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項目 内容
ID J3200741
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔中之島村史上巻〕中之島村史編纂委員会編S63・3・25 中之島町発行
本文
[未校訂]第三節 文政の三条地震
近世の越後地震
越後地震といえば九世紀の中頃、貞
観五(八六三)年六月の地震が最古
であろう(三代実録所載)。以後「越後年代記」や「越後
風俗考」所収の寛治地震のように「寺泊沖から沿岸を伝
って角田・才潟・砂山・榎木島など打ち崩して海となる」
とか、「その泥砂は[乗足島|ぬたりじま]より東南の入海に注げり、これ
より大いに国の形を変ぜり」という伝説的のものもある。
中世に応永・明応・文亀・永正地震もあったと伝えられ
るが、明確な史料に欠けている。
 表28のとおり近世に入り数度の地震が突発している。
慶長十九(一六一四)年十月の頸城沖を震源地とする高
田・直江津地方の地震は津波をともなったという。寛文
表28 近世越後地震
年号
慶長19
寛文5
同9
延宝5
宝暦1
同12
寛政5
享和2
文政11
天保4
弘化4
紀元
1614
1665
1669
1677
1751
1762
1793
1802
1828
1833
1847
地震名
10.25 高田地震・直江津津波
12.26 高田地震1,500人死
5.5 新発田地震
12.17 頸城地方地震
4.25 高田地震・中之島組被害大
3.4 中ノ口地震・三条強震
正月7日より各地に相ついでおこる
11.15 佐渡地震
11.12 三条地震被害甚大
10.26 佐渡・出羽地震(鼠ケ関・松ケ崎地震)
3.24 善光寺地震・(信州水)
備考
震源地頸城沖
M.6.6推定
西蒲原郡味方村
M.6.6推定
M.6.9推定
M.7.4推定
M.7.4推定
五(一六六五)年十二月の高田地震は圧死者一五〇〇人、
高田藩家老小栗五郎左衛門もその一人。幕府から藩主松
平光長へ下った五万両は、罹災者の救恤に宛てられた。
宝暦元(一七五一)年四月二十五日に起きた高田地震は
マグニチュード推定六・六の激震で死者二〇〇〇人、全
半潰焼失合わせて六〇八八戸の惨状を極めた。この地震
の被害は遠く新発田領・村松領にも波及し、新発田藩の
『御記録浄廟紀』によると、「中之島組の内、地震にて潰
家三拾壱軒、半潰七拾弐軒、[潰|つぶれ]土蔵拾三」とある。さら
に畑方四尺程に長さ拾丁(約一㌖)にわたり地割れして
砂が吹出したが、人馬怪我これなし」と記されている。
『見附市史』には「村松領鹿熊村。同新町で二名の圧死、
本所組では六軒破損、大平堤の土手決潰」と記してある。
いずれも現見附市域であり、まだこの地域一帯に被害が
あった筈であるが明らかな史料はない。
 『三条市史』に宝暦十二壬(一七六二)年三月四日午の
上刻(午前十一時半ごろ)三条郷一帯が強震に襲われた
ことが述べてある。北緯三七度八分、東経一三九度〇分、
震源地は現西蒲原郡味方村地内とみられるが、人畜に異
常はなかったという。余震は一週間続いたが竹藪に小屋
を建てそのつど避難したといい、地震には竹藪が安全地
帯であるとはこの頃から語り伝えられた体験談である
(「中越大地震編」)。
 弘化四(一八四七)年の通称善光寺地震はマグニチュ
ード推定七・四、死者一万二〇〇〇人、焼失三五〇〇戸、
倒潰三万四〇〇〇戸、犀川がせきとめられて信濃川水量
が減少、やがて大決潰、「信州水」の名で下流一帯大被害
