇夜と化した。ほどなく数ヵ所から出火し、
大火となった。泣きさけぶ声が満ち、無事逃げだしたも
のは父母・妻子・兄弟を助けだそうとしたが、容易なこ
とではなかった。『むしくら日記』はこう記す。「善光寺
大門町の旅篭屋へ聟養子にきていた春吉は、地震の夜、
所用で山内の堂庭へ行き、そこで地震に遭遇した。家並
みがひしひしとつぶれて魂を失い、自宅までかけつけた
が、諸方から火が燃えだし、家族はみなつぶれた家の下
敷きになっていた。助けだそうとしたが、瓦葺きなので
一人の力ではどうしようもない。とかくするうちに、下
女一人が壁のあいだから頭を出し、助けてくれと叫んだ。
即座に助けようと思ったが、四方から猛火が吹きかけ暑
さにたえがたいので、はだかになってようやく下女を助
けだした。家内のことを聞くと、奥のほうにいるという
ことだが、とても助けだしがたく、あきらめざるをえな
かった」。多くの人々が、この春吉のような状態におちい
り、消火のいとまもなく田んぼなどへ逃げだし、忙然自
失のありさまだった。
 別の記録は、つぎのように書きとめている(県史⑦二
〇三三~三四)。「近郷村々からは、善光寺町の親類・縁
者のもとにかけつけ、潰れ家の下でまだ声ある人々を助
け、また火を防ごうとしたが、なかなかできず、火勢は
ますますさかんになった。風は西南方から吹きたて、善
光寺本堂があやうくみえたが、本堂・三門の屋根で多数
の人々が飛び火を防いだので、地震にも揺りつぶれず、
焼失もまぬがれることができた。地震はいっこうにやま
ず、火事は二日二晩燃えつづけた。山内では、大本願境
内の諸堂はのこらず焼失、寺中四六坊もすべて焼けおち
た。仁王門や、堂庭の小間物店・茶屋、むしろ張りの見
世物小屋類ものこらず焼けた。大勧進は、万善堂・護摩
写真22 善光寺町の震災図(『地震後世俗語之種』)
堂など七ヵ所が大破した。経堂・鐘楼は無事であった。
本堂へは通夜の旅人数百人がこもっていたが、一人の怪
我人もなかった。寺領の町家は、横沢町をのこしてほと
んど焼け、その数は約二二〇〇軒、潰れ家は約一六〇軒、
つぶれずにのこった家はわずかに一四〇軒余にすぎなか
った。死者は寺中・町内でおよそ一四〇〇人ほど、旅人
の死者は一〇二九人」。ただし、数値はさだかでない。
 善光寺町の町続き地のようすをみよう。南東部の松代
藩預り領権堂村(長野市)は、善光寺町の花街として当
時すでに水茶屋が三十数軒あり、抱え女も二百数十人に
のぼっていたが、地震で全壊同様となり、そのうえ善光
寺町の出火で類焼した。村の戸数三〇七軒、人口一一六
三人のうち、焼失二七四軒、死者八九人、怪我人一一一
人の惨状だった。南西部の松代藩領妻科村(同)は、村
の西端を流れる裾花川の上流で数十ヵ所の地すべりがあ
り、流れをせきとめてしまったため、その決壊をおそれ
て村人は段丘上に仮小屋をたてて避難した。この村でも、
善光寺町につづく枝郷西後町を中心に、潰れ家・焼失家
屋が多かった。南部の椎谷領問御所村(同)は、火事を
村の北端でくいとめたため、潰れ家のみの被害ですみ、
死者も一人にとどまった。
 善光寺町の周辺部の村々も、栗田村(長野市)をのぞ
き、大小さまざまの被害をこうむった。
 さて、地震のさい、本堂にこもって唱名していた参詣
人が助かったのは、阿弥陀如来の御加護と信じられ、善
光寺信仰をいっそう高めた。しかしその反面で、
死にたくば信濃へござれ善光寺
うそじゃないもの本多善光
という狂歌がよまれてもいた。御回向の開帳で善光寺如
来の御利益にあずかろうと、全国から群参した善男善女
