[未校訂]文化の地震
文化元(一八〇四)年六月四日夜四ツ時
半(午後十時頃)に庄内北部から秋田県
南部にかけての日本海沿岸を中心に大地震が起きた。庄
内で起きた地震では、古くは嘉祥三(八五〇)年十月の
出羽国大地震(『文徳天皇実録』)、正応六(一二九三)年
四月十三日の大地震(「大泉庄三権現縁記」・「来迎寺年代
記」)、元禄十五(一七〇二)年一月の大地震、安永九(一
七八〇)年六月の鶴岡大地震がよく知られている。その
後天保四(一八三三)年十月二十六日にも大地震(酒田
総軒数二二〇〇余のうち四七七軒が大半壊)があったが、
文化の大地震は天保四年時をはるかにしのぐ大被害を出
した。
この文化元年の大地震の被害について、阿部市助
家文書にある「庄内飽(海)郡大変之記」によれば、表39
のようであった。この筆者が酒田へ赴いてみると、
潰家が多く土蔵の柱棟は箸のように折れ裂けて、再
度用いることはできず、低地面が裂け水が湧き出し
た。荒瀬町の野附家も蔵とともに被害にあい天正寺
に寄宿した。野附家に尋ねると、当時百千の雷が頭
上に落下した衝撃で、後で地震とわかり逃げ出した
ら、土蔵の西辺の地面が裂け、深さ二尺も水が湧き
出て大河のように流出したという。さらに妙法寺の
山に逃げて行く途中の路沢、深水を漕いで渡った。
夜が明け帰ろうとしたら再度地震があったため念仏
を唱えるほかなかった。おさまって帰宅すると、砂
小山ができ、蔵は二尺ほど土中に埋まり、四壁はみ
な落ちた。井戸は悪砂のために埋まった。昼夜外に
筵を敷き、渋紙を張って飯を炊き露命をつないだと話し
た。
本町の鐙谷家の記録(「家之記」)などによると、寝た
ままひっくり返された後、家の裏へ逃げ、手を繫ぎ木に
すがって念仏を唱えた。被害が特に大きかったのは船場
町であった。伊勢屋脇の小路や市村屋前の地割れで赤い
泥水が湧き出た。突貫(本町一丁目)から北の筑後町・
近江町はさほどでもなかった。上袋小路の肝煎は龍厳寺
表39 文化大地震による被害
酒田
潰家378軒、大痛424軒→計802軒
土蔵潰178、同大痛382→計560
寺潰2ヵ寺
社家潰1軒(山王社人)
修験潰3軒
役家潰2軒(城代・町奉行)
家中家潰18軒
鵜渡川原足軽潰2軒(残大痛)
死者11人(内1人藤嶋の者)
遊佐郷
潰家1468軒
死者104人、死馬134疋
荒瀬郷
潰家378軒(外に大痛1000余)
死者26人、死馬8疋
平田郷
潰家455軒
死者6人
}寺潰14ヵ寺
死人も有
京田通
潰家77軒
狩川通
潰家2軒
中川通
潰家9軒
計
潰家3217軒、死者147人、死馬142疋
注)阿部市助家文書「庄内飽郡大変之記」(文政3年8月温海
入湯で写す)より作成
へ来て、大庄屋衆から依頼された地震安穏の祈禱を願っ
たが、寺に入れず外庭で施行した。
酒田出役の田中又右衛門の聞書(『山形県史蹟名勝天然
記念物調査報告』第五輯)によると、海晏寺・林昌寺は
大破し、妙法寺の山門は潰れた。片町より出火し、子ど
もの兄弟が焼死し、二三軒が類焼した。翌日朝、顔色が
平常の人はなく、鉢巻をし、婦人は気を痛め、狂乱を起
こす者もあった。山王山や妙法寺山のあたりに集まり余
地がなかった。四日間は売買なく、貯えのない町人は黒
米を食べた。
北俣字達中の高橋与左衛門家文書の中に「自文化年中
至明治年間 大地震録」という史料がある。旧『平田町
史』にも意約文が載っているが、ここでは原文を示す。
文化元年甲子六月四日夜四ツ時大地震ニテ
一、酒田御城代御本丸惣潰れ并ニ家中不(ママ)ル及ル申天守櫓残
ル、御町奉行惣潰れ
一、酒田本間様惣潰れ、長家残而土蔵三十六痛ム、給人町火
事人死ス
一、酒田内町・筑後町ヨリ浜町迄惣潰れ、町中土蔵痛三千二
百余リ痛ム、人百十人余リ死ス
一、鵜渡川原町中九尺余リわれ、水吹出る、飯盛山大ニわれ