が生じたといわれる。
文政の三条地震〈重なる不運〉
文政十一戊子(一八二八)年。不作
続きで米穀の払底、米価の高騰で深
刻の生活不安のうちに春を迎えた。天候不順で春中照り
続いて稲の根付が悪く、五月中旬から六月下旬までは雨
降り続きでは川は出水し、窪地の田畑は湛水して秋の収
穫は高一万二〇〇〇石の損毛となった(『御記録』)。米穀
は払底して来年までの持続が不安となり、穀留め・貯穀
のお触れがだされた。難民救済のため城下へお救小屋が
建てられ、粥の手当がだされたことは毎々のとおりであ
った。
 こうして打ち続く凶作に重って大地震突発の不運。そ
の地震の前兆について「小泉文庫記録」(今町の住―地理
学者小泉基明編)から二、三拾ってみよう。
① 上保内村の古刹浄土真宗長泉寺の井戸水は、清らか
で美味であることは昔も今も変りがないが、水が濁る
と変事があると伝えられていた。この年六月頃から濁
り初めたので村人たちは心落ちつかぬまま、果して大
震にあったという。
② 山通り街道に沿うて月岡村から如法寺村に通ずると
ころに「越後七不思議」の一、如法寺霊火がある(今
の天然ガス井)。この地中から出る灯火が平常より二、
三倍も激しく燃いて村人は万一の出火を恐れたとい
う。地震後次第に衰えて漸く常態となったが、地殻が
変動して火脈に異常があったもので、相違なく地震の
前兆とみてよかろう。
③ 十一月七、八日頃から暁方になると霧のような気が
立って、その濃い時は僅かに七、八歩先方が見えなく
なったという。そして快晴の日には太陽の周囲が五色
の彩色に色どられて虹のようであった。秋の季節であ
るのに暖気で万木芽を出し、つつじ・水仙はじめいろ
いろの草花が咲いて、市場へ売り出されるのをみて、
後日の地震の恐怖も知らないで春の楽しみの心地がし
て喜びあったという。
 十一月十二日暁を知らせる鶏の鳴く頃、風音あり、
夜明けには南西の方角で黒雲が出て、旭日の色は朱の
ように輝きわたった。それが辰の刻(八時)に西南の
方角から雷のような音がしたと思う間もなく、驚天動
地の大地震となったのである。
〈地獄絵のような惨状〉
十一月十二日朝五ツ時(午前八時)、三条町では漬菜大
根市で雑踏していた。「五ツ時上刻、頭上ニテ雷ノゴトキ
鳴リ渡リ、世界中胴ブルイノ音イタシ山モ崩ルル如キノ
大地震ニテ……」(与板町長明寺過去帳記録)とある。突
如として大揺れから家屋の倒潰が始まる。朝食前後の火
を使う時刻、忽ちのうちに阿鼻叫喚、さながら地獄絵図
の様相を現わした(『日本災異志・日本震災凶変考』)。ま
た最近は(東京大学地震研究所)新収日本地震史料第四巻別巻に多
くの資料をまとめた『三条地震』が発刊されるなど、多
くの編著書に記録を留める大震災となった。地震の規模
はマグニチュード六・九(東京天文台編―『理科年表』
五二年版)とある。)新潟地震(七・五)・関東震災(七・
九)に近い烈震である。震源は北緯三七度六分、東経一
三八度九分(理科年表)というから、信濃川に近い現栄
町小古瀬~芹山の低湿の水田地帯である。後に述べるが
当時の高崎藩陣屋下の一之木戸と村上藩陣屋支配の三条
町との被害状況からみて、震源は一之木戸東三条駅附近
という説もある。
 長明寺過去帳記録に「長岡モ大地震に候エ共、是ハ御
城ハ無難の様子、去ママリ乍ラ長岡領北組・下河根組ハ大乱
惣ツブレ、三条町ハ地震後大火、御坊所(東本願寺別院)
ハ別して丸焼、五ママ尊まで焼申候由、震度の地震ニテ三条
町残らず丸焼、今町見付町モ地震後出火ゆえ是も丸焼、
……(中略)。此度ノ大変ハ第一番三条二番見付町三番今