が多数死傷したのをみれば、御利益どころではなかった
ということになる。
地すべりと犀川湛水の決壊
善光寺町の西部につらなる山間地は、
西山山中とか、たんに山中とかいわれ、
むかしから地すべり地帯として有名である。この地震の
ときも山中各地に地すべりが生じた。
 とくに、水内郡伊折・梅木・念仏寺・地京原(中条村)、
上祖山(戸隠村)、和佐尾・椿峰(小川村)、日影・鬼無
里(鬼無里村)の九ヵ村にまたがる虫倉山の地すべりは、
大きな被害をもたらした。その山麓に間近い念仏寺村平
沢・臥雲、梅木村城之越・親沢、地京原村藤沢・横道、
伊折村太田・高福寺・横内・荒木、和佐尾村栗本の一一
組では、農家七〇軒ほど、一九九人、馬三〇匹があとか
たもなく土中へ埋められ、またたくまに亡所となってし
まった。なお、右の村々に近い村々も、かなりの被害を
こうむった。たとえば、黒沼村(長野市七二会)では、
家数四九
軒、二三五
人のうち三
九軒、六〇
余人と馬六
匹が、また
山田中村
(長野市小
田切)でも
三九軒、四
二人が土中
に埋まっ
た。
 念仏寺村
には、臥雲
院という霊
場があった。『むしくら日記』によると、たまたま地震当
日、「臥雲院に止宿していた松代藩手代鈴木藤太は、西北
の方角からの山も砕けよとばかりの音におどろき、あわ
てて東の庭に飛びだした。囲いの塀を破って裏の麻畑へ
逃げ、そこの一抱えほどの大木にとりついた。なにやら
麻畑を押しわけてくるものがあって星明かりでみると、
この寺の庫裏婆が赤はだかで這ってくるところで、やが
て同じ大木にとりついた。とたんにこの木がずるずると
抜けくだったので、これではたまらぬとまた逃げだした。
寺の大門にある有名な三本杉なら、老木で根がはびこっ
ているからと探したが見あたらない。その木のそばの観
音堂はどうかとみると、はるか見あげるほどのところに
あった。そこで三本杉は地震とともに抜けくだったこと
を知り、堂をめざして登っていった。やっとのことで堂
に着くと、堂は地すべりすることもなく、住職はじめ寺
に居あわせた人々やさきほどの婆がおり、おいおい村人
も集まった。人々はおののき、ひたすら念仏をとなえ一
夜を明かした。東の空が明けてあたりを見わたすと、東
西南北、前後左右がことごとく抜けくずれたなかで、こ
の堂の回り二〇間四方のみが元のままのこっており、六
〇人のものが命を拾った」という。
 さて、このときの最大の地すべりは、犀川の右岸、更
級郡山平林村・安庭村(長野市信更町)にまたがる虚空
蔵山のそれであった。この地すべりで山の両角が欠落し、
岩石・土砂・樹木が犀川に落ちくずれ、その流れを堰き
とめてしまった。上流がわの地すべりは山平林の孫瀬・
岩倉両組にかかり、土砂の高さ約一八丈、幅約四〇〇間
にわたり、対岸の水内村(信州新町)に達したという。
下流のそれは、安庭の藤倉組を高さ約一〇丈、幅約二〇
〇間で直撃した。
写真23 善光寺地震犀川湛水図(『地震後世俗語之種』)
 この結果、犀川下流は前記のように徒歩で渡れるよう
になるいっぽう、堰きとめられた上流では、日々に水か
さが増し、六~七里のあいだが湖水のようになった。湖
水はしだいに上流へむかってのび、ついに水内・更級両
郡から安曇・筑摩両郡へとひろがり、押野(明科町)に
までおよぶ大湖水ができた。
 こうして、この湛水が一時に押しだしたら、川中島平
はもちろん、それにつづく地域にどのような変災がおき
るかもしれない状況となった。そのうえ、犀川が善光寺
平に出る犀口の水内郡小市村(長野市安茂里)の北にあ