る、西川原土手ニめり込
一、四ツ興野向畑二十俵渡り程沼ニナル、其近所大ひゞわれ
水吹キ出ル
一、大田(多)新田分田地一面泥ヲかぶり畦草共青き物ナシ
一、平田郷横代・手蔵田・布目辺より下ハ惣潰れ、漆曽根組
十三ヶ村ニテ七百三十軒潰れ、其外半潰れ小痛アリ人二
十人程死ス
一、荒瀬郷島田・星川辺ヨリ下惣潰れ、大久保村立ぬき脇の
高地ニ居宅、市上(神)・藤塚・東ノ(野)村ハ家地ニ二三尺めり込組
中人三十人死ス
一、遊佐郷岩寺石鳥居さ(散々)ん〴〵ニなる、寺無難、内ノ目村・
小松村辺ヨリ下タ惣潰れ、藤崎近所山ヨリ崩れ、吹浦川ニ
生水ころび川水滞リ田畑一面ニ押上ル、ま(丸子)りこ村近所沼
ニナル、皆山ニ遁ル、宮内外村斗リニテ人四十人程死ス、
其外馬多ク死ス
御奉行定詰組中百五十人程死ス
一、六日の晩つなみの風聞アリて庄内中皆家内不残山ニ遁
ル、無難ニテ翌日返ル 因ニ云ウつなみといふハ一日モ置きてより来らザル者なりと云イ
一、吹浦村大火、塩越町中あら〳〵潰れ人死ス
一、きさ潟□(同)ニナル、各所ナシ、甘満寺地ニ二三尺あまりめ
り込ル
一、川南惣無難なり
一、従公儀籾米被下ニナリ、家大小ニよらす
一、家作金百姓一両三分、水呑二分
一、酒田御拝借五両三貫ツヽナリ
一、大工手間三百文、丁持五百文なり
右之通大変ニ御座候、千年以来執り覚へ来る人無シ、書置持
たる家モナシ、依テ末代家作ノ儀ハ柱数のがすニ立ルベシ、
逃口用心代々油断すへからす、一命失ふものなり
(北俣村高橋与左衛門家文書)
平田郷は横代村・手蔵田村・布目村より低い地面は惣
潰れとなり、漆曽根組十三ヵ村で七三〇軒潰れ、そのほ
か半潰や小痛もあり二〇人ほどの死者が出たという。大
多新田村の田地は一面泥をかぶり、畦草は茶色になった
様子も記されている。「文化之度大地震記」(『遊佐町史資
料』第八号)にも平田郷の惨状が記され、中野新田村の
市左衛門(竹内八郎右衛門の代家として無双なき大家で
大勢の家族で暮らしていた)と妻・娘の三人が納戸口で
寄り潰され痛ましいこととなった。山元その他は高所で
地盤が堅く潰家はなかったが、古蔵の土ははがれ、家は
傾き、大木は倒れたという。さらに同史料では、
右六日の夜、圓通寺へ悪者共に押懸けられ、既に危きもの
有之候由、其節専ら風聞、平田郷も津波来るよとて矢流川
館大石山・大平高尾山の麓迄逃げ登る人々夥し…
とあり、大きな余震が五日の昼夜のみならず六日の夜も
襲い、津波のうわさが立って、生石の大森山周辺や鷹尾
山の麓まで逃げ登る人々が多かった。「滝沢八郎兵衛日
記」では六日夜に津波が見えたという情報が入ると、押
切あたりまで羽黒山・金峯山へ逃げ、戦いかとも思える
状況になった。二里ほどの津波が見えた時は、波上に湯
殿山より白梵天が飛来して、その上に立つのが見え、そ
の波は四方に分かれ、沖はその後赤くなったと記してい
る。「文化之度大地震記」では、同年四月になった頃に、
海上に「ナメラワ」という物が沖より寄せられ、一切漁
猟ができず、八〇歳余の老人は、「ナメラワ」は赤クラゲ、
モダレともいい、この出現の年は津波の襲来があると伝
えた。さらに五月下旬になると空は曇り暑く、飛島沖で
大波が一丈ばかり、真黒になって立ち上がった。享和元
(一八〇一)年の鳥海山噴火以来、日々寄異な現象にお
ののき、各寺社は祈禱を行い、人々は念仏にすがった。
生石山・楢橋山・一条山・観音寺山・遊佐山へ米や鍋・
味噌・塩などをもって登り、津波や余震に備えた。観音
寺の菩提寺山では、売りに来た餅や酒で上機嫌となり、
浄瑠璃や豊後唄で騒いで夜を明かしたという(『酒田市
史』改定版・上巻)。
平田地区の当時の状況を示す次のような史料「文化元
年子六月酒田川北大地震に付色々聞書抄」(安齋徹「荘内
地震々源に関する予備考察」に引用)がある。この中に