町四番ツバメ町五番与板と申事、マコトニ前代未聞の大
地震ゆえ、六七里四方ノ内ニテ凡一万人モ死人コレアリ
候様子……」とある。
 こうした三条地震の規模と被害は予想以上に大きく、
同十一月二十三日付、出雲崎代官所への書上帳(五十嵐
与作編『資料三条地震』)に次のようにある。「此度の大
地震は[此|ここ]よりゆれ始、先ず新潟辺から南中ノ口川、東は
信濃川両岸三条在々見附、今町、与板、脇野町、長岡か
ら山へ向って栃尾谷辺に及んだ。古蔵・小屋・家屋・戸
障子等破潰したことは、[下|しも]は蒲原の[乙|きのと]村から海岸に沿う
て米山辺迄、東は米沢、会津を境界として御都(不明)
辺迄凡そ[堅|たで]五拾里余、横三拾里余、その上新潟白山前の
御蔵所あたりは大地が破れて水吹きあげ(中略)又、川々
の堤通りは所々川中へ揺れこみ水底になったような場所
があり、反対に川筋が浅瀬になって渡船が差支えるよう
になった。与板近くから加茂辺まで所々多く平地が破れ
て水や青砂が吹きあげ、埋八木や木材など吹きだした地
所もあった……(下略)」とある。図79は三条地震の震央
から被害状況の規模を描いた図である(長岡郷土史二号
所収)。各地域の被害状況を見とおすことができる。
〈被害状況〉
 文政地震の被害は三条中心にして円形
を描いて拡がり中越地域の範囲を出な
い。越後十一藩中と高田藩など上郡を除
いて、天領・旗本領など交錯していて、
大なり小なり影響を受けている。また交
通機関の未発達の時代であることもふく
めて、各支配領域の被害調査書上書(報
告書)がまちまちであり、震災後日の追
加報告とも混淆するなどして、全体的の
被害状況の正確な把握は極めて困難であ
る。したがって支配領域別・町村別も正
図79 三条地震の被害範囲
確にすることができない。表29は北越雑記が基礎になっ
たらしい吉田東伍博士の『大日本地名辞書』北国論(昭
和十二年再版)の総括的統計である。表30は各町村別の
被害状況であるが、三条・見附・今町・与板などの火災
による家屋の焼失など莫大の数である。地震に火事は附
物というが、数ケ所からの出火が全域に燃えうつって大
惨事となったのである。漬菜大根市で雑踏した三条は各
所から出火して全町烏有となり、見附・今町・与板もこ
れに次いだ。資料はまちまちであるが全潰・追潰、ある
いは半潰・大破、焼失・圧死と焼死、数知れぬ怪我人……。
数量からみれば前述の宝暦元年の高田地震、後の弘化四
年の善光寺地震に匹敵し、局地地震としては大規模のも
のに属している。
 加茂矢立新田の人斎藤民衛の作「[瞽女口説|ごぜくどき]地震の[身此|みの]
[上|うえ]」という[口説節|くどきぶし]が流行した。三味線に合わせ、[門付|かどつけ]艶
歌師が唄った文化文政時代の三条近郷村の世相を知るこ
とができる。その一節……。
 「天地開けて不思議と云わば、近江の湖駿河の富士は、
たんだ一夜に出来たと聞いた。それも見もせぬ昔のこと
よ、ここに不思議は越後の地震、云うも語るも身の毛が
よだつ、年は文政十一年の霜月半ばの二日、朝の五ツと
覚しき頃に とんとより来る地震の騒ぎ煙草一服落さぬ
うちに 上は長岡新潟かけて 中に三条今町見附つぶれ
跡から一時の煙り 其に続いて与板や燕 在の村々その
数知れず 潰れ家数は幾千万ぞ 梁やうつばり柱や桁に
背骨肩腰頭をうたれ 目鼻口より血をはきながら 逃れ
いでんと狂気の如く もがき苦しみつい絶え果てる 手
負死人は出来尽されず 数も限りもあまして計り 親は
子を捨て、子は親を捨てあがね夫婦の仲をも云わず 捨