る真神山も犀川へくずれおち、川幅を押し縮めてしまっ
たため、洪水の被害がいっそう甚大になることが予想さ
れた。
 そこで松代藩は、真神山抜け場所の犀川の掘りひろげ、
新しい川除土手の築造、従来の土手の補強などの普請に、
山々へ逃げていた村民をかりだし、一〇余日のあいだ、
毎日一〇〇〇人前後を動員している。また藩は、湛水押
しだしのとき急を知らせるのろし打ちあげの手はずをき
めた。さらに、助け船・筏などを村々に用意させ、大釜
を数ヵ所にそなえて炊きだしの手配をととのえた。
 四月にはいって八、九日と大雨があり、谷川が満水し
て犀川へ流れおちた。留め口がくずれおちるのではない
かと、下流の数百ヵ村の男女は寝食を忘れて心配した。
はたして、十日未明から留め口の岩石の狭間から水がす
こしずつ落ちはじめ、危険が目前にせまった。山のほう
では鳴動がはげしく、堰きとめ湖の瀬音も高まっていた
が、十三日昼すぎ、堰きとめ口にまだ一丈ほどの余裕が
あるから大丈夫だと思っていたところ、大浪が一度打ち
かかるとみるまに、たちまち堰きとめをいっきに押しは
らい、激浪が犀口の小市村へあふれでた。水の高さは六
丈六尺ほどあったという。激流は真神山の崩壊岩石を押
しはらい、小市の町並みをくずして流れだし、川中島平
一帯に氾濫し、千曲川に流れおちた。川中島平の水田を
うるおす上・中・下の三堰も、みな押しつぶされた。千
曲川は、犀川合流地からの逆流も加わって、暮れどきか
ら真夜中までふだんより二丈ばかりも増水した。
 激流はついで下流の高井・水内両郡の川ぞい村々をお
そった。押し流されて河原と化した田畑が多く、泥水を
かぶった田畑はいっそうひろがった。十四日明けがた、
ようやく水が引きはじめた。
 激流氾濫の被害は、松代領内で本・新田三万八八〇〇
石余、八〇ヵ村が流失し、用水堰大破は三万一四〇〇間
余、地すべり七二ヵ所にのぼり、死者は危険を予知して
すくなかったが二〇人余出た。ずっと下流の飯山領でも、
田畑二〇〇〇石余の流失、用水路土手五六〇間余の大破、
地すべり数十ヵ所を生じた。
 このほか、犀川の支流土尻川や裾花川でも地すべりが
あって、いっとき川を堰きとめてしまった。このような
現象は、他の中小河川でもみられた。
 なお、地震は温泉にもさまざまの影響をおよぼした。
たとえば、渋温泉(山ノ内町)では湧出量が減り、角間
温泉(同)では湯量が増加した。浅間温泉(松本市)で
も湧出量がふえ、別所温泉(上田市)ではいっとき湧出
がとまった。松代近郊の加賀井村(長野市)の温泉では、
二十四日の地震時に六尺、翌朝に三尺、二十六日朝に五
~七寸ほど湯をふきあげた。
諸藩の対応と地震情報
この地震・火災・洪水にたいし、諸藩は
なんらかの対応をせまられた。
 松代藩では、地震直後から七月十六日まで十数回にわ
たって、幕府に被害報告書などを提出した。そのうち四
月十二日のものは拝借金願い書で、二万両を願いでて一
万両を貸与されている。五月七日には国役御普請願いを
出し、犀川両岸と、犀川・千曲川の合流点の落合筋(長
野市)の普請を願いでている。また四月二十一日には、
参勤交代の六月出府を秋まで延期することを願いでた。
いっぽう、領民へは炊きだし、手当ての金・米の下付な
どをおこない、およそ一万六〇〇〇両を出費したという。
 善光寺町続き地の問御所村(長野市)の領主越後椎谷
藩では、代官寺島善兵衛の処置がきわだっていた。高井
郡六川村(小布施町)の陣屋から、大地震翌日の二十五
日早朝には駆けつけ、隣接する善光寺領東後町(長野市)