飛鳥村と砂越村で潰家が二〇軒とある。飛鳥村では怪我
人があった。
一、六月四日夜より大地震、五日昼夜格別強し、六日より
日々地震の由、餘程弱く候由
一、亀ヶ崎城御玄関大破痛、御土蔵二ヶ所潰れ候
一、御家中家潰れ十二軒
一、鵜渡川原道筋割れ、泥吹出し漸く通路致し候由
一、加茂村澗大汐干にて砂地に相成、大船共轉ひ候に付、大
勢出突かせ等致候内、町家より出火の由
一、飛鳥・砂越両村にて潰家蔵共に二十軒斗と相聞候、飛鳥
に怪我人等も御座候由
一、川北は川南より格別強く候由
一、町中道筋割れ、泥水吹出し、白青砂吹出し、磯草も出候
由、寄木杯も出候よし酒田也
一、右道筋二尺斗宛割れ候故、橋をかけ通路致候由
一、日和山崩れ候由
一、飯盛山割れ、三ツに成候由
一、坂野辺新田村めり込候由
一、奥井新田も潰家多候由
一、興(高)野の濱百間程の場所めり込候由
一、本間氏も家潰候由
一、大工百五十何人とか他所出差留候由
一、吹浦方別而厳敷潰れ、火事も有之由、沙汰(ママ)塩越・象潟
も潰れ候由
一、酒田昼夜外へ筵を敷、夜は行燈をつけ、釜抔にて漸く飯
を焚、或は結び塩湯にても給り候へば甚宜敷事にて、地震
強節は男女子供叫び候由、商家店抔出し候事サッバリ無
し
一、御領地由利郡十一ヶ村の中、十ヶ村震潰れ、一軒も不残、
死人二十八人の由、外一ヶ村は関村と申、是は就中大痛に
て未死人等の儀不相知候
一、汐越町不残潰、焼失死人三百人、蚶満寺潰れ、潟抔埒
もなく相成候由
一、飛島地震は強く候得共、家抔痛無之由
一、大山も鶴岡よりは強く、酒屋抔何れも酒土蔵が溢れ、二
三寸斗宛足へ掛り候程溜り候由、就中かが屋抔は三尺斗
も溜り候由、鶴岡は左様の由も無之由、併井戸水だぶだ
ぶ致候、酒田は井戸水あふれ上り候由、鶴岡も新町辺は強
く候や屛風倒れ候程の由
(『荘内博物学会研究録』第二集、昭十二)
今のところ、それ以上の被害を伝える史料は見つかっ
ていないが、飛鳥区有文書に被害を受けた農民が地震拝
借金を一〇年賦で返済している史料がある。表40による
と、飛鳥村の中で一四軒で計一両三分の借用であった。
各戸でみると、拝借金額は一七匁五分と七匁五分の二段
階であった。助左衛門ら五名は大痛で、他は小痛であっ
たであろうか。砂越の被害についてはよくわからない。
大地震発生の前日、亀ヶ崎城へ到着し、城代酒井吉之
允へ家老・組頭の添状を持参してあいさつ廻りした足軽
統轄の物頭在番秋保永次兵衛は、大地震にあい「御用控
帳」という記録を残した(鶴岡市郷土資料館、秋保家文
書)。
秋保永次兵衛は、六月四日、城代所より酒田で五日か
ら興行される他所芝居
(町離頭が申請)には家
中・召仕は見物を禁止す
る旨の命令を受け取っ
た。五日秋保は酒井に呼
び出され、昨晩の地震で
城内の兵具蔵と塩硝蔵が
大破したので番人の足軽
二人を差し出すよう命じ
られた。また鵜渡川原の
足軽居宅の破損状況を足
軽小頭に調査をさせた
ら、次のような被害であ
った。
完全な潰家は二軒のみ
だが、半分近くが住居で
きない倒壊であった。そ
こで足軽小頭と組杖突は
連名(計一八名)で城代所に足軽屋敷の前地の破裂か所
を人馬往来のさまたげになるので修繕願いを出した。同
十一日、城代・町奉行の役家普請のために本留番人を普
請方より秋保は要請された。兵具蔵・塩硝蔵の番人とと
もに雇用で差し出すこととし、行司屋で申付けた。さら
表40 地震拝借金(10年賦)
文化2~11年
助左衛門
金17匁5分(=銭1貫225文)
治八郎
金7匁5分
与右衛門
7匁5分
儀平
7匁5分
嘉助
7匁5分
助右衛門
7匁5分
仁助
7匁5分
治郎左衛門
17匁5分
与左衛門
7匁5分
与作
17匁5分
久助
7匁5分
彦右衛門
17匁5分
嘉兵衛
7匁5分
仁左衛門
17匁5分
計
1両3歩