てて逃げ出すその行先は [炎|ほのお]燃え立つ大地が割れて
砂を吹き出し水もみあげて 行くに行かれずたたずむ中
に 風は烈しく後を見れば [火粉|ひのこ]吹出す火焰を被むり[熱|あつ]
やせつなや苦しみこわや……(下略)」。七五調の口説節
は大震火災の姿をうつして、焦熱地獄の惨状を描き出す
のである(資料編参照)。
中之島組の震災
新発田藩の支配下にある中之島組の
被害書上史料が僅かであって、その
全貌を知ることが困難である。かつては中之島組に属し
ていた小古瀬~芹山附近(現南蒲原郡栄町地内)を震源
とするなら当然被害は大きい筈である。刈谷田川谷口辺
の村松領、長岡領など右岸の葛巻・傍所、左岸の名木野・
田井・椿沢など全潰に近い損傷を受けているのに、それ
より震源地に近い中之島組が被害の少ないはずはない。
同じ新発田領の鵜森組や赤渋組の被害資料の現存するこ
とからみて、中之島組資料の散逸あるいは未発見による
ものであろう。組内でも被害の大きい今町の名が『御記
表29 三条地震被害概況
領分
高崎藩
(一之木戸陣屋
新発田藩
出雲崎
陣屋支配
村上藩
村松藩
長岡藩
桑名藩
(柏崎陣屋)
沢海藩
与板藩
池之端支配
館村支配
(井栗)

潰家
1.180軒
1.770
1.000
1.300
1.030
3.600
2.000
.140
.590
.90
.130
12.830
焼失
.136軒
.115
.757
.153
1.161
死失
.144人
.225
.102
.263
.228
.442
.120
.76
.7
1.607
備考
吉田東伍編「大日本地名辞書」北国・東国編
表30 中越町村被害状況

三条
見附
今町
中之島
大面
加茂
与板
脇野町
皆潰
1,600戸
(内焼失100戸)
500戸
(内250戸焼失)
300戸
190人
7
17
267人
(内80戸焼失)
86
半潰
30戸
31戸
13戸
20戸
11
86
400
焼失
1,485戸
(内土蔵274戸)
250戸
105戸
263戸
死者
385人
118人
60人
30人
6人
34人
5
怪死人
350人
60人
不明
3人
10
268人
45
補足
外ハ大破
300戸
(大地震一件より)
録』に見える。
「朝五ツ時大地震。中之嶋組今町、潰家、焼失家・怪我
人夥敷、其外組々も潰家等之有るに付、取敢えず郡奉行
を差出され、当座御手充として米五百俵御渡し……」と
あり、翌正月被害総計が記されている。表31のとおりで
ある。
天領出雲崎代官所へ書上ケ写は左の通りである(五十
嵐与作編『資料三条地震』)
(前略)
一出雲崎代官所東中野組・帯織組村々並に大口川筋(大
口村辺)見付辺在々残らず潰れ
一今町皆潰れ、[上下|かみしも]の入口少々残り死人知れず
一♠丈村(傍所村か)家七十軒の処五十六軒潰れ、即死
十四人、怪我人知れず
一中之嶋家四百軒ばかりの処五十軒ほど立ち居る。東大
竹与忠太(東ノ庄屋)無難、南星野儀兵衛(西ノ庄屋)・
大竹与文次無難。与忠太より借家八百軒へ十二日より、
今以て炊出手宛す
一大面町皆潰れ
(中略)
一三条町随一の大変ニて、東御坊所始め御役場は申すに
及ばず、町方残らず潰れ、二ノ丁の外残らず焼失。二
ノ丁の内漸く十二軒無難。即死八百人余。怪我人数知
表31 新発田藩の被害状況
被害名
高札場
田畑
(・地割・砂吹出
堤破損
潰家
半潰家
破損家
潰寺
半潰寺
破損寺
潰庵
数量
1カ所
281町4反歩
10,416間
1,660軒
715軒
544軒
8
9
5
2
被害名
潰堂社
焼失家
潰土蔵
焼失土蔵