からの類焼をくいとめようとした。そのため、寺領であ
る東後町と松代領の西後町(同)の居家を自己の責任で
とりつぶした。また、全壊・半壊の被害者へは、それぞ
れ金五両、二両二分ずつを下付し、圧死人の出た家へは
回向料として一両ずつを見舞った。また、同村の穀屋久
保田新兵衛は、被災者に白米一升を一〇〇文で安売りし
た。
 善光寺領では、地震と大火の被害がかさなり、その復
旧のため幕府・松代藩からそれぞれ三〇〇〇両・二〇〇
〇両を借りうけた。領民救済には、大本願が囲い米を一
軒につき米一俵(三斗六升入り)ずつ貸しだし、大勧進
は一人につき米五升を給付した。六月には、江戸の商人
一五人が計二四〇両余を町民にほどこした。
 そのほか、飯山藩・須坂藩・中野代官所でも手当て金
の給付などをおこなっている。
 なお、善光寺諸堂の修理復興は六月ごろからはじめら
れた。四六の院坊でも、それぞれ持ちぶんの諸国の旦那
場に奉加(寄付)をつのり、再建にのりだした。町方で
も家屋の復興がすすめられていった。とくに、善光寺町
つづき権堂村の水茶屋の復興はいちじるしく、震災後は
裏権堂の町並みが新たにでき、従来の表権堂の町並みと
ならんで二筋になった。善光寺町では、職種によっては
一種の震災景気がもたらされたのである。
 地震のニュースは、善光寺参詣人が全国に持ち帰って、
またたくまにひろがっていった。江戸では、四月のはじ
めに早くも瓦版が出され、そのあと錦絵などにもなって
流布した。京・大坂でも瓦版が出されたという。幕府で
はこの種の出版を厳禁していたが、ひそかに出まわった
ものと思われる。瓦版は地元でも数点出版されたようで、
「信州大じしんあらましの図」は、そのなかの一点だと
推定されている。このように、地方でも瓦版が出される
ようになったことは注目にあたいしよう。
 また、権堂村名主永井幸一は、自分の見聞をもとに挿
絵つきの『地震後世俗語之種』を書き、善光寺地震を記
録にとどめた。この記録は貴重なものとして注目され、
松代藩でも複製している。
 やんれえ口説節で説かれる地震哀話の瓦版が多く出た
ことも、当時の情報のひろがりかたを示している。口説
節などは、人々の同情をさそうと同時に、善光寺信仰へ
の帰依をいっそうつのらせたと考えられる。そのひとつ、
江戸馬喰町三丁目吉田屋小吉版のものを掲載しておこ
う。
今度稀なる信州地震くどき

 今度、サアエエ、稀なる地震ばなし、頃は弘化の未の
年よ、花の三月二十と四日、夜四つ時、大きな地震、こ
こはいずくと尋ねて聞けば、国は信州水内郡、隠れなき
のは善光寺町よ、あまた門前そのある中に、家も土蔵も
揺り潰されて、所どころに火が燃え立って、家も道具も
みな焼け払い、後に残るはみ堂と山門、さても哀れは親
子の仲も、親は逃げても子は残されて、梁の間で泣く声
ばかり、北は飯山、高井の郡、須坂・松代・上田のほと
り、町も城下もその在村も、あまた潰れ家その数知れず、
大地裂けては煙が上がり、夜も昼とて分かちはなくて、
親子手を引き逃げよとすれば、割れめ割れめへ落ち死ぬ
ばかり、泣けど叫べど仕方もなくて、さても恐ろし哀れ
話、やんれい〳〵〳〵」(「下」は省略)。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 904
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村

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