注)飛鳥区有文書「文化十一戊地震拝借丑年ゟ拾ケ年賦戌終り」より作成
表41 亀ヶ崎足軽宅の被害
① 興津弥伝治組足軽(23人)
(小頭 佐藤庄助・高橋川右衛門、杖突 堤藤四郎)
1軒 痛地割、家左右に傾く→住居ならず
13軒 地形割、家左右に傾く→住居ならず
9軒 家左右に傾く
② 中村亘理組足軽(23人)
(小頭 庄司惣右衛門・村田五吉、杖突 矢嶋慶助)
1軒 明屋敷
2軒 家左右に傾く→住居ならず
14軒 地割、家左右に傾く→住居ならず
6軒 地形割、家左右に傾く
③ 亀ケ崎浮組(100人)(年番小頭)
8軒 明屋敷
2軒 潰家
21軒 地割、家左右に傾く→住居ならず
59軒 地割、家左右に傾く
10軒 左右に傾く
に足軽各家の修復のため二両ずつ拝借金を請求した。庄
内藩当番家老の服部圓蔵はそれを許可した。また弓鉄砲
稽古を行う矢場地の改修普請も行われた。当時、城米を
海船に積む時期で、火廻り等人手が必要であり、人足確
保に必至であった。
次に、酒田より強かった遊佐郷や荒瀬郷の惨状をまと
めてみよう。この大地震は享和元年以来の鳥海山噴火活
動と連動して起きた地震とみられるため、鳥海山に近い
地域の被害が大きかった。
「子夏地震掛御用留帳」(『遊佐町史資料』第八号)では、
石辻組上大内野目村の家数四六軒のうち三九軒が潰れ、
郷蔵一棟や籾蔵六棟、鎮守堂四棟が倒壊した。そのため
同村庄次郎後家(三十六歳)と伜の庄助(三歳)、同村三
郎兵衛の母(六十三歳)が即死した。上大内野目村の宝
泉寺は、三人の亡骸を手厚く葬るため引導した。「田中又
右衛門聞書」によれば、遊佐郷で二〇〇〇余軒が潰れ、
吹浦は八二〇軒のうち四〇軒が潰れた。遊佐郷の北方に
ある小砂川では七〇軒全部が潰れ、死者一一人、金浦で
も七四軒潰れて焼死者一七人、塩越は五〇〇軒皆潰れ、
死者二七〇人となり、九十九島の象潟は平地となった。
上野沢村石垣熊太蔵書「文化之度大地震記」によれば
宮田村・南目村のあたりでは馬や猫も即死し、葬礼もで
きずに、酒桶や古櫃などに入れ埋葬した所もあった。宮
田村の者は、観音寺村弥八郎方へ来て、津波が来ると思
い飛沢大権現の社地に野宿したと語った。塚渕村左五兵
衛は新築の家が全滅し、材木一本も用をなさなくなった。
荒瀬郷でも被害は大きく、六月四日夜、六、七ヵ所から
出火し、小泉村より西は家蔵が共に寄り潰れ、堅い地面
と思われた市条村・観音寺村も潰家が出て、星川村から
古川・島田・前川・安田・上野曽根・牧曽根の酒田街道
沿いの村々の被害は甚大で、西野・泉も痛み、藤塚の大
庄屋堀善蔵家の石場石が四尺余も埋り、泥が湧き出た。
そのため、六日には家が潰れた者は、寝ござ・蚊帳を背
負って観音寺山に逃げ、鍋や飯米を持って菩提寺山に集
まった。
以上のような被害に対して、同年八月本間家は自分の
家宅が惣潰れし、長屋は残ったものの土蔵が三六棟痛ん
でしまったにもかかわらず、三〇〇〇両を提供した。秋
田の亀田藩や本庄藩に対しても、夫食貸や震災救助金を
施した。「三十六人御用帳」では、同年七月酒田町長人で
ある被災者が復興資金を藩から借用した。
遊佐郷代官の諏訪部権三郎は、藩に無断で郷蔵米四〇
二二俵を与え、救民した。さらに諏訪部は圧死者の出た
家族に米二俵ずつ与え、建築資金として一人へ一両二、
三分を貸与した。荒瀬郷では、小屋掛拝借金として、有
力な百姓に一両三分、小百姓に二、三分と籾米二、三俵
を十年賦無利子で貸与した(『酒田市史』改訂版・上巻)。
荒瀬郷とほぼ同様の拝借金が飛鳥村農民にも与えられた
のは先述の通りである。
平田郷、特に平田地区の農民は、明治二十七年の大地
震のような大災害とはならなかったが、津波や余震に対
する恐怖と動揺はまたたく間に広がり、民衆の心を痛め
た。諸税や村遣金、御用金等の負担で苦しむ中、自然災
害の恐怖は以後も続いた。