潰板蔵
圧死
怪我人
斃馬
怪我馬
数量
6
121軒
10
10
27
215
男 27人女 215人
136
男 72人女 64人
22
1
新発田藩政史料「御記録」
れず。(中略)本城寺村方皆潰れ、本城寺は無難。三条
より加茂在々残らず皆潰れ。
一裏館皆潰れ候上焼失、死亡怪我人数知れず
一地蔵堂町端れ十二軒潰れ、地蔵堂より三条迄皆潰れ
三条迄の在々左の通り
(前略)
一中条四軒潰れ
一下沼・大沼共に九分通潰れ。
一小古瀬七ケ村共皆潰れ。(注、小古瀬・小古瀬新田・中
曽根・渡前・中興野・善久寺・千把野カ)
一貝喰皆潰れ、即死七人。
一今井・今井野新田共皆潰れ。
特に中之島組のうち震源地に近い村々は殆ど全滅に近
い被害をうけたようで、激震の状況を窺うことができる。
 桑名藩御預所柏崎役所支配下の書上書のうち中野組の
被害状況は次のようである。
高六百四十七石七斗壱升弐合三勺五才 中野西村
一、家数九十軒、内郷御蔵皆潰、八十軒皆潰、九軒追
潰、外寺一ケ寺皆潰、即死七人
□□一軒皆潰
高六百四十五石五斗三合 同中村
一、同七十軒、内六十八軒皆潰、二軒追潰、外寺一ケ
寺皆潰、即死九人。
高五反七十六石弐斗五升壱合 中野東村
一、家数七十一軒、内御高札皆潰、六十八軒同、三軒
追潰、寺一ケ皆潰。寺一ケ寺半潰、即死五人
高五十七石三斗八合 小川新田
 一、二十軒内十一軒皆潰、七軒追潰、二軒半潰
高四十四石弐斗五升弐合 亀ケ谷新田
 一、十二軒、内六軒皆潰、六軒追潰、即死一人
高壱石三斗六升 栗林村
 一、三軒、内二軒皆潰、一軒追潰
高二十三石壱斗七升壱合 三林村
 一、十二軒、内七軒皆潰、五軒追潰、即死一人
高弐十五石壱斗四升五合 鬼木村(注 一部御預所)
 一、十七軒内六軒皆潰、二軒追潰、九軒半潰
 表30の町村別被害状況表は桑名藩柏崎陣屋・天領出雲
崎代官所・村松藩・村上藩三条陣屋・高崎藩一之木戸陣
屋・各地行所支配町村の被害状況である。新発田藩支配
については、鵜之森・赤渋組のものはあるが、中之島組・
大面組の村別資料がなく、『御記録見廟紀』によって藩下
の集計を載せた。
震災復興へ〈震災救恤手充〉
1 新発田藩の場合
 震災の翌年四月十一日、地震・火
災復旧、家作農具を調えるための資金として、中之島組
へ金二、九九五両余、加茂・大面・赤渋・鵜之森四ケ組
へ一、六一二両の手充金が交付された。中之島組分は全
体の七割四分に相当する。中之島組の被害の大きさがこ
れによって推定されよう(『御記録』)。次いで五月十九日、
四、〇五七両一分を加茂・大面・中之島・赤渋・鵜之森
五ケ組へ潰家のための新規小屋掛並に農具入用の手充と
して交付。小須戸・赤渋・中之島・両新田へ昨年度の地
震以前の不作のための夫食欠乏で手段ないための理由か
ら籾一、〇三〇石余が交付された。難民待望の救恤籾で
あったことはいうまでもない。(出典不明)
2 桑名藩預所の場合
 五十嵐与作編「資料三条地震」に三例があげられてい
る。
イ 一男一人ニ付 一日黒米五合
一女一人ニ付 一日黒米三合
右は老若の訳なく二〇日間給付。
ロ 御手宛は潰家の者で男四五才以上五九才以下は一
人に付一日五合、女は四合づつ二〇日給付。六〇才
以上も一五才以下男女共三合づつ二〇日間給付され
る。
死人一人に付、施餓鬼料(注、葬式お経料)として
銭五百文つつ下さる。
因みに潰家二〇〇〇軒余、即死一二〇人とある。(一
之木戸村行田氏報告)
ハ 御手宛男一人米一斗。
六〇才以上、一〇才~一四才迄男米八升、九才以下
並女子は米六升。但男一人日ニ五合、老人子供四合、
小児男女三合づつ二〇日間のこととある。(吉野谷(屋)村
庄屋方にて承る)
3 中野組へ給付の例
桑名藩預所柏崎陣屋から支配下中野組へ給付された御
手充金・夫食其外お手充拝借金、年賦拝借金留がある。
表32にまとめたのが次のものである。
 震災復興資金を申請し許されて拝借する場合、当然年
賦返済の義務のあることは、現代とも変りがない。文政
地震の災害復旧のため中野東村が庄屋四郎右衛門以下は
村方三役連署して拝借、一五ケ年の長期年賦償還の請書
である。(原文のまま載せる。)
文政大震災拝借金請書之事
奉差上御請一札之事
一金六拾三両弐分 御拝借金高

四拾弐両三分弐朱 是迄十ケ年之内
返上納仕候分
残金弐拾両弐分弐朱
此 訳
金拾両壱分 此度被下置候分
永六拾弐文五分
金拾両壱分 当辰年より辰年迄
弐拾五ケ年賦被仰付候分
永六拾弐五分
右者文政十一年子年大地震に而潰家之者共江家作料御
手当として翌丑年より五ケ年過午より申迄拾五ケ年賦
ニ返上納仕候様御拝借被仰付難有仕合奉存是迄十ケ年
之内壱ケ年分余四両弐分永百文宛返上組仕来候処此度
尚又格別之御仁慈を以前書之通り上納残り金高半分被
下置半分は当辰より辰迄弐拾五ケ年賦に返上納仕候様
被仰付重々御救之程一統難有仕合奉存御請一礼奉差上
候以上
蒲原郡中野東村
表32 中野組へ給付された御手充金表
御手当金
弐拾壱両
拾五両弐ママ朱壱朱
拾壱両弐分弐朱
百弐拾壱両壱分壱朱
百参両弐朱
百参両弐朱
三両
拾弐両壱分弐朱
村名
小川新田
鬼木村
三林村
中野西村
中野中村
中野東村
栗林村
亀ケ谷新田
庄屋名
九内
小兵衛
中野東村庄屋
四郎右エ門
忠右エ門
紀左エ門
四郎右エ門
右同人
百姓代 市郎右エ門
夫食其外御手当拝借金留
拾五両
拾壱両弐分
八両
八拾壱両弐分
六拾九両
六拾九両
弐両
九両
調達之分―年賦拝借金留
三拾両
弐拾三両
拾五両
八拾五両
七拾五両
七拾五両
弐両
拾弐両
 天保十五辰年六月桑名御領
柏崎御役所
百姓代 伝右衛門
組頭 喜右衛門
庄屋 三右衛門
同 四郎右衛門
 未曽有の三条地震の復旧工事が始まった。難民は不凶
に喘ぎ食に飢えながら潰家・焼失した家の再建に奮斗し
た。新発田藩は罹災民を救恤するほかに破壊した土地の
復旧に急がなければならなかった。藩の支配下の中之島
組がうけた小川大川手通り(猿橋川・刈谷田川・信濃川)
の大破した堤防の再建工事を藩営の仕事として着工し
た。加勢人足こと「お雇人足」の総動員である。大沼新
田古川家所蔵の文書により、その工事の概要をみること
にしよう。
 文政十一年暮れの迫った十二月四日降雪のうち着工。
新発田藩の出役一三名。御普請方伊藤佐七(三人)、御足
軽御目付浜田谷八、御〆方坂上仁太夫(三名)、小奉行斎
藤利文治(七名)である。お雇人足は震災地外の組々か
ら動員、組人数一万九〇六人。
 普請は三ケ場から着手、村々の名主が才判という管理
とりもち役を命ぜられた。
一、長呂島田関根三ケ村
今井新田名主彦十郎 島田村名主忰七平 上新田名
主兵三郎 高畑村組頭源七 横山村組頭清蔵・郷沢
佐一右衛門
一、中之島猫興野横道上新田四ケ村
上新田名主隆助 鍋島村名主忰和五郎 中興野名主
忰市郎治 坂井村組頭四郎右衛門 野口村組頭庄左
衛門 丸山興野組頭団七 郷沢忰忠四郎
一、中西赤沼六所野口真弓五ケ村
高山新田名主角之助 三林村名主常治 高畑村名主
銀三郎 大沼新田組頭与七 六所興野組頭弥五兵衛
郷沢利兵衛
降雪のため工事中止十二月十七日出
役人は帰藩。
明けて文政十二年三月三日工事再
開。丁場付出役目伊藤佐藤外十一人
着任。組方から定役才判が命ぜられ、
新発田組 一一七〇人三分
川北組 一〇五七人二分
新津組 二九〇人七分
蒲原横越組 二四七一人八分
中ノ口組 七九一人七分
五十公野組 一四一四人
岡方組 一五五二人四分
小須戸組 一〇一三人
赤渋組 一〇七一人
鷲之木塩俵両新出 七四人分
丁場は六カ所に増加した。
一中興野場所 定役名主貫三郎外三人
一大曲戸場所 定役名主奉兵衛外三人
一今町場所 定役名主軍吉外三人
一丸山興野場所 定役名主幸兵衛外三人
一三林村場所 名主隆助外三人
一中西高山赤沼場所 定役名主角之助外
四人
工事再開間もなく三月十二日大水のため丸山興野破堤の
ため一部工事中止、水下御料所村々の加勢を求めて水戸
留工事着手。そのため震災復旧工事は延々、進行状況は
明らかでないが、越えて文政十三年まで継続した。記録
の明確さを欠くが、その後の御普請は次のとおりである。
一ノ手○中之島町・安田興野・丸山興野・真弓〆四ケ

○三林村・中西村・赤沼村・大沼新田〆四ケ村
二ノ手○中条村・真野代新田・中条新田・島田村・長
呂村〆五ケ村
 三ノ手○西野新田・今井新田二ケ村
こうして小川手が三月二十五日迄完成、残りの工事は閏
三月三日完工した。
 各組出動のお雇人足のほか、地元組方願村々の人足高
(延人数)は次のようである。
 以上「震害復旧工事」の概要であるが、一瞬のうちに
大破壊をして、阿鼻地獄をつくり出し、その復旧工事に
膨大な金額と労力を必要とする地震の恐怖を知ることが
できよう。人足の出動、経費の支出、賄方の苦労のうち
にも多くの誤差もあったであろう。この震害復旧工事の
煩雑さから、天保二年普請定法が改革されたことも正当
のことであろう。
震災余話
文政十二年二月四日、中之島組大保
村同前組頭善平忰善之助が大地震の
最中、一身一家を顧みず難に遭っている人々や防火に努
めたことにより藩から褒賞され、父善平に準じて同前組
頭に命ぜられた。
 善之助は去る十一月、突如して起った大地震にあたり、
赤沼 三八三四人
中西 四五八〇人
島田 七八七人
長呂 三七三四人
大沼新田 二五三一人
今井新田 二四八人
中西 八五八人
三林 二二一八人
中条 一二七二人
真野代 九九五人
中条新田 七六〇人
西野新田 一〇五八人
丸山興野 一八八四人
安田興野 一八三人
真弓 三二九人
計 二万五二七一人
居掛の町(中之島町)が大半潰れ火災となった。近村一
帯の変事のため駈付ける者がいなかった。善平は自分の
家の災難を顧みず、近所の潰れた家の中から人々を救い
出し、その上火災の消火に尽力し抜群の働きをなした。
その犠牲的活動は模範となるところで褒賞されたのであ
る。
 同じく大面組九ノ曽根村名主和助は震災の復旧工事
に、人力不足して困苦することはお互いのこと、大工共
の手助けもなく、自分の知己知人を罹災地外の遠方から
雇入れて破損の家の復旧、難渋の者への協力に、自費を
投じて賄方や大工作料の手充をだすなど、献身的の奉仕
で褒賞。同じ荻島村百姓助九郎の和七が長患い中の太兵
衛の半潰れした家を生活できるよう補修し、その大工作
料から賄方迄自費で救った奇特の行動で褒賞され、「独御
礼」という藩主への直接単独面謁の光栄を受けた。いず
れも震災中の尊い美談である。(『御記録』―見廟紀)
懲震毖鑑
「[懲震毖鑑|ちょうしんびかん]」は今町の住人小泉其明
(一七六一―一八三六)が文政の三
条地震の惨状を描いた二九図の震災画帳である。越後佐
渡全図を巻頭に、三条町十図、今町六図、見附町二図、
鵜之森郷・栃尾郷・椿沢村・名木野村・八王寺村・須頃
村・和田村・山崎村各一図づつ、中之島組では中野村図
一葉、それに籾倉を開いて手充を与える図、庄屋宅での
給与図が描かれ、地震直後の各地の混乱ぶりが冷静な筆
致でつぶさに描かれている。画帳は其明の直系の子孫で
新津市市之瀬の本間忠雄氏家伝の逸品の復刻されたもの
である。画帳の題名は「地震に[懲|こ]りて[毖|つつし]む[鑑|かがみ]」という意
味である。作者其明の序文によれば、後世の人びとの[鑑|かん]
[戒|かい]の願いをこめて描いた作という。
 小泉其明は宝暦十一年、本間作十郎の三男として新潟
に生まれ、年若くして小泉家の養子となった。壮年にな
って諸国を遊歴中今町永閑寺の住僧山宮安雲と親しくな
り帰郷、中之島組今町に住した。測量の技術にすぐれ、
越後・佐渡両国を実測して精細な全図を作製している。
そのうえ、画を好んで五十嵐浚明の高弟芳明に学び、猿
を描いて神品と讃えられた。その作「百猿の図」を新発
田藩侯に献じて激賞を得たといわれる。
 文政地震は其明六八歳の年、子蒼軒(当時三二歳)と
ともに名主新井田氏のもと今町仮組頭に擢られ、ついで
功績によって大保村同前組頭として名主の職を果した。
天保七年五月十一日病没、年七六歳。今町永閑寺に静か
に眠る。法名「観了」を謚らる。
 其明が震災の犠牲者の霊を祀った七絶の鎮魂賦を左に
掲げる。
地軸掀翻似転環 地軸[掀翻|きんぽん]すること転環に似たり
万家壊燼拉然間 万家[壊燼|かいじん]す[拉然|りつぜん]の間
纔逃圧死難逃火 [纔|わずか]に圧死を逃るも火を[逃|のが]れ難し
燗屁堆辺哭徃環 [燗屁堆|らんじうずたか]き[辺|ほと]り徃環に[哭|な]く
(参考) 地震から九〇年経て、大正九年七月、当時わが
国地震学の権威東京帝国大学教授大森房吉博士が、こ
の画帳を閲覧した所見が述べられている。
文政十一年ニ越後三条地震アリ。次ギテ北方ニ移リテ
天保四年ノ庄内佐渡ノ地震トナリ、終ニ南方ニ及ビテ
弘化四年ノ信州善光寺大地震トナレリ。何レモ極メテ
激烈ナル破壊的地震ナルが相関連セル現象ニシテ明ニ
信濃川流域地震地帯ノ存在ヲ示スモノトス。抑々大地
震ハ地震地帯ニ沿リ発生スルモ、同一地点ヨリ繰リ返
シテ起ルコト無ケレバ、前時ノ大地震ヲ調査スルハ同
一地震地帯ニ属スル大震将来ノ発生予測ニ関シ実ニ欠
ク可カラザル所ナリトス。然ルニ三条地震ノ記録類ハ
甚ダ稀少ニシテ調査材料ヲ得難キヲ憾トセシガ、今回
幸ニ入沢医学博士ノ好意ニヨリ、久保宗吉君ヲ介シテ
本間正雄君ガ所蔵セラル、同君祖先小泉其明翁自筆ノ
懲震秘鑑ヲ借覧スルヲ得タリ、此画帳ハ文政震災ノ実
地ヲ明細ニ描写セルモノニシテ三条地震ノ調査上極メ
テ有力ナル資料ナルヲ認メタルヲ以テ全部ヲ写真ニ複
写シ、永ク東京帝国大学地震学教室ニ保存スルコトト
ナシタリ。爰ニ本間氏並ニ入沢博士久保氏ニ対シ深甚
ナル謝意ヲ表ス。
大正九年七月十四日[布哇|ハワイ]ヘ出発スル前一日
東京帝国大学地震学教室ニテ
理学博士 大森房吉
(本間忠雄氏所蔵『懲震毖鑑』北部印刷株式会社企画製作)の復刻版
並に「南蒲原郡先賢伝」を参照。)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 386
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 中之島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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